SNS(交流サイト)の普及により、ストーリー(物語)が分断の震源地になっている。そう警鐘を鳴らすのが『ストーリーが世界を滅ぼす』(ジョナサン・ゴットシャル著)。年間約300冊の本を読む東京カメラ部の塚崎秀雄社長は、本書をぜひ読みたい1冊として取り上げます。分断が進む時代に、私たちはどのように生きていけばよいのでしょうか。
人は「物語」によって結合してきた
前回 「『会社とは何か』 経営者を問い詰め、追い込む1冊 」 でも述べましたが、仕事における成功に必要な3要素は「知識」「技術」「運」だと思っています。今回取り上げるのは、このうち「知識」として有用で今ぜひ読みたい1冊、 『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』 (ジョナサン・ゴットシャル著/月谷真紀訳/東洋経済新報社)です。
これも前回述べましたが、経営者に特に求められるのは、社会にどう貢献するのかという主観的な「価値」を世に問うこと。言い換えるなら、社会の課題を発見して、自社なりの解決策を提示することです。その実現のために経営者は、社会の課題の把握、理解に常日頃から努めることが不可欠です。この本は、そういった視点で選んだ1冊です。
まず前提としてこの本が指摘しているのは、人はストーリー(物語)を求め、ストーリーによって結合してきたということです。それは歴史的な事実をひもといても証明されていますし、私たちの肌感覚としても分かるでしょう。同じ物語を好きになると、お互いに仲間意識を持てます。「私とあなた」ではなく、「我々」になり、仲間となるわけです。
その最たる例が、それぞれの国にある神話でしょう。この国がどうやって生まれたか、どういう英雄によって導かれたかを共有することで、同じ国民としての意識が高まる。神話は国民結合の象徴としての役割を果たしているということです。
ただし、物語には悪い点もあります。物語には盛り上がりが必要なので、必ず問題や悪役が登場します。すると、その物語が浸透することで、現実にも誰かを嫌悪したり排除したりという発想になる。しかも、ひとたびそう思い込むと、どれほど理屈に合わなくてもなかなか抜け出せません。物語は感情を揺さぶるものであり、感情は私たちの意思決定に強い影響を及ぼすからです。
実際、古今東西で差別や紛争が絶えません。その一因は、それぞれの集団が持つ物語にあると考えられるわけです。もっとも、そういう共通の敵を設定することで、仲間内の結束がいっそう強固になるとも言えます。この本の中でも、「国家とは過去に対する誤った見方と近隣の人々への憎悪によって結束した人々の集団(歴史家:カール・ドイッチュ)」との言葉が引用されていますが、今の世界情勢を見渡せば、誰しも納得するのではないでしょうか。
SNSで「物語」は分断の震源地に
近年、物語を巡る環境は大きく変わりました。SNSの登場により、誰もが物語を発信し、拡散し、容易に発見できる時代になったからです。SNS自体が悪いという話ではありませんが、これらSNSが持つ力によって、結果として物語は「大いなる結合者から大いなる分断者になった」と著者は警告を発します。
数年前から、「ポスト・トゥルース(脱真実)」という言葉がよく使われるようになりました。これは、「真実がなくなる世界」でも「真実が存在すると信じられなくなる世界」でもありません。おのおのが持つ確信が強まり、多数の「真実」が生まれる世界なのです。どんなに突拍子もない物語であっても、個人の感情に訴えるもののほうが、客観的事実より影響力を持つ世界ということです。
この本によれば、それは個々人の「確信が増した」から。ある人がAという意見を持ったとき、SNSの発展などによって、本物のエビデンスらしく見えるAに有利となる情報や同志をいくらでも探し出せるようになったことも大きいと言います。
しかもSNSの偽情報は、真実の約6倍の速さで広まるそうです。陰謀論的フィクションは嘘であるが故に完璧に作り込めるのに対して、真実は事実が足かせになり広がる力が弱まるからだと言うのです。また、Aという人が確信する真実Xが仮に反論にあったとしても、自分の代わりに誰か(例えばB)がそれに反論している情報を簡単に見つけることができます。するとそのAは、ますますXを揺るぎない真実であると確信しやすくなりますし、反論してくれたBはヒーローになれます。こうなると、AもBも、(仮に客観的事実に基づいて論理的に説明されても)Xが真実であるという確信から抜け出すことは難しいでしょう。
例えば、昨今の新型コロナウイルス禍の対応を巡って、専門家の見解は百家争鳴でした。素人の個人がどんな意見を持っても、その傍証を提供する専門家を見つけることは容易だったと思います。無数の意見を支える数多くの物語が存在し、それを見つけることで多様な確信が生まれ、確信し合った仲間内でさらに確信を深めていく…、その結果、私たちはますます分断されていったというわけです。
分断は対立の引き金になるだけではなく、誰かに操られることにもなりかねません。この本で一例として取り上げているのは、著者が「ナラティブ電撃戦」と呼ぶ2016年に米国で起きた出来事。テキサス州ヒューストンにあるイスラム教のセンターに、意見の異なる2つのデモ隊が押しかけます。両者はにらみ合いを続けた後で解散しますが、この騒動には“仕掛け人”がいました。デモを起こしたのはいずれもFacebookグループで生まれた集団でしたが、その作成者はロシア・サンクトペテルブルクに拠点を置くIRA(インターネット・リサーチ・エージンシー)というトロールファーム(情報工作組織)だったのです。
