今の時代に、漢文教育はなぜ必要なのか――これは繰り返し話題になるテーマで、私自身、研究会などで話をするなかで漢文教育不要論に出合うこともあります。
確かに漢文は、「勉強すれば、二年後、三年後に役立つよ」というタイプの学びではなく、SNSなどで即座にレスポンスすることが求められる今のような時代には、意義が理解されにくい面があることは否めません。
でも、だからこそ、漢文の持つ魅力を引き出す授業を行い、その面白さで生徒たちを惹きつけていきたい。そして、必要な力をしっかり育てていかなくては、と思うのです。
現代語訳では味わえない漢文の面白さ
では漢文の魅力とは何でしょうか。
まず素材自体の持つ魅力が挙げられるでしょう。コンテンツとして文句なく面白い。例えば、『史記』で描かれる二人の英雄・項羽と劉邦の生きざま、「義」を取るか「実」を取るかの対照的なリーダー像、あるいは「完璧」や「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」など故事成語の成り立ちの物語、その舞台に浮かび上がる人間模様…時空を超えた広がりを持つストーリーがスピーディーに展開していき、ワクワクしますよね。
でも、面白さを味わうだけなら、現代語訳で十分なわけです。漢文で読まなくても、コンテンツとしての面白さは伝わってきますし、文化にも触れられる。
では、あえて漢文として読む意義はどこにあるのでしょうか。漢文の訓読法を学び、漢文を読むことを通してしか触れられない漢文の魅力が存在するのでしょうか。
その答えは、漢文の「言葉」そのものにあると私は考えています。「言葉」に着目したときに見えてくる漢文の魅力――それは、無駄を極限までそぎ落としたことによる洗練された簡潔さや力強さであったり、一つひとつの漢字の持つ意味の広がりであったり、訓読の歴史が育んできた日本の言語文化の奥深さであったり…。そして、何よりも、漢文が今私たちの使っている日本語に深く根差し、思考や文学を深めるための土台となっていること――なのではないでしょうか。
そこで今回はまず、漢文の持つ「言葉」そのものの魅力に気づかせてくれる2冊の本を紹介したいと思います。
漢文は日本語として読まれてきた
1冊目は『 漢文入門 』(前野直彬著/ちくま学芸文庫)。1968年に別の出版社から刊行され、2015年に版元を変えて復刊し、現在も読み継がれている名著です。
そもそも漢文とは何なのか、という問いからこの本は始まります。
例えば、杜牧の唐詩『江南春』には「水村山郭酒旗風」という一句があります。私たち日本人はこれを「スイソンサンカクシュキノカゼ」と日本語で読みます。
中国語で書かれた詩なのだから、本来ならまず中国語で読み、それから日本語に翻訳しなくてはならないはずですよね。ところが、私たちは中国語をいきなり日本語として読んで、意味をくみ取ることができる。ここに漢文の本質があると著者は指摘します。
つまり、漢文訓読とは、もとの中国古代の文章を返り点や送り仮名などの最小限の補いによって日本語にしてしまう古代人の知恵、システマティックな翻訳術なのです。こんな言語文化を持つ国は世界でも類を見ないでしょう。
本書には、飛鳥・奈良の時代から先人たちが、漢文を日本語として読むために、創意工夫を重ね、試行錯誤を繰り返してきたことが書かれています。日本人が漢文をどう読んできたのか、漢文が日本の言語文化にどのように入ってきたのか、その影響下で日本の言葉や文化がどう変化し発展してきたのか。それらが訓読ルールの変遷をたどることで明らかになっていく。その面白さを味わってもらえたらと思います。
この本は、漢文を勉強中の高校生や大学生にぜひとも読んでもらいたい一冊ですが、実は国語の先生方にもお薦めです。
例えば、古文なら「死ぬ」という動詞を使うところで、漢文の訓読では「死す」と読みます。本書によれば、この「死す」という読み方の発生は江戸時代。平安時代には、貴族や知識人によって柔らかく雅やかな和語で、わりと自由に読まれていました。漢文が一部のエリートだけでなく広く読まれるようになった江戸時代には、訓読の方法にも大きな変化が生まれます。
その一つが、皆に読みやすくするために送り仮名をなるべく減らして簡潔にしようとする動きです。この流れのなかで、古くは「死にき」「死(みまか)りぬ」などと読まれていたのが、一様に「死す」と読むようになったといいます。
