SDGs(持続可能な開発目標)の中で「人権」は「環境」に勝るとも劣らないくらい重視されている。しかし、日本人の意識は圧倒的に「環境」に偏重し、企業の「人権」に関しての取り組みも世界からかなり遅れている。ベストセラー 『人新世の「資本論」』 の著者で労働運動や人権に詳しい哲学者の斎藤幸平氏は、人権を軽視している日本人は早晩そのツケを払うことになる、と警告する。その斎藤氏と 『すべての企業人のためのビジネスと人権入門』 の著者でオウルズコンサルティンググループ代表の羽生田慶介氏に、「人新世のビジネスと人権」について議論してもらった。その前編。
SDGsは企業のアヘンだ
斎藤幸平氏(以下、斎藤):私は企業のSDGsへの取り組みに対しては批判的に見ていて、「SDGsは大衆のアヘンだ」と警鐘を鳴らしています。『人新世の「資本論」』で述べたように、マイバッグやマイボトルのような小さな環境対策で満足し、真に必要とされているもっと大胆なアクションを起こさなくなってしまう。企業の環境対応が、ただのウオッシュ(見せかけ、ごまかし)になっているケースが非常に目立つのです。
一方、羽生田さんの新刊『すべての企業人のためのビジネスと人権入門』は、「アヘン」としてのSDGsのもう一つの側面を見事に明らかにしています。それは、日本ではSDGsが環境問題に矮小(わいしょう)化されていることです。本来、SDGsには17の目標があり、すべてがつながっている。にもかかわらず、日本のSDGsは環境問題ばかりに目を向け、ジェンダーや児童労働、働き方など「人権」に関わる目標の意識が低い。これでは、既存のSDGsはウォッシュにならざるを得ないわけです。
羽生田慶介氏(以下、羽生田):SDGsの目標の数で言うと、「人権」に関連する目標は「環境」と同じくらいあります。それなのに、日本人は「環境」に偏重していて、「SDGs=環境・脱炭素」と思い込んでいる人も少なくありません。広く存在する社会課題の捉え方において、日本人の感覚と世界の感覚には、ずれがあるわけです。
斎藤:SDGsに掲げられた目標は、全部やらなければならないものであり、その中から「目標7と目標13だけをやります」というのは取り組みとしては論外です。
だから、羽生田さんの本が、SDGsに本気で取り組もうとするなら、人権の問題をないがしろにしてはいけないことを強調しているのは極めて重要です。人権と環境の両者に本格的に取り組まないSDGsはすべてアヘンなわけです。
羽生田:ありがとうございます。
斎藤:日本企業が人権問題に取り組まない背景には、そもそも日本人は人権に対する意識が非常に低く、日本の社会は人権の概念が根付いていないという問題があります。
羽生田:確かに、経営者に「企業にとってこれからは人権が重要だから、何か行動をしましょう」という話をしても、人権を同和問題の話だけのように捉えている経営者がいまだに多かったり、そもそも人権というワードにピンと来ていなかったりしますね。
斎藤:日本では「人権に取り組んで何か意味があるの?」と思っている人が多いのではないでしょうか。私自身もそのことを、気候変動問題への取り組みを通じて強く感じています。結局、環境問題も人権問題ですから。
人権はすべての根幹です。気候変動で大きな影響を受けるのは、弱い立場の人々です。それは途上国の人々もそうですが、日本でも、エアコンのない高齢者が熱中症で命を落としたりしています。外で作業するような農家、清掃員や警備員のような人たちにも、大きな影響が出ます。彼らの生活をどのように守っていくかも、重要な環境問題であり、人権問題です。
だから、日本において人権という概念を、外国から輸入された意識の高い人が使っている概念ではなく、自分たちの生活を守るためにも必要な考え方としてどうやったら根づかせられるのか、僕自身もすごく悩んでいます。
羽生田:実は、なぜ日本の企業が今、人権に取り組まなければならないかを考える題材として、すごくいいデータがあります。下のグラフは、新型コロナウイルスが感染拡大する前の10年(2009年から19年)における日本国内の全産業の売上高と営業利益と純利益の推移です。ここから読み取れるのは、日本企業は「売り上げはほとんど伸びていないのに、利益は5倍にも増大した」ことです。
つまりこの10年間、企業もコンサルティング会社も、総体としてみれば「コスト削減」しかやってこなかった。ここに無理が起きているんですよ。とにかく必死にコストダウンをしたので、あちこちにいろんなストレスが生じています。
例えば、サプライチェーンにおいて徹底的にコストダウンを推し進めた結果、海外での児童労働、強制労働を助長する結果になり、日本国内でも、社員の給与が上がらないといった問題や、各種のハラスメントのほか、外国人技能実習生や外国人労働者の問題などとも深くつながっています。
斎藤:羽生田さんの本でこのグラフを見て衝撃を受けました。マーケット自体が飽和しつつある中で企業がどうやって利益を上げられるかといえば、最も簡単な方法はコストダウンです。ファッション業界で言えば、製造委託先の労働者の賃金を削るような形で、露骨な搾取が増えていった10年間だったことが、このグラフにはっきり表れています。
企業は利益を求めコストカットし、生活の苦しい消費者は安い商品を求める、という負のスパイラルによって、労働者の暮らしや地球環境が犠牲になっている。これが、豊かな日本の現実です。
株価上昇が覆い隠した「コスト削減の負の側面」
