英国南東部の町・ブライトンで、現地中学に通う息子の身の回りの出来事や親子の対話を通じ、英国社会や人間の普遍的問題を描いてベストセラーとなった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』。発売から2年後の2021年6月に刊行された『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』は、前作の大反響のもととなったキーワード「エンパシー(他人の感情や経験などを理解する能力)」について、さらに考察を深めた「大人のための続編」だという。著者のブレイディみかこ氏に、執筆の背景を聞いた。[日経クロストレンド 2021年6月29日付の記事を転載。一部情報を更新]

ブレイディみかこ氏
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ライター・コラムニスト ブレイディみかこ氏
1965年、福岡市生まれ。英国・ブライトン在住。2017年に『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)で新潮ドキュメント賞受賞。本屋大賞2019 ノンフィクション本大賞、毎日出版文化賞・特別賞などを受賞した『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)他著書多数

──『 ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 』は、ノンフィクションとしては異例とも言える60万部のヒット本になり、コロナ禍でも版を重ねました(※編集部注 21年11月にシリーズ累計100万部突破)。これだけ多くの人に読まれた理由の一つには、身の回りや学校での出来事など、身近な生活者の目線から社会問題を見る、ブレイディさんの語り口があったと思います。ミクロからマクロを描く、このような視点の持ち方はどのようにして得られたのですか。

 私が初めて渡英したのは高校卒業後の1980年ごろでした。その後、永住するようになったのは96年以降で、当時はロンドンにある日系新聞社の駐在員事務所でアルバイトをしていました。結婚してからフルタイムで働くようになったのも、また別の新聞社の駐在員事務所です。

 新聞社の事務所で働きながら、日本人の特派員記者たちが、どんなふうに取材をして記事を書いているのか、毎日何をしているのかを見ていたんです。記者たちは大抵、大学の先生や有名なジャーナリストなど、そうした「識者」と呼ばれる人たちに話を聞きに行って記事を書きます。記者の仕事が忙しいからでもありますが、地元のコミュニティーに根を張って交流したり、学校で子供の保護者たちと話をしたりする機会もほとんどない。つまり、日本で紹介されている記事には、そういう生活者レベルの「地べたからの視点」が全く反映されていないわけです。それだとすごく偏った報道になってしまうんじゃないかなと思っていました。

 当時はライター志望でもなかったし、自分が何かを書くことになるとは思ってもいませんでした。でも、政治が大きく変わるとき、最も影響が出るのは末端の生活だということは分かっていました。例えば、町に必要だった託児所が潰れたとします。なぜ潰れたのか。それは政府の財政政策が変わり、それに問題があるからだということを、誰かがはっきりと身近な視点から示さなければならない。

 そうした因果関係の理解の回路が切れてしまうと、生活が苦しくなってきたときに、何もかもが自分たちの自己責任であるかのように錯覚してしまったりする。今の日本が、まさにそういう傾向にあるのではないでしょうか。そうではなく、「それは政府の緊縮財政のせいだ」「経済政策が間違っていたせいで、こんな不況になったんだ」と、ミクロとマクロの間で切れた回路を、もう一度つないでいかなければならないと。

 英国のコラムニストで、ジュリー・バーチルという人がいます。彼女の書く記事は、まさに螺旋階段を下から上へと上っていくように物事を分かりやすく書くので、90年代から2000年代に一世を風靡し、高級紙(クオリティー・ペーパー)がこぞって彼女の獲得合戦をしたほどでした。例えば、自分が隣の家の老人とけんかをした話から始めて、それを年金システムの問題につなげていくといった書き方をする。私もそんなふうに個人の暮らしから政治へと思考回路をつなげるものを書きたいと思ったんです。

「エンパシー」への大反響は予想外だった

──21年6月に刊行された『 他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ 』は、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の中に登場した、とある一場面への、予想外の反響の大きさを受けて書かれたとか。

 息子に「学校の試験でどんな問題が出たの?」と尋ねる場面です。テストに出題されたのは、「エンパシー(empathy)とは何か?」という問題。息子が出した答えは「誰かの靴を履いてみること(To put yourself in someone’s shoes)」というものでした。

 英語圏では「エンパシー」は、そんなふうに学校のテストにも出されるくらい、「多様性(diversity)」と同様に割ともてはやされたキーワードだったんです。オバマ元米大統領が多く用いた言葉としても知られています。ただし、日本に入ってくる段階で、エンパシーは一様に「共感」という言葉に翻訳されるせいで、「シンパシー(sympathy)」と区別が付かなくなってしまっていた。