つまり、ロシアは、Facebookに嘘の物語をばらまいて人々を誘導することで、遠く離れた地でいとも簡単に騒動を引き起こせたのです。ちなみにIRAは、ドナルド・トランプが勝利した2016年の米大統領選挙への干渉も疑われている組織です。
SNSがあまりに身近な昨今、私たちも物語による分断の影響から無縁ではいられないでしょう。
「汝自身を知れ」
では、そういう時代を私たちはどう生きればいいのでしょうか。
大前提として、SNSや物語が悪という話ではありません。注記表示、表示ロジック、拡散速度など改善の余地はあるでしょうが、これらを責めるだけでは問題は解決しません。SNSはあくまでも道具に過ぎず、どう使うかという話ですし、物語は昔から人と共にあり、人をつなぐものでもあるからです。
著者は、解決のヒントが「寛容」にあると説きます。まず自分を知り、自分を疑い、他人と意見が違うことを認める「寛容」さが大事だと言うのです。また、そこで切り離すべきは「道徳的判断」であると明言しています。これはなかなかに難しいことです。「道徳的判断」は自らの価値観を構成している主要な要素ですし、「道徳家として振る舞う気持ちよさ」も失うからです。しかし、著者は、これを切り離すことで、「人間の行動に対するもっと愛ある目と、お互いに分かり合えるチャンス」が手に入ると言うのです。
具体的な例で考えると、昨今、イスラム圏にある国での女性の待遇に関する報道があります。それを見聞きすると、正直私も憤りを感じますし、何とかしたいと思います。しかしそれは、あくまでも西洋的価値観を前提として道徳的判断をしているにすぎないかもしれないのです。「その国の道徳は間違っている」と大上段に構えても、反発を招くだけでしょう。
著者は、「自分が興奮して道徳主義的な怒りの発作にとらわれていると感じたら~他人を悪者に仕立てて非人間化していると気づいたら~深呼吸して、物語を別の角度から想像する」べきだと説きます。私たちが、彼らには彼らが真実だと信じる物語があること、価値観があることを前提として、もっと深く知ろうとすれば、何か別の解決策が見えてくるかもしれません。
また、自分自身も間違った物語を信じ込んでいる可能性は常にあることを強く認識すべきだと説きます。私たちは、そもそも知識不足で視野が狭く、道徳観が偏っているかもしれないのです。頻繁に交流できる人数に制限がある以上は、同じ意見の集団に囲まれて「集団の分極化」に陥っている可能性は高いでしょう。
古代ギリシャの聖域デルフォイにあるアポロン神殿の入り口には、「汝自身を知れ」という有名な言葉が刻まれています。著者はこの言葉について、「知的生活とあらゆる社会向上計画の礎である」と説いています。物語に踊らされないために、私たちの心にも刻むべきでしょう。
これに加えて、著者は、「学術界とジャーナリズムは民主主義にまさに不可欠な役割を担っている」と言い、分断に対する解決策として、科学とメディアの役割にも期待を寄せています。その上で、学術界は大きな問題を抱えていると指摘しています。
いわく、学術界は「イデオロギー上のバイアス」が顕著であり、「集団分極化」が生まれていて、「禁じられた問いを発すると、寄ってたかって非難し、発言の機会を与えず、キャンセルし、排斥する」と言うのです。その結果として、このバイアスが進み、科学に対する大衆の信頼を損なわせている。そのため、学術界は、まずこの問題を解決する必要性があると提言しています。
学術界に身を置く著者が、こうした身内に厳しい指摘をすることは、まさに自らが「道徳的判断」を切り離したお手本ということなのかもしれません。
世界を滅ぼされないための『幸福論』
なお、「寛容」がカギという点では、実は、同じような主張をしている古典があります。1930年に刊行された、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの 『幸福論』 (安藤貞雄訳/岩波文庫)です( 「幸せのコツは無頓着、寛容、楽観 『幸福論』2大古典を読め」 も参照)。
この本が説くのは、幸福になるためには、まず寛大な気持ちを持つこと。そして世評を気にし過ぎず、できるだけ陽気に、他者や世の中に対して幅広く好奇心を持つこと。まさに「寛容」の精神に満ちた1冊です。物語の呪縛から脱するためにも、心を閉ざすのではなく、むしろ開くことが大事なのだと気づかされます。
ラッセルの『幸福論』は私のバイブル的な本です。会社の企業理念にも「寛容な世界の実現」を掲げて、自分たちに何ができるのか、日々考え、実践しているほどです。
例えば、私たちの会社は写真を扱っていますが、クリエーターである写真家は世界を見つけ出し切り取るプロです。そのプロが撮影した写真を通じて、「世の中にはこんなにきれいな場所があるのか」「こういう暮らしをしている人もいるのか」などと興味を持つ方がいるかもしれません。それで実際に行ってみて、現地の人々と触れ合うことで、世界観が変わったり偏見から解放されたりといった体験につながる可能性もあると、私は信じています。そして、そのための「自由な発表の場所」をクリエーターに提供することが、私たちの重要な役割、ミッションであると考えています。
もちろん、これは別に写真に限った話ではありません。そうやって寛容を前提に好奇心や人間関係の輪を広げていくことが、「幸福」への一番の近道なのだと思います。それは同時に、物語と対峙する大きな力にもなるはずです。
取材・文/島田栄昭 写真/鈴木愛子