中島佑気ジョセフ選手の読書と本についてのインタビュー。シリーズ最終回の今回は、最近読んで面白かった5冊を入り口に、その読書観に迫る。ロシア文学や民藝、現代アメリカを巡る本に引かれるのはなぜか。本は中島選手にとって、世界を広げ、他者を理解するための大切な窓でもある。

中島佑気ジョセフ
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中島佑気ジョセフ(なかじまゆうきジョセフ)
2002年東京都生まれ。東洋大学を経て富士通所属。男子400mの日本記録(44秒44)保持者。2024年パリ五輪では男子4×400mリレーで6位入賞。2025年東京世界陸上では、日本勢として1991年の高野進さん以来34年ぶりに男子400m決勝へ進出し、6位入賞を果たした。

今回、最近読んで面白かった5冊を選んでいただきました。好きなロシア文学も入っています。ロシア文学が好きな理由は?

 性格に合っているんだと思います。ドストエフスキーの『罪と罰』を筆頭に、ロシア文学はとにかく暗い(笑)。でも、その暗さを味わうことが、自分にはむしろモチベーションになるんです。主人公が困難に直面して、それでも最後は希望の光を見て成長していく。あの流れがすごく自分に合っている。

 僕は、何もかも満たされていると野心が湧いてこないタイプです。少し不自由さがあって、何かが欠けているほうが力を出せる。だから、貧しい人や悲劇的な主人公の物語に引かれ、逆境に立ち向かう姿に心を動かされるんです。陸上も、自分の体の限界に立ち向かう競技。作品の主人公に、自分を重ねているのかもしれません。

そのロシア文学で挙げられた一冊が、トルストイの『 アンナ・カレーニナ 』(トルストイ著、木村浩訳、新潮文庫、画像とリンクは上巻)。選んだ理由は?

『アンナ・カレーニナ』(トルストイ著、木村浩訳、新潮文庫、画像とリンクは上巻)/画像クリックでAmazonページへ
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 悲劇的な物語ですが、とにかく情景描写が豊かなんです。当時のロシアの人々の暮らし、自然の風景、貴族や農民の生活が、読んでいるとまじまじと頭に浮かぶ。文章から情景を立ち上げる「イメージ力」を養えたと思います。 第2回 でもお話しした、レースでの感情までイメージする力にもつながっています。食事を忘れるくらい没頭して、タイムマシンに乗ってその世界を観察者として眺めているような気分になれました。

読書で「没頭」できる時間は、競技にも影響する?

 競技に夢中になれているときが、最も高いパフォーマンスを発揮できるんです。走っているときに意識が入り込みすぎると、動きが硬くなる。だからできるだけ、無意識で夢中のまま走りたい。その感覚を、陸上以外で味わえるのが読書だと思います。

 四六時中、競技のことばかり考えていてもどうしようもないですし、あまりよくないと思っているんです。読書に没頭している間は、陸上のことも、自分が何者であるかということも忘れられる。そうした気分転換も、僕にとっては読書の大きな役割です。

「できるだけ無意識で夢中のまま走りたい。その感覚を、陸上以外で味わえるのが読書です」
「できるだけ無意識で夢中のまま走りたい。その感覚を、陸上以外で味わえるのが読書です」
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描写が素晴らしく、料理と器を想像するのが楽しい歴史小説

2冊目は朝井まかてさんの『 グロリアソサエテ 』(角川書店)。美術評論家の柳宗悦や陶芸家の河井寛次郎らが、日用の器や布の中に美を見いだし、「民藝」の思想を育んでいく物語ですね。

 3年ほど前に一人暮らしを始めて、家具を揃えるとき民藝にすごく引かれて。母が家具にこだわる人で、木の温もりを感じられる家具に囲まれて育ったからだと思います。海外遠征が多いので、家に帰ったときは日本的なものを味わいたくて、日本の民藝家具を集めるようになりました。柳宗悦の『 民藝とは何か 』(講談社学術文庫)も読みましたし、旅館や温泉に行けば、その土地の家具を眺めるのも楽しみで。今では趣味の1つです。

『グロリアソサエテ』(朝井まかて著、角川書店)/画像クリックでAmazonページへ
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 そんな民藝への入り口となった柳宗悦が、この小説では主人公の少女の奉公先の主(あるじ)として描かれます。柳さんの本を読むと、その美学は禅や仏教の影響が色濃く、美を厳しく突き詰めているように感じます。だから、俗を超えた厳かな人物を想像していたんです。ところが小説を読むと、意外なほど人となりが生き生きと見えてきて面白かった。語り手は柳家に奉公する女性なので、家の内側をのぞいているような感覚も楽しくて。

 特に引き込まれたのが、料理の描写です。知らない日本料理が次々に出てきて、「つくってみたい!」と思うものがいくつもあった。それを柳さんが集めた器に盛りつける。その料理と器を想像するのが本当に楽しかったんです。夏目漱石のような、私小説の趣も感じました。練習がオフの日にスマホの電源を切って遠くに置いて、 1日で一気に読み切りました。

3冊目の『李朝を巡る心』(李鳳來著、新潮社〈工芸青花〉)も、陶芸につながる本ですね。

『李朝を巡る心』(李鳳來著、新潮社〈工芸青花〉)/現在、品切れ。古書店、インターネット書店、図書館などで入手・閲覧できます
『李朝を巡る心』(李鳳來著、新潮社〈工芸青花〉)/現在、品切れ。古書店、インターネット書店、図書館などで入手・閲覧できます
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 学生時代、日本陸上競技連盟のプロジェクトでお世話になったスポーツ心理学者の先生と食事に行ったときにプレゼントしていただいた本です。著者の李鳳來さんは、南青山で朝鮮の古美術を扱うお店を経営されている方です。

