人間というものは、見ているようでいて、実は見えていない部分が多いものです。自分の周りにいる親しい人たちのことですら、「理解できている」と言い切るのは無理があります。

 それならば、自分のことなら理解できているのか? というと、これまた“おぼつかない”というのが現実ではないでしょうか。自分自身が一番分からない――そう感じることも多いものです。結局、人間を理解するには、より本質的な「問い」が必要なのです。

 人間を理解するための性格診断やツールが、今ではたくさん提供されています。最近では、MBTIという診断や、簡易性格診断ツールの「16Personalities」が若い人たちの間ではやっています。武蔵野大学で授業を受け持っていると、ごく当たり前のように「先生は何タイプですか?」と学生たちから尋ねられることがあります。ここでいう「何タイプか」とは、私がその診断でどのタイプに分類されるのか、という意味です。

 昔は「血液型による性格診断」が流行しました。こうした性格診断のムーブメント自体はほほえましく、他者との会話のきっかけにもなるでしょう。ただし注意すべきは、それらの診断結果によってレッテルを貼ってしまうこと、そして、自分や他者を理解した気になってしまうことです。

 これからの時代、自己理解や他者理解を支援する仕組みが、AIなどのテクノロジーでさらに進化していくでしょう。しかし、特に若いマネジャーには、そうしたツールに依存したり、それに振り回されたりしないでほしいと思います。

 常に、物事の深淵をのぞき込む姿勢を持ち続けてほしいのです。なぜなら、人間の深淵をのぞくことには、人生において必ず意味があると思うからです。

 そうした願いを込めて、今回は人間理解を深めるための7冊を選んでみました。

「内省」をすることは、本当にいいことなのか

1. 『マルクス・アウレーリウス 自省録』 マルクス・アウレーリウス著、神谷美恵子訳、岩波文庫

2. 『ラッセル 幸福論』 バートランド・ラッセル著、安藤貞雄訳、岩波文庫

 まず紹介したいのは、第16代ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスが記した『 マルクス・アウレーリウス 自省録 』です。

『マルクス・アウレーリウス 自省録』 マルクス・アウレーリウス著、神谷美恵子訳、岩波文庫/画像クリックでAmazonページへ
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 この作品は哲学書の名作とされていますが、実のところ、僕たち後世の人間が勝手に哲学書として読んでいるだけで、マルクス・アウレーリウス自身にとっては公開するつもりのない内省メモでした。もし彼がこのメモが公開されていることを知ったら、大いにショックを受けるかもしれませんね。

 内容としては、「隣のやつの口が臭い」といった“ぼやき”もあって面白いのですが、主な部分は、マルクス・アウレーリウス自身の自問自答の記録です。例えば、「私は本当にこういう人間なのだろうか、いやそんなはずはない」といった問いを、日々繰り返し考えているのです。

 皇帝という高い地位にあろうと、人間は思い悩むもの。マルクス・アウレーリウスは、常に自分自身に問いを投げ続けました。そんな『自省録』は、どんな立場の人であれ、リフレクション(reflection)、つまり内省することが人生において重要な行為であると教えてくれます。

 一方で、バートランド・ラッセルが『 ラッセル 幸福論 』で書いた、内省について述べている部分も興味深いのでご紹介しましょう。

『ラッセル 幸福論』 バートランド・ラッセル著、安藤貞雄訳、岩波文庫/画像クリックでAmazonページへ
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 この本の中では、“ソーセージ製造機”を人間に見立てて、次のようなことを言っています。

 もしも、ソーセージ製造機が人間だったら――。一つは、毎日豚肉を入れてソーセージを作るソーセージ製造機である。もう一つは、自分の内部の仕組みが素晴らしいと考え、ソーセージを作らずに自分の内部の研究に取り掛かるソーセージ製造機である。この後者のソーセージ製造機は、内部が機能しなくなってしまった。本来入るべき豚肉が入らずに、存在意義を見失ってしまったからだ。

 ラッセルがこのメタファーで伝えたいのは、内省を大切にするあまり、思考が内向きになり過ぎてはいけないよ、ということです。外の世界に関心を持ち、それを取り入れる。そして、また外側の世界にアウトプットをすることによって、私たちの健全な精神は駆動するのです。「自分はなんのために生まれてきたのか?」とただ問い続けるだけでは不十分であり、その愚かさについてもラッセルは鋭く指摘しているのです。

 当然ながら、マルクス・アウレーリウスも内省ばかりしていたわけではありません。大国ローマの皇帝として、政治や戦争の采配を振るいながら、夜に日記をしたためていました。内省は確かに重要です。