授業の教材の中に「死す」が出てきたところで、こんな話題で生徒たちと話ができたら、きっとすてきな時間になるのではないでしょうか。
漢字とルビが生み出す言葉の面白さ
漢文訓読で、文脈上の意味、つまり「その文でこの字が担っている意味」を汲み取って、意訳的に和語を当てて読むことを「意訓」と言います。私自身は、このような字義(漢字の意味)をダイレクトに受け取り、文脈をふまえて読みは後から与えるという漢文訓読術を、生徒たちの今につなげられたらいいな、と考えています。
例えばゲームキャラクターの技のネーミングや独創性にあふれたキラキラネーム、あるいはJ-POP(ジェイポップ)の歌詞やライトノベルの中にも散見する、字義をギュッと凝縮し、そこに自由闊達にルビを当てた言葉たち。常用漢字の読みからは大きくはずれてはいますが、意味と響きの両面から、伝えたい思いやイメージを軽やかに表現しています。生徒たちが慣れ親しんでいるこれらの表現は、実は漢文訓読という文化の地平にあるのです。
昔の人たちは案外自由に漢字を読んできたんだよ、というところから展開していったら、きっと面白い授業ができる、そんな気がしています。
キティちゃんの顔には、なぜ口がないのか
次に、言葉が思考の入り口になることを教えてくれる『 漢文力 』(加藤徹著/中公文庫)を紹介します。著者によれば、「漢文力」とは、「漢文を読み、そこに展開されている古人の思索を追体験することによって身につく力」のこと。
この本を開いた読み手は、なんとも突飛な、しかし本質を突いた、いくつもの問いを著者から投げかけられることになります。例えば――
「キティちゃん」の顔には、なぜ口がないのでしょう?
読み手は、その問いの答えを探して、古典をひもとき、漢文的な思考を積み上げていくことになるのですが、考えてみれば、このプロセス自体「漢文力」を鍛えることそのものです。
実はこの問いの直前に、「魅」という漢字の成り立ちが説明されています。いわく「魅」とは、「未だ形をなさず姿がよく見えぬモノノケ」で、「魅力」は、見えない妖怪の持つ怪しい力のことである、と。
かわいい子猫のような顔をしたサンリオのキャラクター、ハローキティ。子どもたちにも大人気のキティちゃんに口がない理由は、「魅」にあります。口がないほうが、「子供は表情を自由に想像して、お話を楽しめる」と著者は述べます。口がないから、自分の感情を投影して遊ぶことができる。そして同時に「魅」は豊かに遊ぶ力も育んでいる。これが「『未完成』の『魅』のちから」なのです。
「曖昧でドロドロとした状態のときが、いちばん力がある。これを漢文では『渾沌、七竅(しちきょう)に死す』と言います」と、著者はこの話を『荘子(応帝王篇)』の寓話(ぐうわ)へと続けます。
この故事が伝えるのは、ありのままのものに対して、無理に形作ろうとすると、本質が損なわれて死んでしまうということです。
キティちゃんの顔に口を描いてはいけない。目と耳と鼻だけでいい。「『キティちゃん』の顔に七つ目の穴である『口』をあけると、キティちゃんの魅力は死ぬ」。この寓話の渾沌が七日目に死んでしまったのと同様に。
この「魅」は、筑附(筑波大学附属高等学校)の「自主・自律・自由」という校是にも通じると私は思っています。いい塩梅の「あそび」があって、その中で生徒が主体性を育んでいくところ、在学中に目に見える花や実を見せろとせっつくよりも、卒業後も力強く伸びていくための太い根を張るのを大事にするところ。私は筑附の中によく「混沌」を見かけます。
このように、今の問題と古典との間を行き来することで、読み手は、中国の古代に書かれたものと現代とが地続きであることを実感します。そんな読書体験をさせてくれるのが、本書の「魅力」だと思います。
『箱男』が揺さぶる「自分」という存在
3冊目は漢文を離れて、私が大学時代に出合って衝撃を受けた安部公房の『 箱男 』(新潮文庫)を紹介したいと思います。
主人公は、段ボールを頭からかぶり、箱の小さなのぞき窓から外界を見つめながら街をさまよう「箱男」。
段ボールをかぶることは、外界との接触を断って、他者の視線や評価から逃れる手段です。でも、「箱男」は同時に、安全な場所から一方的に世界を観察する者であろうとする。この矛盾した欲望は今を生きる人なら誰もが持っているものでしょう。
