人間は他の動物と比べて知性・理性をもつ点で「ホモ・サピエンス(知恵をもつ人)」と呼ばれてきました。しかし、言葉や理性で人が動かないこともしばしばです。なぜ「こころ」は厄介なのか。人はなぜ「好き嫌い」でものごとを判断してしまうのか。岡本裕一朗・玉川大学名誉教授の著書『「こころ」がわかる哲学』から抜粋で紹介します。
「こころ」を構成する三つの要素
「こころ」のあり方を区分する言葉として、昔から「知」「情」「意」というものがあります。
この三つの関係はどうなっているのでしょうか。
まず基本的に理解できるのは、それぞれの働きは別々だという点です。知性は、「ものごとがどうであるか」を理解します。感情は、ものごとに対する感じ方です。意志は、何をするかを決めます。
しかし、知・情・意がそれぞれ別々といっても、知性だけの人、感情だけの人、意志だけの人が存在するわけではありません。一人の「こころ」のなかで、知性や感情や意志のはたらきがそれぞれ区別されるわけです。
知・情・意を区別するのが大前提だとして、その上で「こころ」のはたらきの三つの関係がどうなっているのか、問い直してみましょう。
これに対する理論として、哲学ではこれまで三つの立場が提唱されてきました。主知主義、主意主義、主情主義(情緒主義)という立場です。
伝統的に見ると、知・情・意のなかで「感情」の果たす役割はあまり高く評価されてきませんでした。そのため、20世紀になって「情緒主義」が提唱されたとき、「道徳問題」を事実から導出できない理論として理解されました。
「主情主義」の革命性
しかし、じつを言えば、「情緒主義」はもっと広い可能性を秘めていました。
スコットランド出身の現代アメリカの哲学者アラスデア・マッキンタイアは1981年に出版した『
美徳なき時代
』(篠﨑榮訳/みすず書房。現在は新装版を販売中)のなかで、現代の道徳的対立状況を描きながら、「情緒主義」を次のように説明しています。
情緒主義とは<すべての評価的判断・より特定していえばすべての道徳判断は、それらの判断の性格が道徳的もしくは評価的である限り、好みの表現、すなわち態度や感情(フィーリング)の表現に他ならない>とする学説である。
(マッキンタイア『美徳なき時代』)
こうした「情緒主義」が学説として唱えられたのは20世紀前半ですが、最近では人々の常識としてすっかり浸透しています。たとえば、「ものの見方や感じ方は、人によって異なるのか」と質問すると、老いも若きも「情緒主義」を表明します。人の「好み」はみんな違うのだから、どれが正しいとは決められない、というわけです。
「よい悪い」は「好き嫌い」で決まりがち
根本的に考えてみると、「情緒主義」のポイントになるのは、「よい/悪い」や「正/不正」といった価値判断を、「好き/嫌い」という趣味判断に一元的に還元することです。
「中学生の男子は坊主頭の方が学生らしくて『よい』」と中年男性が口にするとき、この価値判断は、「オレは中学生の坊主頭が好き」という趣味を表明しているにすぎません。逆に、「茶髪のロン毛は悪い」という場合は、単に「嫌い」という感情を表現しているにすぎないのです。
この考えは、旧来の権威的な道徳や規範を引きずりおろすのに、とても有効です。
学校の教師が生徒に、「清潔な身だしなみと礼儀をもった態度が、学生にはよいことだ」と教えたとき、生徒はすかさず、「それって先生の趣味ですか?」と聞き返すことになります。つまり、「よい/悪い」というような道徳的・評価的な判断は、話者の感情を単に偽装しているにすぎないわけです。
このように、何かを評価するにあたって、判断を左右するのは、現在では感情であることが、実際にも多くなっています。つまり、「好きか嫌いか」が、「よいか悪いか」を決めてしまうのです。
その点で、今日、人々の考えを拘束するまでに支配的になっている状況を考慮するならば、「情緒主義」は「感情中心主義」と呼ぶべきかもしれません。人を判断するとき、「むかつく」とか「きもい」といった表現がしばしば使われるのも、こうした「感情中心主義」の発露かもしれません。
しかし、すべてが感情の問題(趣味判断)になったとき、優劣をつけることが不可能になります。ある人が「カレーライスが好き」といい、別の人が「ラーメンが好き」といった場合、当然のことですが両者に優劣をつけることができません。そのため、カレーの好きな人に、「君はカレーではなく、ラーメンを食べる『べき』だ」と押しつけることもできません。
感情に理由をつけることは不可能ですし、コトバで説得することもできないからです。
ニーチェの「遠近法主義」
このように、20世紀の「情緒主義」を「感情中心主義」への転換と理解すれば、19世紀末にドイツの哲学者ニーチェが「遠近法主義」として語ったものと、きわめて似通ってきます。遺稿である『 権力への意志(上)(下) 』(原佑訳/ちくま学芸文庫)において、ニーチェは次のように述べています。
現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。(……)総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。――「遠近法主義。」
(ニーチェ『権力への意志』)
「遠近法」というのは、ルネサンス時代に確立された絵画の技法で、どの地点から見たかという視点の違いによって、完成した絵が違ってきます。これと同じように、人の趣味も、それぞれ違っていますから、その違いによって評価や解釈も違ってくるのです。
ニーチェが「解釈」の多様性を語るとき、「遠近法」という芸術の技法から発想しているのは重要なことです。というのも、芸術の領域で力をふるっているのが、まさに「趣味判断」だからです。
現代アメリカの美学者ノエル・キャロルは、2009年に出版した『 批評について 芸術批評の哲学 』(森功次訳/勁草書房)のなかで、次のように語っています。
芸術の評価にはいかなる一般的基準も存在しないのだから、芸術の評価は客観的ではありえない。よって、芸術の評価は主観的にならざるをえない。(……)それは個人的な好みや趣味判断の表現以上のものではない。つまり、芸術の評価とは、純粋に主観的なことがらなのだ。
(キャロル『批評について』)
趣味や感情が方向を定める
かつては、現実を理解するとき、知性によって事実を客観的に認識することが重視されていました。しかし、こうした「主知主義」的な態度は、今日では胡散臭(うさんくさ)いものとされ、むしろ遠近法主義のもとで、「感情中心主義」へと転換したように思えます。
今日、意義を認められつつある「感情中心主義」は、知性による事実の認識や、意志による価値の評価の根源に、好みによる解釈、趣味判断を置くことです。芸術作品が、各人の趣味にもとづいて解釈されるように、事実の認識も、道徳的な価値も、すべて趣味にもとづいて感情的に解釈されるのです。
もちろん、事実や道徳といったものが尊重される公共的な場面で、個人的な趣味をあからさまに表明するのは、通常は差し控えられます。しかし、「こころ」の奥底では、趣味や感情が、知性や意志を支配して、方向を定めているのです。
岡本裕一朗著/日経ビジネス人文庫/990円(税込み)

