都立の高校と中高一貫校を経て筑波大学附属高等学校(筑附)に着任して9年目。今の自分を形づくるきっかけとなった本を、まずは紹介したいと思います。

 学校の先生になりたい——と思い始めたのは小学生の頃。母が小学校の、父が大学の教員だったこともあって、両親の友人や家に来るお客さまなど、身近にいた大人の多くが先生という環境で育ちました。その中で、先生という職業の面白さもしんどさも、そして人の成長に寄り添えることの喜びも、ごく自然に見聞きするようになりました。そして、いつの間にか自分の将来と重ねるようになりました。

 中学生のときには「国語の先生になる」と、教科まではっきり決めていました。国語はずっと好きな科目でしたが、この決断に最も大きな影響を与えたのは、小学校時代からの読書経験だったように思います。

畑 綾乃(はた あやの) 筑波大学附属高等学校 国語科教諭
畑 綾乃(はた あやの) 筑波大学附属高等学校 国語科教諭
大阪府立茨木高等学校、大阪教育大学卒業、および同大学院修士課程修了。東京都立高校教諭を経て、現職。専門は中国先秦思想、漢文教育。全国漢文教育学会幹事。都立高校教諭時代には、全国高等学校進路指導協議会進路学習教材検討委員、東京都教育委員会教育研究員、中高一貫教科指導教材開発研究委員等を務める。他にもNIE実践研究、美術と国語の教科横断等、広く国語教育研究、教材研究を行う
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心をつかまれた宮城谷作品との出合い

 どのような本を読んできたかというと、歴史小説にどっぷりはまっていました。面白さに目覚めたのは小学校高学年で、司馬遼太郎や池波正太郎、山岡荘八を夢中で読みました。
 その後、陳舜臣の作品に触れたことで、それまで日本を舞台とした歴史小説に向かっていた興味が、中国の歴史を題材とした小説へ移っていきました。そして出合ったのが古代中国を舞台にした宮城谷昌光さんの歴史小説でした。

 最初に読んだのは、『 夏姫春秋 』(講談社)でした。大国に挟まれた小国・鄭に生まれ、その美貌ゆえに国家を揺るがす争乱に巻き込まれていく夏姫。
 関わった男性を次々に破滅に追い込んだ“悪女”と評されることの多い夏姫が、この作品の中では、運命に翻弄されながらも、必死に生きようとした一人の血の通った女性として描かれています。
 中学生の私はすっかり心をつかまれ、それから宮城谷作品を次々と読むようになりました。

 私にとっての宮城谷作品の大きな魅力の一つは、歴史の授業では決してメインに扱われることのない人物にスポットを当て、その人の生きざまをダイナミックに描いている点です。
 もう一つは言葉の魅力。平明な和語と、漢文訓読調の力強い響きを巧みに融合させつつ、ここぞの場面では筆を抑えて余白に語らせるところに独特の風格があります。身体感覚に根ざした漢字選びや、一字の成り立ちと原義に立ち返る叙述が知の世界を広げてくれます。古代人の精神や世界観そのものを言葉で再構築して、私たち現代の読者に届けてくれます。
 さらに言うと、宮城谷作品の多くが、思想家たちが次々に登場した先秦時代を舞台としていることも、先秦時代が大好きな私にとっては魅力でした。

 宮城谷さんの作品はその後もずっと読み続けていて、紹介したい本を挙げたら切りがないのですが、その中から、初めて中国の歴史小説を読む人にもお薦めの短編小説『 沈黙の王 』(文春文庫)を紹介したいと思います。

『沈黙の王』(宮城谷昌光著/文春文庫)
「『沈黙の王』(宮城谷昌光著/文春文庫)は、初めて中国の歴史小説を読む人にもお薦めしたい短編小説です」 ※画像のクリックでAmazonページへ

