『神様のカルテ』『スピノザの診察室』などで知られる、医師であり作家の夏川草介さんが、忘れられた名著、A.J.クローニンの『城砦』を新翻訳。翻訳を通じて感じたクローニンからのメッセージとは。
1回目 「医師兼作家の夏川草介、初翻訳で絶版の名著『城砦』を復活」 2回目 「夏川草介、初翻訳本『城砦』で探った「著者が本当に書きたかったこと鉱山の町へ赴任し医師としての第一歩を踏み出したアンドルー・マンスンが人間の醜悪さや社会や医療制度のひずみに直面し、時には社会的地位と収入に目がくらみ、次々と訪れる成功に思わず足元をすくわれて……。100年前の小説とは思えないスピード感で、展開します。
ある種の大河小説ですね。医療小説という言い方ではもったいないと思います。1人の人間が、さまざまな出来事に出合ってくじけて立ち直ってということを何度も繰り返しながら、医師としても人間としても成長していく。時代は異なりますが、私たちと同じように悩みもがき、懸命に生き抜いた、クローニンが描いたこの主人公は普遍的な人間像だと思っています。どれほど社会が変わっても、変わってはいけないものがあるというメッセージがこの本の魅力なんじゃないかと思いますね。
私は、人間の持っている感性の中で、捨ててはいけないもの、忘れてはいけないものがあると思っています。今は物事が急速に変化し、山のような情報が入ってきて、本当は変わってはいけないものも、捨てさせる方向に動いている時代なんじゃないかと感じます。価値基準が崩壊して成功のためには手段を選ばなくなるとか、他に重要なものを見いだしにくいからお金にたどり着いてしまうとか、大切にしなければいけないものが見えにくくなっている。
大切な人間性というものは、たとえば「捨ててはいけない8つの約束」みたいに箇条書きにできるものではありません。ストーリーでなければ伝えられないもので、これですよと言えないのですが、私は小説を書くときに、いつもそれを伝えることを執筆の一番の動機に置いています。クローニンも恐らくそうだったんじゃないかと。アンドルーを通じて、人として捨ててはいけないものがあるんだというメッセージを発しているような気がします。それが人として生きていく上で大事であるし、次の世代から見て恥ずかしくない生き方ってこういうものなんだということを、この作品が教えてくれていると思います。
クリスが亡くなって廃人的になっていたのに、アンドルーが回復してきている自分を不思議に思い、かつ、「悲しいこと」と言っていた部分が印象的です。
人間の強さと、それを感じることを「悲しい」と表現したあの描写も素晴らしい。悲しみ続けたくてもそうはできていないんですね、人間というのは。ああいうところは本当にすごい観察力というか、作者・クローニンはどん底を知っている人なんだなと感じます。
アンドルーと妻クリスがとった道のりは、単に美しいだけではありません。流れも私がこれまで書いてきたような作品と、ちょっと違います。これもひとつのリアリティーだと思いますが、自分だったら最後をどんなふうに持っていったのかとは考えました。本当にこの終わり方が良かったのかどうか、もう少し違う形のメッセージの出し方があるのかもしれないと私の中で 揺れた部分があります。
すると、夏川さんの作品だったら、結末も違ったかもしれないですね。
私は、憎悪や復讐心といった人の負の側面にはあまり関心がないのです。医療現場でどうにもしようがない現実に向き合う中で、年に1人か2人出会う素晴らしい人の記憶が、明確に頭に残っていて、その人たちの姿が自分を支えてくれるんです。亡くなる直前まで私の晩ご飯の心配をしてくれたおばちゃんとか、救急車で来るたびに夜中に申し訳ないって言って頭を下げてくれる胆管がんのおじいさんとかがいて、その姿、一つ一つを克明に覚えている。それが私の活力になっています。
人の悪を暴露するのではなくて、こんな素晴らしい人がいたというストーリーに集中することが、今の私のスタンスになっています。世の中に苦しいことや醜いことがあふれているからこそ、人間の優しさや美しさといったものをしっかり書き残しておきたい。そうした物語がきっと誰かを元気づけて、世の中をいくらかでも明るくしてくれる。それが私なりの考え方です。
そこはクローニンと少し違うのかもしれない。『城砦』には人間の持つ醜悪さや堕落といったものも精密に描かれていて、それがこの物語をとても魅力的なものにしていることは確かですから。間違いなく言えることは、100年前にこれだけのものが書かれ、100年前もみんな悩み、それぞれ が自分の哲学を貫いたことが伝わってくる素晴らしい作品だということです。
夏川さん自身が原稿を書かれるときのルーティンワークみたいなものはあるのですか?
スポーツ選手とかですと、よく聞きますね。ゆったり何かの準備をするという余裕があればそうなるのかもしれないですが、今の私は限られた時間の中でできることをやる感覚です。準備をするというよりは時間があればそこに向かって動いている感じです。
書きたい物語は頭にあるし読みたい本はその何十倍もありますので、それだけでもやるべきことはたくさんあるというところです。
次作をどんな作品にするかということも、すでに頭の中にあるのですか?
私はどんどん物語を書くというスタンスではあまりないのです。医療現場でうまくいかないことや、苦しいものにぶつかったときに、自分なりの答えを探すというようなことがきっかけで書き始めるものですから。もう少し明確にしたいテーマみたいなものは自分の中にありますが、それは先ほど言ったように、言葉にするのはなかなか難しい。人間が美しく生きるとか、正しく生きるというのはどういうことなのかということを、少しずつでも、物語として形にしたいと思っています。
取材・文/中城邦子 構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/益永淳二(夏川さん)、スタジオキャスパー(本)


