使用中に切れて流れ出した釣り糸などの漁具は、海洋プラスチック汚染の原因の一つだ。生分解性プラスチックの開発に取り組んでいる伊藤耕三・東大特別教授たちの研究チームは、ナイロン製の釣り糸に、条件によって海洋生分解性が現れることを世界で初めて発見した。これにより、釣り糸による海洋汚染拡大の歯止めになることが期待されている。同氏の近刊『 プラスチック・クライシス 日本発の新発見と技術革新が世界を救う 』の抜粋からそのエッセンスをお届けする。その第1回。

愛媛県の最南端に位置する愛南町は、温暖な気候と足摺宇和海国立公園の豊かな自然に囲まれた「海と山の町」です。リアス式海岸が広がり、透明度の高い海にはサンゴや熱帯魚がすみ、真鯛や牡蠣の養殖も盛んに行われています。
実は風光明媚(めいび)なこの地で、2024年2月ごろ、化学業界にとって驚くべき大発見がありました。
私は東京大学で40年以上、プラスチックやポリマーの開発を続けている研究者で、内閣府が目標を策定し新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が推進するムーンショット型研究開発事業(以下、ムーンショットと表記)の中で「海洋生分解性プラスチックの開発」のプロジェクトマネージャー(PM)を務めています。
プラスチックによる海洋汚染は深刻な状況にあり、一刻も早く、流出量を減らしていく必要があります。皆さんも切れた釣り糸や漁網が魚やウミガメに絡まっている写真や映像を、報道などで見たことがあるのではないでしょうか。
使用中に切れたり、捨てられたりして海に流出した釣り糸や漁網は、海を汚染するだけでなく、漂いながら海洋生物を捕獲していきます。こうしたゴーストフィッシングも、国際的に大きな問題になっています。

世界最大規模のフィールド試験を実施
私たちがムーンショットで取り組んでいるのは、海洋生分解性プラスチックの開発です。例えば、釣り糸が使用中に切れて、海に流れていっても、海中や海底にいる菌が切れた糸を食べて自然にかえっていく生分解性プラスチックの開発に取り組んでいます。
すでに、海洋生分解性プラスチックは、世の中に存在しています。例えば、ナイロン4(植物などの生物資源(バイオマス)を原料として製造される)と呼ばれる素材はその一つです。生分解性があり丈夫なのですが、大きな弱点があります。それは、吸水性が極めて高いので、海水につかり水分を吸収すると柔らかくなり、切れやすくなってしまう点です。また、成形が難しいため、釣り糸としては製品化されていません。一方で、他のバイオ由来の生分解性を有する釣り糸も市販されてはいますが、一般の釣り糸に比べると性能が落ちるため、ほとんど普及していません。
ムーンショットでは、生分解性の釣り糸を開発するため、ムーンショットのメンバーのクレハが中心となり、ナイロン4をベースとした釣り糸を試作しました。そして、実際に海中に入れた際の強度や分解速度を調べるため、愛南町でサンプルを海中に沈めて変化を観察するフィールド試験を実施したのです。
このフィールド試験は、世界最大規模のものです(サンプル数は毎年1000件以上)。そのため、海に沈めるサンプルに余裕がありました。そこで、開発中の生分解性釣り糸だけではなく、比較対照として、市販されている釣り糸も可能な限りすべて入れてみようということになったのです。そして、実験開始から3カ月後、結果が上がってきたのですが、そのデータは驚くべきものでした。
フィールド試験の主眼だったナイロン4ベースの釣り糸は、良好な分解性を示したのですが、私たち研究者の目を引いたのは、それではなく、比較対照のために入れた市販の釣り糸のほうでした。
教科書を書き換える大発見
表には4種類の釣り糸の結果を載せました。3種類がナイロンで、残りの一つが生分解性の素材を使用しています。結果を見ると、サンヨーナイロン社製「ExtraV-500(以下、エクストラ)」とサンライン社製「Queenstar(以下、クインスター)」という市販の釣り糸が、非常に高い生分解性を示していました。特にクインスターは、生分解性の釣り糸に匹敵する結果です。



この二つの釣り糸に使われている素材は、ナイロン6とナイロン66のコポリマー(2種類以上の異なる単量体(モノマー)をつないでつくられる高分子(ポリマー)のこと。共重合体ともいう)でした。そして、非常に興味深いことに、同じようにナイロン6とナイロン66のコポリマーが使われている東レ社製の「銀鱗」は、ほとんど分解していないのです。
私たちはこのデータを最初に見たとき、「何かの間違いだ」「こんなことがあるはずがない」と思いました。なぜなら、ナイロンという素材は、ナイロン4を除いて、非生分解性だと学校で教わってきたからです。大学の教科書でもそのように説明しています。だから、ポリマーの研究開発に携わった者なら誰もが、ナイロン6とナイロン66のコポリマーに生分解性があると聞いたら、耳を疑うでしょう。
けれども、海に係留(フィールド試験では、海の表面近くと海底の2カ所にサンプルを設置)したサンプルの崩壊性を観察すると、「クインスター」と「エクストラ」は3カ月たつと、表面がぼろぼろになり白っぽくなってくるのですが、「銀鱗」のほうはあまり変わっていません。
崩壊性の高い2種類の釣り糸、崩壊しなかったもう1種類の釣り糸は、ともにナイロン6とナイロン66のコポリマーですが、大きな違いが一つあります。それは、重合の比率です。崩壊性を示した2種類は、ナイロン6とナイロン66の重合比が86対14だったのに対し、崩壊性を示さなかったほうの釣り糸は95対5でした。
ゴーストギア問題解決の決定打に
2025年5月、この研究に関わった東京大学、九州大学、化学物質評価研究機構、長岡技術科学大学、愛媛大学が共同で、研究成果を記者発表しました。報道関係者に配布する発表資料のタイトルには、「これまで分解しないとされていた市販の釣り糸が海洋で生分解することを発見 ~ゴーストギア(漁業系プラスチックごみ)問題解決の決定打に」と書きました。

成熟化する化学業界への新風となるか
日本の化学メーカーもかつては、ナイロン事業が盛んでしたが、近年では、他国(主に中国企業など)との競争激化による採算悪化で、事業からの撤退や縮小が相次いでいます。例えば、三菱ケミカルは2010年ごろ、ナイロン6の主要メーカーであるエンバリオの親会社であるDSMにナイロン事業を売却しています。台湾にあるエンバリオのナイロン6/66のコポリマーの製造工場は、もとは三菱ケミカルの工場です。
ナイロン生産で世界3位のシェアを持つUBEも、採算性の悪化に対応するため国内での製造縮小などの構造改革に取り組んでいます。
このようにナイロン事業は、かなり成熟段階にあり、日本のメーカーも差別化に苦心しています。けれども、今回の発見により、プラスチックの用途やビジネスモデルが相当大きく変わる可能性があるのではないか、と日本の化学業界からは期待する声が寄せられています。
釣り糸や漁網などは、ナイロン6/66のコポリマーを使った製品にどんどん置き換わっていく可能性があります。また、他の生分解性ポリマーをすでに販売している化学メーカーの事業戦略にも大きな影響を与えるかもしれません。
伊藤耕三(著)/日経BP/2750円(税込み)