言葉を持たなかった王の物語

 主人公は、後に商王朝の王・高宗武丁となる少年「子昭」。子昭は生まれつき言葉が話せず、王子でありながらも王位を継ぐ者としてふさわしくないという理由で、王宮から追放されてしまいます。
 物語は、身分を隠し、苦労を重ねながら進む子昭の「ことばをさがす旅」を軸に描かれています。あるとき子昭は、自分の心の声を完全に聞き取ることができる男と出会い、彼の協力の下、話すだけで消えてしまう言葉ではなく、「目にもみえることば」、すなわち文字を作ることを決意します。
 そして、22代目の商王となった子昭(武丁)は、「象(かたち)を森羅万象から抽(ひ)き出せ」と命じ、たいへんな作業を経て、中国で初めて文字を創り出すのです。
 このセリフひとつとっても、「象」を「かたち」と読ませ、「抽」に「ひ」とふりがなを付けるといった、著者の言葉へのこだわりが感じられますよね。そんな点にも注目して読んでもらえたらと思います。

 短いけれどもストーリーは壮大。言葉を持たなかった「沈黙の王」は文字を生み出したことで、王朝を全盛期へと導く名君となります。
 そして、ここで生まれた文字がやがて日本へ入ってくる。自分とのつながりを考えながら読むと、歴史小説は一段と面白くなります。

中国の古代思想にのめり込んでいった高校時代

 中国の歴史小説を読みまくった中学時代を経て高校生になると、中国の古代思想への興味が膨らんできました。
 あの頃、特に面白いと感じたのは老子や荘子。母校が自由な校風だったこともあり、ルールに縛られず本来の自分らしく生きるという「老荘思想」が、感覚的にも自分にフィットしました。それで生活にその思想を取り入れることを考えていました。

 そして、大学生になってから関心を持つようになったのが墨家です。
 墨家は、儒家たちの「仁」を「差別愛」であると批判して、無差別平等の「兼愛」を唱えました。また、侵略戦争を否定する「非攻」を主張する一方で、城を守るためのノウハウや防衛のための兵器の開発と製造などについては、非常に高い技術を持っていたとされています。

 ところが、紀元前5世紀頃には一大勢力を誇っていた墨家が、秦の始皇帝による統一を前に、歴史の表舞台から忽然(こつぜん)と姿を消してしまう。再登場するのは清朝末期で、その間の消息はまったくわかっていないのです。
 この謎の多さに興味を持ち、資料に当たる中で出合ったのが、酒見賢一著『墨攻』でした。

『墨攻』(酒見賢一著/新潮文庫)
「『墨攻』(酒見賢一著/新潮文庫)は、墨家思想の魅力と『守るときに必要な真の強さ』を鮮やかに描き出した小説です」 ※本書は多くの書店で在庫が確認できません。古書店やネット書店で中古品が入手できることがあり、一部図書館で閲覧できる場合もあります
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『墨攻』が教えてくれた「守るときに必要な真の強さ」

 主人公は、墨子教団から小国・梁の小城防衛のためにたった一人で派遣された革離。敵の軍勢は2万、梁の手勢は数千。革離は軍事知識と技術で、防衛のための武器を作り、小城を強固な城へと変貌させ、指揮系統を構築し、全ての村民を訓練して兵士に仕立て上げます。あらゆる指示を一人で出し、不眠不休で奮闘するのです。

 徹底的に守り抜くことを「墨守」といいますが、革離は敵の攻撃から城を守るために、敵の心理を読んで先回りし、わなを仕掛けて敵の攻撃力をそぎ落としていく。強固な守りのシステムで能動的に対抗するのです。こちらから攻撃はしませんが、相手からの攻撃に屈することも絶対にしない。大事なものを守るときに必要な真の強さとは何かを考えさせられる一方で、「非攻」がはらんでいる矛盾も浮かび上がらせますよね。「墨守」をもじった題名の「墨攻」は、それをうまく伝えているように思います。

 私はこの本で、墨家思想全体の面白さや実践的な行動力に触れたことがきっかけで、墨子をテーマに卒論を書き、大学院でも墨子の研究を続け、修士論文も書きました。

 そして今は、墨家の実践を重んじる「行動こそ本音」という考え方を行動の指針にしています。「じゃあ実際どうするの?」と自分自身に常に問いかけ、行動で本音を示す生き方をしたいなと思っています。

「本当に守るべきもののために、どう行動するのか。その答えを墨家思想から学びました。今の私の生き方と教えは、そこから始まっています」
「本当に守るべきもののために、どう行動するのか。その答えを墨家思想から学びました。今の私の生き方と教えは、そこから始まっています」
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思考するための漢文の授業

