「伝説のバンカー」と呼ばれた男がいる。その名は「大櫃(おおひつ)直人」。みずほ銀行の常務執行役員を務めた人物だ。NHKで放映された『プロフェッショナル 仕事の流儀』で大反響を呼んだ“リアル半沢直樹”の初の著書『「伝説のバンカー」と呼ばれた男 スタートアップを圧倒的に成長させる仕事術』が発売になりました。本書の抜粋・再構成でお届けする第2回は、家計簿アプリを成功に導いたマネーフォワードの辻庸介社長について。
メルカリの山田さんと同じくらいの時期に出会い、その成長に伴走したのが家計簿アプリなどを展開するマネーフォワードの創業者、辻庸介さんだ。
辻さんはマネックス証券時代に米国の大学院に留学した後、自分の手持ちの資産が常に把握できるようなアプリを開発しようと一念発起し、会社を辞めて2012年に起業した。VCから紹介を受け、私がオフィスを訪ねたときはまだ10人前後の小所帯だった。
辻さんは当初、自社の財務情報を開示することに対して極めて警戒心が強かった。「テレビCMを打ちたいので融資してほしい」との相談を受けたため、「それでは決算書を見せてください」と言っても、なかなか出してくれない。類似のサービスを提供するライバル会社に漏れることを恐れていたようだった。
「普通は銀行にお金を貸してほしいなら、自分から決算書をそろえてお願いしてくるもんやけど……」
そう思いながら何とかなだめすかし、外部にも絶対に漏らさないことを約束して、いざ決算書を見せてもらったところ、売り上げはまだ小さく、損益はもちろん赤字だった。「なんや、こんなに小さいんか」とずっこけたのを記憶している。
それでも最終的に約4億円の融資を実行したのは、家計簿アプリを広めて日本人の資産形成に貢献したいというマネーフォワードのミッションや、辻さんの誠実な人柄に魅力を感じたからだ。
マネーフォワードのサービスの革新性は「アグリゲーション」と呼ぶデータの集約技術にある。それまで自分の資産の全体像を把握するためには、銀行や証券口座、クレジットカードのホームページなどを一つ一つチェックし、残高や利用明細を確認するしかなかった。マネーフォワードのサービスは多くの提携機関からそうしたデータを自動取得し、1つにまとめて提示してくれる。
辻さんからは後になって、「本当に融資してもらえるんだと喜ぶと同時に、もしうちが失敗すると、みずほさんの今後のスタートアップへの融資の姿勢が厳しくなるかもしれないとも感じました。責任重大だなと身が引き締まる思いでした」と打ち明けられた。
マネーフォワードは2013年に法人向けのクラウドサービスも始めた。私は自分の知り合いの経営者や税理士などをかたっぱしから紹介し、辻さんがあいさつに出向く際にも一緒に出かけた。
私は支店の部長だったので、銀行の車で移動していた。一方、辻さんはタクシー代を節約するために、いつも電車を使っていた。タクシーの代金を払うたびに「いまのうちの売り上げの0.何%だな」などと考えてしまい、とても使う気になれなかったらしい。
真夏の暑い日、都心の交差点などで待ち合わせをしていると、タオルで汗をふきながら辻さんが小走りでこちらに駆け寄ってくる。そんな姿になんとも言えないひたむきさを感じたものだ。
後から聞いた話だが、辻さんは電車さえ使わず、自転車で移動していたことも多かったという。リュックサックに着替えを忍ばせ、早めに待ち合わせ場所の近くに到着し、トイレを探してそこでスーツに着替えていたそうだ。
そんな苦労の末、マネーフォワードはメルカリより約1年早い2017年9月に東証マザーズ上場を果たす。家計簿アプリの利用者は2026年2月時点で1800万人を突破し、若者を中心に資産形成に欠かせないツールになっている。
私は辻さんに個人的な恩義も感じている。辻さんがイベントなどで出会ったみずほの役員に「大櫃さんのようにリスクを取ってスタートアップを一生懸命応援してくれる人がメガバンクにいるのはうれしい。そういう人が偉くなってくれるといいなと思っています」と盛んにアピールしてくれたからだ。
ただ、辻さんのほめ方はちょっと変わっていた。みずほのお偉方に対し、「最初のうちは大櫃さんは銀行員としてはすごく頭が悪いと思っていました」と説明するのだ。
「大企業からの新規融資を獲得してきたら銀行では評価されるんでしょうけど、僕たちみたいに返済リスクのあるスタートアップに融資しても誰もほめてくれない。大櫃さんの行動はリスクとリターンが全然見合わない」というわけだ。
私はそんなふうに考えたことが全くなかったので「辻さんみたいな頭のいい人にはそう見えるんやなあ」と興味深く感じたことを覚えている。
大櫃直人著/日本経済新聞出版/1870円(税込み)

