内容紹介
マクロ経済学者の手による連作短編小説の形式を取り入れた日本経済論。「経済学のロジックと現実経済のデータからいっさいずれていないフィクション」の試み。本書「最初に編集者から読者へーー「経済学小説」の誕生」から冒頭部分抜粋
あのころ、おそらく2014年の初めごろだったと思うが、私は、小さな出版社の編集者として最大の危機に直面していたのかもしれない。我ながら不覚であった。戸独楽戸伊佐(とこま・といさ)先生から原稿ファイルの入ったメモリーをお預かりしてのち、先生との連絡がまったくとれなくなってしまったのである。
先生の奥様によると、「編集者と会ってくるよ」といって家を出られたそうである。その日、私は、駅の近くの喫茶店で(実は、フランス語で隠れ家の意味である「ルフュージュ」以外で、先生と会ったことは一度もなかった)、確かに先生から原稿ファイルを受け取った。その後、先生は、忽然と私の前から姿を消してしまわれた。私は、先生が、その喫茶店の近くにお住まいだと勝手に想像していたが、実際は、どこにお住まいだったのか、まったく知らなかった。ただ、いたって元気な奥様は、受話器の向こうで「戸独楽は、おりませんが…」と、妙に余韻のある言い回しで、なんだか、「主人だったら、おりますが…」というようにも聞こえた。