陸上男子400mで44秒44の日本記録を持ち、無類の読書家として知られる中島佑気ジョセフ選手。2025年の東京世界陸上では、この種目で高野進さん以来34年ぶりに決勝へ進み、日本勢過去最高となる6位に入賞した。穏やかに、理路整然と言葉を選んで話す様子からは、トラックの最後の直線で豪快に追い込み、ライバルを抜き去る勝負師とはまた違う一面がのぞく。遠征バッグには必ず本を忍ばせ、三島由紀夫からドストエフスキー、哲学書までを読み込む中島選手に、読書遍歴と本が陸上競技にもたらす影響を聞いた。

中島佑気ジョセフ
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中島佑気ジョセフ(なかじまゆうきジョセフ)
2002年東京都生まれ。東洋大学を経て富士通所属。男子400mの日本記録(44秒44)保持者。2024年パリ五輪では男子4×400mリレーで6位入賞。2025年東京世界陸上では、日本勢として1991年の高野進さん以来34年ぶりに男子400m決勝へ進出し、6位入賞を果たした。

小学生で辞書を引きながら読んだ三島由紀夫

読書が習慣になったきっかけから教えてください。

 作家の親戚から譲り受けた本が、家にずらりと並んでいたんです。僕が小学生の頃はちょうどスマホが普及し始めた時期でしたが、親が厳しくてあまり触らせてもらえず、ゲームもしない環境で育ちました。暇だったので、地図を眺めたり、パズルをしたりしていました。そのうち本棚の本を開いてみたのが、読書体験の始まりでした。漫画はほとんど読んだことがなかったですね。

どんな本を手に取っていたのですか?

 三島由紀夫をはじめとした純文学が多かったです。あとは百田尚樹さんの著書や歴史ものなど。とにかく多様な本が並んでいました。とはいえ、小学生ですから、最初はどの本も本当に難しかったですね。親戚の助言で、国語辞典で分からない言葉を1つずつ調べながら読み進めました。すると、だんだん読めるようになってきた。だからといって、国語などの勉強がものすごく得意だったわけではありません(笑)。ただ、本を読むこと自体がとにかく面白かったんです。

ターニングポイントになった一冊はありますか?

 自分の進む道に直結したのは、100mのオリンピック金メダリスト、『 ウサイン・ボルト自伝 』(ウサイン・ボルト著、生島淳訳、集英社インターナショナル)でした。読んだのは、ちょうど陸上を始めたばかりの中2か中3の頃だったと思います。

『ウサイン・ボルト自伝』(ウサイン・ボルト著、 生島淳訳、集英社インターナショナル)/画像クリックでAmazonページへ。陸上100mで世界記録を樹立したジャマイカのスーパースターが、自らの歩みを語った自伝。中島選手が競技への夢を具体的に描くきっかけとなった原点の一冊。実家の飼い猫には、ボルトにちなんで「ボルたん」と名づけたほど
『ウサイン・ボルト自伝』(ウサイン・ボルト著、 生島淳訳、集英社インターナショナル)/画像クリックでAmazonページへ。陸上100mで世界記録を樹立したジャマイカのスーパースターが、自らの歩みを語った自伝。中島選手が競技への夢を具体的に描くきっかけとなった原点の一冊。実家の飼い猫には、ボルトにちなんで「ボルたん」と名づけたほど

 それまではサッカーやバスケットボールをやっていたのですが、チームスポーツは性に合わず、陸上に出合って初めて「これなら自分にもできるかもしれない」と漠然とした手応えを感じていました。どうせやるなら、頂点を目指したい。そんな気持ちが芽生えてきたときにボルト選手の自伝を読み、走りが速くなれば、自分の前にこんなにも大きな世界が広がるのか、と知ったんです。

「走りが速くなれば、自分にもこんなに大きな世界が広がるのか、と思いました」
「走りが速くなれば、自分にもこんなに大きな世界が広がるのか、と思いました」
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その本が夢を持つきっかけになったのですか。