羽生田:この10年は「奪う側」と「奪われる側」の間で富の移動が行われただけで、全体の富は増えていない。結果として、利益5倍で売り上げ1.1倍というゆがんだ世界ができていきました。例えば、働く人の賃金は上がらず、日本の平均賃金は15年に韓国に抜かれ、主要7カ国(G7)ではイタリアに次いで低い状況です。
また、企業のサプライチェーンはダイエットをしすぎて不健康な状態になり、あちこちに不調が生じやすい状況になり、人権に関するリスクも高まっています。
ところが、この期間に企業の株価は上がっていった。これで「コスト削減の負の側面」が見えにくくなった面があります。企業の利益が5倍に増えているのだから、株価が上がるのは当たり前です。そこだけ切り取れば「いいじゃないか」と思えるのですが、実際には富が増えない中で弱者から強者へ富を移動させているだけであり、そこにさまざまな犠牲や「負の外部性」が生じています。
斎藤:私の周りで、日本における外国人技能実習生の問題に取り組んでいる総合サポートユニオンという労働組合があります。彼らの報告によると、企業の中には、外国から来た労働者からパスポートを取り上げ、移動の自由を奪い人権を踏みにじっているところもあります。
私も同行した争議の案件では、ある女性労働者が生活している寮に朝いきなり、会社側の人間が入ってきて、その労働者を無理やり車に乗せて、カンボジアに送り返してしまった。本人の同意は一切取っていません。会社でいらなくなったから、無理やり本国に送り返されたわけです。その女性がもし、日本の会社に対して抗議しようとしても、日本側につてもないですし、泣き寝入りするしかない。そういうことが、今の日本でも普通に行われています。
羽生田:米国の国務省は、昨年に引き続いて今年も日本の外国人技能実習生について「強制労働」や「人身売買」と表現する非難の声明を出しており、かなりの異常事態が起きているんです。
斎藤:この争議は、誰でも名前を知っている有名コーヒーチェーンに商品を卸している食品製造会社での話ですよ。実は、私たちのかなり身近なところにまで、奴隷的な労働が入り込んでいます。食品の製造とか、洋服に「メイド・イン・ジャパン」と書いてあっても、実際に作業しているのは外国人ということも少なくない。外国人技能実習生も含め、日本には、ありとあらゆるところに外国人たちが入ってきていて、その人たちの労働がなければ、もはや今の経済は成り立たない状況です。
人権を軽視していると自分たちもその餌食になる
羽生田:私たちはそうしたことを全く気にも留めないで、「安ければいいじゃないか」という社会をつくってきてしまった。それが、さっきの図表にもあった、ひたすらコスト削減をしてきた経済なわけです。
斎藤:そうしたコンサル主導のコストカット経済には、大きな問題が2つあります。まず、企業がコスト削減ばかりやっていると、イノベーションが起きにくくなります。コスト削減で儲(もう)かるのなら、新しいものにわざわざ投資する気にならないですから。
そうしたスタンスが、長期的には日本の競争力を奪いかねないし、2010年代は実際にそうなってしまった。再生可能エネルギーや電気自動車など、実体経済を立て直すためのいろんな新しいビジネスチャンスがあったのに、日本企業はそこに入っていかなかった。その結果が、今の日本経済がこれほどまでに停滞してしまった理由だと思います。まさに失われた10年でした。
羽生田:もう一つの問題は何ですか。
斎藤:私たちの身近なところで強制的に働かされている外国人たちを気にかけずに見捨てていると、めぐりめぐって自分たちも痛い目に遭うということです。日本人の多くは「自分たちはサービスを使う側だから」と高をくくっていますが、それを放置していると最終的には日本人の多くも、低賃金での労働や奴隷的な働かせ方の餌食になる、ということです。
羽生田:人権に無関心でいると、自分たちの首を絞めることになりかねない。
斎藤:もっと分かりやすく言うと、「賃金の安い外国人労働者はいっぱいいるから、あなたにもそんなに給料を払わなくていいよね」となっていく。その他の労働条件も悪化していくでしょう。結局、さまざまな形でそのツケを払わされるのは日本人の労働者たちです。というか、この10年で給料が全然上がっていないわけですから、すでにツケを払わされていると言ったほうがいいかもしれません。セクハラや職場のいじめも横行している。これは人権問題です。そう考えていくと、働いている人たちこそ、身近な人権の問題に関心を持ち、声を上げるべきです。
関心を持つと「彼らの問題と自分たちの問題は同じであり、その根幹は奴隷的な働かせ方にある」と分かってくると思うんですよ。だからこそ人権の意識を社会全体にもっと広めていかないといけないし、人権を中心にして新しい経済をつくらなければならないと強く感じますね。
その意味で羽生田さんの本は、経営者だけではなく普通に働いている人たちにも、「人権を大切にすることは、自分たちの経済を守り、雇用を守り、地球を守っていくことなんだ」という気づきにつながるじゃないかな、と思っています。
取材・文/沖本健二(日経BOOKSユニット第1編集部)
(対談後編に続く)
今ほどビジネスに「人権」の視点が問われている時代はありません。セクハラ・パワハラ・マタハラ、長時間労働などから、サプライチェーン上流の原材料採掘や海外製造委託先企業での強制労働・児童労働、さらには広告での差別的表現、AI開発時の差別的傾向、SNSの発信内容などまで、「人権」に配慮すべき領域は非常に幅広く、本業に直結している。もはや、法務部や人事部だけに任せておくものではなく、事業に携わるすべてのビジネスパーソンに、人権への理解と対応力が求められています。この一冊でその基本が学べます。
羽生田慶介(著)/日経BP/2200円(税込み)