 民藝は、もともと「下手物(げてもの)」。美術品ではなく、どこにでもある、ありきたりの日用品を指した言葉でした。それが柳宗悦によって見いだされ、「用の美」を備えたものとして「民藝」と呼ばれるようになった。つくった職人さん自身は、それほど美しくつくろうとは思っていなかったかもしれない。でも、それを気に入って買う人がいて、そこにさまざまな物語が生まれる。

 この本は民藝そのものを正面から扱った本ではないのですが、食器の写真が載っていて、その器を誰が、どんな経緯で買ったのかが書かれているんです。一つ一つの器にそれぞれの物語がある。それが人間の本質を映しているようで、すごく気に入っています。

4冊目は、アイン・ランドの『 水源 』(アイン・ランド著、藤森かよこ訳、ビジネス社)。1943年に発表されたアメリカ小説です。これを選ばれたのは?

 アメリカでは保守的な立場の人々にも読まれていて、イーロン・マスクも愛読しています。アメリカ社会の分断や、テック業界の加速主義を理解するうえでも役に立ちました。

 見方によっては賛否の分かれる思想的側面もありますが、政治的な部分はいったん置いて、純粋に小説として引かれました。特に、主人公の建築家ハワード・ロークが自分の意志や美学をどこまでも貫いていくところに。陸上は孤独な戦いです。誰も助けてくれない。だからこそ、誰に何を言われても自分を最後まで貫くロークの姿勢には強く共感するし、それは、陸上でも大事な部分だと思いました。

 分厚くて、読み終えるのに1カ月はかかりました。それでも面白くて、心に響いた言葉はノートに書き留めたんです。読んだ直後は、その哲学が自分に染み込んでいる感じがする。でも、しばらくすると迷いが生まれたり、落ち込んだりする。そういうとき、ノートを読み返しています。

『水源』(アイン・ランド著、藤森かよこ訳、ビジネス社)/画像クリックでAmazonページへ
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最後は、哲学者・千葉雅也さんの『 アメリカ紀行 』(文藝文庫)ですね。

 まさに今読んでいる最中なのですが、手に取ったのは、僕自身が米国のコーチのもとに練習の拠点を移したことがあるから。米国でしんどかったのは、言語以上に文化の違いでした。あちらではみんなが外向的すぎて、日本では外向的とされる人でも内向的に見えるぐらいになる。僕も、自分が小さくなったように感じました。州によっても価値観が違いすぎるので、最初は理解が追いつきませんでした。

『アメリカ紀行』(文藝文庫)/画像クリックでAmazonページへ
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 この本には、千葉さんがアメリカで感じた戸惑いが日記のような形でつづられていて。日米のコンビニの違いのようなささいなことまで含めて、共感する部分が多いんです。自分の経験を言葉にしてもらえた感覚で、もっとアメリカを社会学的に理解したいという気持ちが強くなりました。

本などからもアメリカを知ることは、陸上大国のアメリカ人選手と戦うために大事なことですか?

 外国人選手の考え方を理解するのは大事だと思いますね。走る前に相手と話すと、自信ありげに見える選手でも実は不安なんだなと分かったりする。あちらはもともと楽観的で、走る前は自分を大きく見せようとする。逆に自己分析の力は、むしろ日本人のほうが優れていると感じることもあります。

 相手を理解して適応していく。それは読書によって培われる力でもありますし、競技においても大きな武器になると思います。僕はケガも多くて1年ほどで日本に戻りましたが、機会があれば、競技を続けながらアメリカの大学院で学びたいという思いもあります。

「相手を理解し、適応する力は読書で培われる力でもあります」
「相手を理解し、適応する力は読書で培われる力でもあります」
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こうした本は、どうやって選んでいるのですか。

 書店にはよく行きます。手に取るのは古典が多いのですが、トレンドも追いたくて。書店に入ると、話題の新刊が平積みになっているところをのぞきます。そこにも手を伸ばしますし、ビジネス書もチェックしています。古典を軸にしつつ今はやりの本も読む、というスタイルです。

 『グロリアソサエテ』は、NHKの番組『英雄たちの選択』で柳宗悦が取り上げられていて、そこに出演されていた朝井まかてさんが執筆したと知ったのがきっかけでした。『水源』は、海外の記事で見かけて手に取りました。

中島さんは本を一冊ずつ読み切るタイプですか? それともさまざまな本を併読するタイプですか?

 基本は、一冊を読み終えてから次に移ります。ただ、ジャンルがまったく違えば、並行して読むこともある。小説とビジネス書なら同時に読めますが、小説と小説は難しいですね。

 陸上の合宿に本を持っていくのは、たぶん僕くらいです(笑)。この前の合宿でもチームでルームシェアをしたのですが、みんなでゲームやショッピングをして楽しみつつ、自分の時間もつくって読んでいました。

競技者としての今後の目標を教えてください。

 まずは、2026年9月19日からアジア競技大会が32年ぶりに愛知・名古屋で開かれます。この自国開催の舞台でしっかり優勝したい。そして2年後の2028年に開催されるロサンゼルス五輪で金メダルを取る。それが目標です。ぜひ応援、よろしくお願いします!

愛知・名古屋2026アジア大会、さらに2028年ロス五輪での金メダル獲得を目指す(写真:cFujitsu)
愛知・名古屋2026アジア大会、さらに2028年ロス五輪での金メダル獲得を目指す(写真:cFujitsu)
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取材・文/高島三幸 構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子