 シンパシーというのは、自分に近い感覚を持つ相手に対し、感情とともに内側から自然に湧いてくる同情のことです。一方でエンパシーとは、湧き上がる感情に判断力を曇らせることなく、意見や関心の合わない他者であっても、その人の感情や経験などを理解しようと、自発的に習得する「能力」のことなんです。そこにははっきりとした区別がある。つまり、「エンパシーとは何か?」という問題に、「誰かの靴を履いてみること」と書いた息子の答えは的を射ていたわけです。本の中でこのことを書いた部分が、意外にも注目を集めました。

 学校の期末テストにまつわる、ちょっとしたお茶の間の会話を描いたこの場面は、約250ページの本の中のたった4ページにすぎません。にもかかわらず発売後、ここが最も印象に残ったという感想を本当に驚くほどたくさん頂いたんです。取材でもいつもエンパシーについて尋ねられ、書評を見ても、ほとんどがエンパシーについて書かれている。そのうちに、こちらもプロモーショントークとして、「これはエンパシーについて書いた本です」などと言い始めた(笑)。でも、執筆している時点ではそんなつもりは全く無かった。

 作者の意図を超えて「エンパシーは素晴らしいものだ」と、まるで現代のあらゆる問題を解決できる万能薬のように扱われてしまったことに、危惧もありました。実際は、エンパシーについては長く積み上げられてきた深い議論があり、使い方次第では害にもなると警告を発している論者もいるほど、多面的な考察がなされてきた概念なんです。それを、たった4ページで限られたポイントだけ広く紹介してしまった人間として、責任を取って、もっと掘り下げた紹介をすべきではないかと思い、この『他者の靴を履く』を執筆したんです。

SNSの炎上は、「速い」シンパシーが引き起こす

──シンパシーとエンパシーの違いを理解するうえで、分かりやすい身近な例は何でしょう。

 例えば、SNSでのやりとり。SNSって、何もかもがあっという間に広がって、あっという間に炎上して、2~3日が過ぎた頃には、もうみんな忘れている。不安な時代の反映なのかもしれませんが、「こんなことを言う人はバカだ」とか「こんなことを言う奴は攻撃していい」とか、そういう判断を、誰もがほとんど一瞬見ただけで行っている。これなどは、シンパシーがインスタントな感情的、情緒的な反応である例です。とにかく「速い」。TwitterなどのSNSは、本質的に共感を集めることで動員数を競い合うメディアなので、ポピュリズムに似た面もあります。

 それに比べて、エンパシーを働かせるということは、誰かの発言を目にしたときに「この人はどうしてこんなことを言うんだろう」「この人にこんなことを言わせた社会的背景にはいったい何があるんだろう」と、まずはワンクッションを置いて考えることなので、時間がかかります。エンパシーは「遅い」。それでも、自分の感覚や感情でもって誰かの状況を理解するのではなく、たとえ自分は受け入れられないと思っても、まずは理性的に、他者を他者としてそのまま理解しようとすることなんです。

──エンパシーを学ぶことは、他者を理解する姿勢の他に、どのような可能性を私たちに与えてくれるでしょう。

 以前に息子の学校で、『ロミオとジュリエット』を使ったユニークな国語の授業がありました。1回目の授業では、男子女子問わず全員がロミオになりきってラップ調のラブレターを書いてみる。2回目の授業では、今度は全員がジュリエットになりきってクラシックなラブレターを書く。つまり、ジェンダーや自分でも無意識に自分に課している枠組みを超えて、別人の靴を履いてみる体験ですね。

 後日、その授業を担当した先生に話を聞いてみると、普段の生徒たちのイメージとは裏腹に、すごくおとなしいタイプの子がラップ調のクールな詞を書いたり、普段はすごくマッチョで反抗的な男の子が、泣けるようなスイートなラブレターを書いてきたりしたそうです。ジェンダーロールなどによって、「こういう部分は見せない方がいいな」と隠蔽している能力が、本当はもっとあるんじゃないかと気づかされます。もし、その部分をちゃんと育てていくことができれば、そのマッチョな男の子がすてきなラブストーリーを書く小説家になる可能性だってある。

 エンパシーを育むというのはそのように、他者を理解する方法を学ぶだけではなく、自分が本来持っていて、けれどうまく発揮できていない才能に気づくチャンスをくれたり、潜在的に持っている可能性を広げたりすることでもあるんです。

オンラインで取材に応じるブレイディみかこ氏。英国では21年6月にロックダウンの最終解除が予定されていたが、インド型の変異株による感染拡大で延期に
オンラインで取材に応じるブレイディみかこ氏。英国では21年6月にロックダウンの最終解除が予定されていたが、インド型の変異株による感染拡大で延期に
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着想のきっかけは大正時代のアナキスト、金子文子の生き方

──副題は「アナーキック・エンパシーのすすめ」ですが、「アナーキック」が付いている意味は?

