「ロシアはずっと西側から情報戦の対象として扱われ、脅威を受けてきたという意識が、政権にも国民の間にも深く浸透しています」。キヤノングローバル戦略研究所研究員の吉岡明子さんが選ぶ、「ロシア・ウクライナ情勢がよく分かる本」。2回目は『現代ロシアの軍事戦略』(小泉悠著)。ロシアの被害者意識を読み解きます。

第1回「ロシア戦勝記念日 なぜプーチンは「非ナチ化」にこだわるか」から読む

西側が仕掛けた「ハイブリッド戦争」

 なぜロシアはウクライナへ唐突に侵攻したのか、そしてなぜそんなプーチン政権をロシア国民は圧倒的に支持しているのか。これは、多くの方が最初に感じる疑問だと思います。その答えを見つけるヒントを与えてくれるのが、小泉悠さんの『 現代ロシアの軍事戦略 』(ちくま新書)です。

 最近、「ハイブリッド戦争」という言葉がよく聞かれるようになりました。現代の戦争が、軍事的な衝突のみならず、政治的・経済的圧力やプロパガンダ、諜報(ちょうほう)戦、サイバー攻撃、非正規軍やテロ集団による破壊活動なども組み合わせて展開されることを指します。

 この言葉がとりわけ注目されたのが、2014年のロシアによるウクライナのクリミア半島の併合です。しかも、ロシアはこれをほとんど無血で、当初、同国の関与をあくまで否定する形で遂行しました。これがロシアの新たな軍事戦略かと大きな話題となったのでした。

ロシアのハイブリッド戦争への捉え方を詳しく解説している『現代ロシアの軍事戦略』
ロシアのハイブリッド戦争への捉え方を詳しく解説している『現代ロシアの軍事戦略』
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 ただし、2014年にロシアがウクライナで行ったのは、「ハイブリッドな戦争」ではあったものの、あくまでもロシアにとっての戦争の中心は依然として軍隊であり、軍事力こそが戦争の主役であり続けていると説いたのがこの本です。刊行は2021年5月ですが、確かに現在のウクライナ侵攻を見ても、ロシアはハイブリッドというより、古典的な意味での戦争そのものを戦っているように見えます。

 また、第2章「現代ロシアの軍事思想――『ハイブリッド戦争』論を再検討する」の論述は、軍事に詳しくない方にとっても非常に興味深い内容となっています。ここに登場するキーワードが「非線形戦争」。軍事力の衝突の場合は戦線が連なる「線形戦争」になりますが、そうではなく、情報戦や心理戦によって相手国の国民に揺さぶりをかけ、内部崩壊を狙うような手段を指すとされています。

対象は市民社会、平時・有事の区別なし

 いわゆる通常の戦争との大きな違いは2つ。ターゲットが前線の軍人ではなく、広く市民社会であるということ、そして平時・有事の区別なく、常に繰り広げられているということです。ここにこそ、プーチン政権の根本的な思考の源泉があるのかもしれません。

 小泉さんは、プーチン政権は一種の強迫観念にとらわれているのではないか、つまり、社会を徹底的に監視し、不満分子を抑え込み、若者に愛国教育をしておかなければ、ロシアの社会は西側の非線形戦争にあっさり屈し、政権が転覆させられてしまうに違いないといった猜疑心(さいぎしん)を抱えているように見える、と分析されています。ロシアはずっと西側から非線形戦争の対象として扱われ、脅威を受けてきたという意識が、政権にも国民の間にも深く浸透しているのです。

「ロシア国民の間にも被害者意識が浸透しています」と語る吉岡明子さん
「ロシア国民の間にも被害者意識が浸透しています」と語る吉岡明子さん
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 例えば、1991年のソ連の崩壊も、その後続いたロシア経済・社会の混乱も、すべて西側が情報を用いた「非線形戦争」に勝利した結果だという認識です。あるいは2003年ジョージア(グルジア)のバラ革命、04年ウクライナのオレンジ革命、05年キルギスのチューリップ革命(総称して「カラー革命」と呼ばれる)は、国民の民主化運動によって当時の政権が退陣に追い込まれた政変劇です。これもロシアの理屈から見れば、アメリカをはじめとする西側が資金や運動のノウハウを提供した「非線形戦争」の結果ということになります。