 はい。しかも、漠然とした憧れではなく、明確な目標ができました。オリンピックに出場して金メダルを取りたい、そのためには何歳までに日本選手権で優勝して……などと自分なりに逆算して考えるようになりました。

結果が出ない高校時代、自己啓発本や健康書をむさぼり読んだ

授業と練習が本格化すると、読書時間は削られますよね。

 高校時代はあまり読めませんでしたね。池袋の高校に通うのに片道1時間10分ほどかかるうえ、使っていたのが通勤ラッシュで有名な路線。車内で本を開けば前の人の顔に当たるので、通学中は読めなかった。ただ、高3になると進路が決まって授業も減り、少し余裕が出てきて読書の習慣も戻ってきました。

どんな本を読んでいたのでしょう。

 一番多かったのは、自己啓発やモチベーションを高めるための本、それに為末大さんのようなトップアスリートが書いた本です。インターハイ(全国高等学校総合体育大会)には出場できたものの優勝には届かず、高校3年間はケガで思うような結果が出せませんでした。目標に到達するには何が必要なのかを考えさせられたんです。

 当時は「健康オタク」でもあり、栄養や睡眠に関する本もよく読みました。ちょうど健康ブームが来ていて、運動や睡眠、栄養を自分で管理しようという実用書がビジネスパーソン向けにたくさん出ていた時期。アスリートとして、そうした知識を実用的に取り入れていました。

健康への意識が高かったのは、高校時代のケガの影響も大きかった?

 それはありました。走ればケガが悪化するような感じだったので。母が毎日つくってくれる弁当のおかげで栄養は足りていたはずなのですが、睡眠を含め、練習以外の部分にも目を向けなければいけないと痛感したんです。陸上は身一つで戦う競技なので、わずかな不調やずれがタイムに大きく響く。体には高い意識を払う必要があると思います。

今でも役に立っていると思う健康本は?

 テニスのジョコビッチ選手の『 ジョコビッチの生まれ変わる食事 』(ノバク・ジョコビッチ著、タカ大丸訳、リンクと画像は扶桑社刊の新装版)という、グルテンフリーに関する本ですね。すべてを実践したわけではないですが、トップアスリートの徹底ぶりに驚かされました。朝はこれを食べ、アーモンドは何粒、ハチミツはマヌカハニー、バターは必ずグラスフェッドのもの……と、食事から日々のルーティンまで細かく書かれていた。その突き詰め方は、リカバリー(休養)や栄養に気を配るアスリートとしての基礎になったと感じています。この土台をおろそかにすると、世界では戦えない。

『ジョコビッチの生まれ変わる食事』(ノバク・ジョコビッチ著、タカ大丸訳、扶桑社)。リンクと画像は新装版/画像クリックでAmazonページ
『ジョコビッチの生まれ変わる食事』(ノバク・ジョコビッチ著、タカ大丸訳、扶桑社)。リンクと画像は新装版/画像クリックでAmazonページ

今も最新の健康情報を追い続けているのですか。

 いえ、体づくりの本は、今はほとんど読んでいません。最新情報を追い続けてもきりがない。いろいろ試して自分に合うやり方が定まってからは、新しい説に飛びつくよりも、日々の生活の中で何が自分に合うかを選び取ることを大切にしています。もう取捨選択ができる段階に来たのかなと思います。

 自己啓発本も今の自分にはあまり響かなくなりました。必要なメンタリティーは、学生時代に読んだ本から十分に得られたと思っています。実用的なこと以上に、自分のモチベーションはどこから来るのか、陸上で何を成し遂げたいのか。そういう、もっと深いところにある問いについて考えたい。そのヒントを与えてくれるのが、文学や哲学書なんです。

「自分のモチベーションはどこから来るのか、陸上で何を成し遂げたいのか。そういった問いについて考えたいです」(写真:cFujitsu)
「自分のモチベーションはどこから来るのか、陸上で何を成し遂げたいのか。そういった問いについて考えたいです」(写真:cFujitsu)
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取材・文/高島三幸 構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子