 金子文子という、大正時代に生きたアナキストがいます。私は彼女がとても好きなんです。以前にも『女たちのテロル』(岩波書店)で取り上げ、今また、彼女の子供時代を描く小説も書いています。金子文子は関東大震災の後に大逆罪で捕まり、23歳で獄中死を遂げるのですが、その中で書かれた短歌にこんな一首がある。「塩からきめざしあぶるよ 女看守のくらしもさして 楽にはあらまじ」

 獄中では、思想を転向させようとひどい扱いを受けていたといわれています。そんな中、敵対する立場であるはずの女看守がめざしを焼いていて、その匂いが漂ってくる。普通なら「こんな目に遭わせておいて、のんきに飯なんか食いやがって!」と憤るところです。けれど彼女は、めざしの匂いからむしろ女看守の質素な暮らしぶりを想像する。自然と女看守の靴を履いているわけです。

 「わたしはわたし自身を生きる」とは金子文子の言葉ですが、徹底して個人主義にこだわって生きたアナキストの彼女が、一方で他者の靴を履くことに長けていたという点に、エンパシーを考えるうえでの大きなヒントがあると考えました。つまり、利己的であることと、利他的であることは実はつながっていて、表裏一体なのではないか。「わたしはわたし」だという強いこだわりと自由を持っていたからこそ、既存の概念や単純な友敵関係の構図にとらわれることなく、他人の靴を履き、オルタナティブな考えを持つことができたのではないか。そんな彼女の生き方に着想を得て、本書を書き進めていきました。

──アナキズムというと反逆、暴力、無法状態といったイメージもありますが。

 アナキズムの考え方にも色々な立場があり、国家や既成概念を打ち壊すようなアナキズムもあれば、相互扶助、助け合いのアナキズムもある。例えば、レベッカ・ソルニットは『災害ユートピア』(亜紀書房)の中で、災害が起きた場合や、今のコロナ禍など、そのような非常事態においては、アナーキーな相互扶助が立ち上がると書いています。

 英国では、まさにその通りのことが目の前で起きたんです。ロックダウン中、我が家のポストに近所の人がチラシを入れていったので見てみると、電話番号とEメールアドレスが書いてあり、「買い物支援のボランティアグループを立ち上げる。興味があったら連絡してくれ」という案内でした。自主隔離をしていたり、高齢で外出できなかったりする人たちの代わりに買い物に行って、必要な物を届けてあげようというわけです。そういう助け合いのシステムが、あちこちであっという間に立ち上がって、今でも続いています。

 誰から指示を受けたわけでもなく、いざという時には住民同士が勝手に立ち上がって協働する。国や政治を動かすエリートがパニックになっているときに、「別にあんたらがいなくてもオッケーだから」と地域を回す気概がある。こういうインディペンデントでアナーキーな相互扶助は、英国に昔から根付いているものですね。

──日本はどう変わっていくべきでしょうか。

 今、日本ではあらゆることに諦めモードになっている人が多いですよね。それもある意味では、為政者に対するいびつな形のエンパシーかもしれない。エンパシーを搾取されているんです。お上だって大変なんだとか、国に借金があるから仕方がないとか思わされて。本当にそうなのか? と現状を疑い、今とは違うオルタナティブな政治もあり得ると考えるツールとして、エンパシーという想像力を使うべきです。

 他者の靴を履くということは、自分とは違う視点を獲得することでもある。自分の常識が他者の常識ではないことが分かれば、狭い固定観念にとらわれなくなっていく。他の国の人々なら日本で今起きている問題をどんな風に解決するだろうと、想像したり考えたりすることもできるようになる。エンパシーの効用は、自分の目を開くこと、自分の視野を広げることでもあるんです。

著者が薦める本
ジェームズ・C・スコット『<!--layout:id=14-->』(岩波書店)
ジェームズ・C・スコット『 実践 日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方 』(岩波書店)
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 この本の原題は「Two Cheers for Anarchism」。訳すと「アナキズムに万歳二唱」で、つまり、万歳三唱まではしないけれど、二唱くらいはしてもいいよという意味なんです。アナキズムには、国家なんかいらないという究極的な思想もある一方、この本は「国家だって利用できるところは利用すればいい」という立場。私たち普通の「地べたの人間」は、上からの支配や管理の穴をかいくぐり、自分たちの相互扶助や協働を通し、時には上からのトップダウンに従っているようなフリもしながら、したたかに生きていく道だってあるよと提案している。一切合切を打ち壊すような激しいアナキズムではなく、こういうしなやかで親しみやすいアナキズムの論者もいることを、もっと知ってほしいんです。(ブレイディ氏)

(写真/Shu Tomioka)