 授業では、中国の古代思想は高校3年の漢文で扱います。
 筑附の生徒たちは知的好奇心が旺盛で、考えることが好きな子が多いので、漢文の授業も、読んで理解することにとどまらず、漢文で読んだ内容を使って思考することを中心に置いた授業を行っています。

 まず、諸子百家と呼ばれる思想家についての漢文で書かれた文章を読み解き、どんな主張なのか、何を大切にしているのかなどを分析します。
 大切なのはここから先です。思想家たちの価値基準を知ったら、それを使って多角的に物事を捉えるところまで育てていきたい。それは自分を知ることでもあるし、これから先、何かに困ったり行き詰まったりしたときに、「別の見方で捉え直してみよう」と頭を切り替えられるようになることにもつながるでしょう。

「漢文の授業で、考えることの面白さをもっと伝えたい。筑附の生徒たちと共に問いを深めながら、自分の頭で答えを探し続ける力を育てていきたい」
「漢文の授業で、考えることの面白さをもっと伝えたい。筑附の生徒たちと共に問いを深めながら、自分の頭で答えを探し続ける力を育てていきたい」
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 そのためには、古代の思想を自分たちの今の問題に引きつけて考えてみることが大切で、授業の中でできる限りそうした機会を持つようにしています。
 例えば、家庭でトラブルがあったため出席日数が足りなくなった生徒に対して、事情をくんでその子だけ例外を認めるか。それとも、ルールはルールなので特別扱いはしないことにするか。

 この問題について、「韓非子ならどう考えるか」「孔子だったら何と言うか」と生徒に問います。

 韓非子などの法家思想なら、客観的なルールで徹底的に統治するという考え方なので特例は認めないでしょう。一方、孔子などの「仁」による政治、徳治主義の儒家思想なら、機械的に否定するのではなく、個別に対応するのではないか。では、今の学校教育は、どのような思想から規定が定められているのか。古代の書物をひもといて、その叙述を鏡としながら、自分の価値体系を見つめ直してもらいます。
 あるいは、「現代のSNSの誹謗中傷問題に直面したら、法家、儒家、道家はそれぞれどう対応すると思いますか」といった問いを投げかけ、個々に考えさせます。

 漢文で書かれた思想家たちの教えを、今の世の中の、今の自分たちの問題を考えるために使えれば、思想を学ぶことがきっともっと楽しくなります。
 ここで私のやるべきは、生徒たちを楽しさの入り口まで連れて行き、最初はいくつか一緒にやってみること。もともと考えることが好きな生徒たちですから、続きは自分たちで行うようになるはず。そう信じながら授業を行っています。

思想を学ぶことが面白くなる一冊

 最後に、前述のように、今の自分の問題と思想を照らし合わせて考えたり、それぞれの思想と考え方の違いを比較したりするときに、お薦めの一冊を紹介したいと思います。
 それは『 史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 』(飲茶著/河出書房新社)です。

 東洋の哲学が非常にわかりやすく、かつ軽いタッチで面白く説明されているので、どんどん読み進められます。手元にあれば、思想家同士の考え方の違いを比較したり、全体をマッピングして考えたりするときにも、大いに役に立つのではないでしょうか。

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』(飲茶著/河出文庫)
「『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』(飲茶著/河出書房新社)は、東洋思想の面白さをわかりやすく体感できる入門書です」 ※画像のクリックでAmazonページへ

取材・文/平林理恵 構成/南浦淳之(日経BOOKプラス) 写真/稲垣純也


一生の宝物になる。
先生たちに聞いた人生を支える一冊

 連載「名門校の推薦図書」をまとめた書籍です(※筑波大学附属高校・畑先生の記事は収録されていません)。各校の先生が、生徒に薦めたい本や授業で扱った本、自身の愛読書について、学校の特色やエピソードとともに紹介しています。
【掲載校】開成/灘/聖光学院/渋谷幕張/広尾学園/豊島岡女子学園/フェリス女学院/国際基督教大学(ICU)高校

平林理恵著、日経BOOKプラス編/日経BP/1760円(税込)