 北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大の問題もしかりです。だからロシアとしては、自衛のために戦うのだと言います。プーチン大統領は、今回のウクライナ侵攻について「ロシアには他に選択の余地がなかった」と繰り返し述べていますが、こうした意味が含まれているのです。

 ロシアのこうした言説は、多くが自国の行動を正当化するレトリックであると西側では理解されてきた側面がありますが、そうした理解は一面的であると小泉さんは指摘します。たとえそれが被害妄想的であったとしても、主観的にはロシアは西側の非線形戦争にさらされているのです。

国内での「カラー革命」を懸念

 プーチン政権が最も恐れているのは、国内でカラー革命が起こることだと言われています。西側が常にそれを狙っているという猜疑心があるからこそ、愛国教育に力を入れたり、インターネットを遮断したり、メディアに厳しい言論統制を行ったりしている。プーチン大統領の考え方では、これらもすべて国防の一環ということになります。そして、ロシア国民のプーチン政権に対する圧倒的に高い支持率も、こうした猜疑心に基づく政権側の言説と無関係ではありません。

 モスクワに住む私の友人に、西側からの経済制裁への受け止め方を聞くと、多くの場合同じ答えが返ってきます。「またロシアいじめが始まった」と。最近、「ルソフォビア(ロシア嫌悪症)」という言葉もよく用いられるようになりました。例えば、西側の企業が相次いで撤退したことについても、「私たち一般市民は何も悪いことをしていないのに、これもいつもの西側によるルソフォビアの一環だ」「今後戻ってきても、その会社の商品は絶対に買わない」と。被害者意識に支配されたまま、そこで思考停止してしまうのです。

「モスクワに住む友人は、『経済制裁はルソフォビアの一環だ』と言います」
「モスクワに住む友人は、『経済制裁はルソフォビアの一環だ』と言います」
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核攻撃という危険な賭け

 今後の戦況の大きな焦点の一つとして、プーチン大統領が核兵器の使用に踏み切るかどうかという問題があります。その点についても、この本は重要なポイントを提供しています。

 通常戦力が西側に比べて劣ることを自覚しているロシアにおいては、「エスカレーション抑止」という概念が議論されてきたとのこと。軍事衝突で劣勢に立ったとき、限定的な規模の核兵器を使って敵に「加減された損害」を与えることで、戦闘の停止を迫ったり、あるいはアメリカなどの第三国が関与してくることを阻止しようとしたりする考え方です。それでも相手が攻撃をやめない場合には、より威力の大きな攻撃を実施するとされます。

 ただし、限定的なものであっても、核使用が危険な賭けであることは言うまでもありません。アメリカのトランプ前政権下で策定された2018年版「核態勢見直し」では、ロシアがエスカレーション抑止として核の限定使用を行った場合に、アメリカも核を用いた限定的な反撃を行う姿勢が示されました。

 一方、現在のバイデン政権の対応はそこまで明確ではありません。それをプーチン大統領がどう判断するかによっては、エスカレーション抑止の概念に基づいた核使用が、現実味を帯びてくることになります。

 とはいえ、やはり一発でも使えば状況は大きく変わるはず。なし崩し的に全面核戦争に発展する可能性は否定できません。したがって、近年のロシアでは、通常兵器によるエスカレーション抑止も議論されるようになってきたとされます。また、ロシアがしきりにエスカレーション抑止をちらつかせるのは、心理戦の一環にすぎないという見方もあるようです。

 いずれにせよ、今回のウクライナ侵攻を巡るロシアの発想や行動は、一般にはなかなか理解しにくいものがあります。しかし、「軍事戦略」という観点で見ても、多分に被害妄想的ではあるものの、ロシアなりの理屈は浮かび上がってきます。日々の戦況報道の背景を知る上で、本書が絶好の解説書であることは間違いありません。

文・取材/島田栄昭 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/木村輝