読み手としての私は、初めのうちは「箱男」の観察者です。ところが、途中から偽者の箱男が現れ、箱をかぶりたい人が登場し、語り手が入れ替わり、日記の記述者が誰なのかが分からなくなる。こうなると、もう観察者ではいられません。
読み手の私はいつの間にか内部に引き込まれ、本というのぞき窓から世界を見る人になっている。
「箱男」は自分ではないか――そう気づいたときの衝撃。「本」とそれを読んでいる「自分」との関係がかき回され、「自分」という存在がグラグラ揺らいでしまう。とにかくそれまでに味わったことのない感覚でした。
そして、今、読み直して感じるのは、差別的な発言や誹謗(ひぼう)中傷が飛び交うノイズに満ちたSNS上でのやり取りからは距離を置き、その外側に身を置いて観察者でいるつもりでいても、すでに中に入ってしまっているのかもしれないということ。
1973年刊行の作品ですから、当時は権力と権力、あるいは権力者と周りの人々の関係みたいなところから読むこともできたのでしょう。いろいろな読み方ができる作品だと思います。
今を生きる皆さんが読んだら、いったい何を感じるのか。生徒に手渡したい一冊です。
安部公房の短編と故事成語で物語をつくる
最後に、安部公房の「良識派」と漢文を組み合わせた物語創作の授業を紹介したいと思います。
「良識派」は教科書にも掲載されているショートショート。安部公房の掌編をまとめた作品群「種のない話」(『安部公房全作品15』新潮社、1973年所収)の中の一編です。
ネコやイタチの脅威におびえていた野生のニワトリたち。そこへ人間が現れ、金網付きの家を建ててやろうと提案します。一羽のニワトリが「話がうま過ぎる」と主張するも、事なかれ主義の“良識派”のニワトリたちがその一羽のニワトリを排除し、ニワトリたちは自らオリの中に入り自由を失ってしまう、という風刺に満ちた寓話です。
教室では「良識派」の読解授業はあえて行わず、その代わりに漢文の「漁夫之利」や「蛇足」などを取り上げます。そして、前後の漢文もあわせて考察することで、そこに込められた「無意味な争いによって、本来得られるはずの利益を失ってしまう」といった共通の寓意を読み取ります。その上で、「漢文の故事とその前後の文章を参考に、現代版の具体的なバッドシチュエーションを設定し、安部公房の『良識派』が寓話として挿入されたショートストーリーを作ってください」という課題を出します。
グループに分かれ、まずは故事成語を参考に「良識派」の寓意を考察。創作につなげるために、生徒たちは自力で「良識派」を深く読み込み、その意味するところを読み解きます。それを具体的な現代社会の問題と重ね合わせ、「人間」「ネコやイタチ」「一羽のニワトリ」「良識派のニワトリ」「金網付きの家」に何を仮託するのかを考え、実社会における教訓を捉えて、「良識派」の寓意を活かして今の問題を解決する物語を創作するのです。
考えて、議論して、また考える。みんなで思考を深め、一人で考えるだけではたどり着けない、もっと先へ行ける、そんな授業を目指しています。原発受け入れに揺れる村民の対立、経営の危機に瀕した会社に持ち込まれたうま過ぎる話…現代に起こり得る設定の下で、自分の頭で考えず全体の判断に同調する多数派や、黙殺される少数派の姿を描き出し、非常に面白い作品集ができあがりました。
安部公房の作品は鋭い寓話性を持っているので、この「創造的読解」によって、古代中国から脈々と受け継がれる“寓話”という文学の「物語る力」の大きさを生徒たちは体感し、表現活動を通して自ら体現してみせてくれます。
この授業の後に安部公房の別の作品を紹介すると、興味を持って手に取る生徒が必ず現れます。授業を通して生徒の読書を広げていけたらいいなと思います。
取材・文/平林理恵 構成/南浦淳之(日経BOOKプラス) 写真/稲垣純也
先生たちに聞いた人生を支える一冊
連載「名門校の推薦図書」をまとめた書籍です(※筑波大学附属高校・畑綾乃先生の記事は収録されていません)。各校の先生が、生徒に薦めたい本や授業で扱った本、自身の愛読書について、学校の特色やエピソードとともに紹介しています。
【掲載校】開成/灘/聖光学院/渋谷幕張/広尾学園/豊島岡女子学園/フェリス女学院/国際基督教大学(ICU)高校
平林理恵著、日経BOOKプラス編/日経BP/1760円(税込)