 しかし、他者や社会との関わり、さらには「アウトプットがあってこそ内省が生きる」ということを忘れないようにしたいものです。

「自分は正しい」と信じて疑わない人が「暴走」する

3. 『人を動かす 改訂文庫版』D・カーネギー著、山口博訳、創元社

『人を動かす 改訂文庫版』D・カーネギー著、山口博訳、創元社/画像クリックでAmazonページへ
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 名著中の名著をあえてここで取り上げるのは、この『 人を動かす 』で繰り返し書かれていることについていま一度考えてみたいからです。

 名著であるがゆえにあえて失礼なことを言いますが、この本は、実のところD・カーネギーという人物の持論、つまり「そのへんのおじさんの持論」が展開されているにすぎません。何かのエビデンスに裏付けされているわけではなく、基本的にはカーネギーがこう思う、という所見を語っているだけだからです。

 しかし、カーネギーが伝えたかったことはなんなのか。それを考えることで、この本の価値が浮かび上がります。そして、そのポイントは、「正しさ」の恐ろしさについて繰り返し説いている点にある、と僕は思うのです。

 「自分は正しい」――そう信じて疑わない人が暴走する。その暴走がどれほど危険であるか、そしてそれをいかに止めるべきか。本書では、この「正しさの暴走」について多くの紙幅を割いて書かれています。そして、「相手が正しいかもしれない。その可能性に思いをはせましょう」ということを、とにかくあの手この手を使って諭しているのです。

 確かに、「自分は正しい」と思ったときほど注意が必要というのは、日常生活のなかでも実感する場面が多いものです。例えば、大雨で電車が止まってしまったとき、駅員に詰め寄り声を荒らげる人がいます。また、パソコンが突然フリーズしたとき、サポート窓口に電話をかけてイライラをぶつける人もいる。SNSに目を向けると、自分が正しいと信じきった人同士のせめぎ合いの場になっているようにも見えます。

 僕自身も例外ではありません。不測の事故に巻き込まれ焦っているとき、問い合わせ窓口でしゃくし定規な対応をされたら、普段は使わないような言葉を口にしてしまうかもしれない。人間は誰しも、「自分は正しい、相手が間違っている」という感情にとらわれる瞬間がある。その結果、言葉や態度が“一線を越える”こともあるでしょう。ですが、たいていの場合、一線を越えた後には後悔がやってきます。

 D・カーネギーが本書で繰り返し「正しさの暴走に気をつけなさい」とリマインドしているのは、「人間とはそういうものだ」という本質を深く理解しているからこそ。特にマネジメントに携わる人にとっては、常に心に留めておきたい重要な教えだと思います。

あえてこの原点の一冊を紹介する理由は・・・

4. 『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン著、土屋京子訳、講談社

 EQとは「Emotional Intelligence Quotient(感情知能指数)」の略で、「こころの知能指数」ともいわれます。2000年代に大きなブームとなり、現在ではEQに関する多くの本が出版されています。その中で、あえてこの原点ともいえる『 EQ こころの知能指数 』を取り上げる理由は、この本が「人間関係」において非常に重要な3つのフレームを提供しているからです。

『EQ こころの知能指数』ダニエル・ゴールマン著、土屋京子訳、講談社/画像クリックでAmazonページへ
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 一つ目は「自己を理解すること」。次に「他者を理解すること」。そして、双方を理解したうえで、「自己と他者の間でどのような関係を築くべきかを考えること」。一見すると、社会生活においては当たり前のように思えますが、この手順を踏むことは、案外忘れがちではないでしょうか。

 この本は、人間関係を構築するうえで非常に重要な3つの枠組みについて、自己理解と他者理解をどのように進めるべきか、またそこから、他者とのインタラクションをどのように構築していくべきかについて教えてくれます。30年近く前に出版された本ですが、その本質的な内容は今なお、色あせていません。

 特に、マネジメントにEQのフレームワークを取り入れたいと考えているなら、まずはこの本を手に取ってみるのもいいでしょう。

イメージした「コウモリ」は本当のコウモリか?

5. 『新装版 コウモリであるとはどのようなことか』トマス・ネーゲル著、永井均訳、勁草書房

『新装版 コウモリであるとはどのようなことか』トマス・ネーゲル著、永井均訳、勁草書房/画像クリックでAmazonページへ
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 アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが書いたこの『 新装版 コウモリであるとはどのようなことか 』は、まずそのタイトルが目を引きます。そして本を開くと、「あなたは他者の気持ちを、本当に想像できていると言えますか?」という鋭い問いを突きつけてくる。前のパートでは「他者理解」という言葉を使いましたが、この本が投げかけるのもまさに、他者理解についてなのです。

 例えば、あなたは「自分自身がコウモリである」ということを想像することができるでしょうか? 夜行性だから日が落ちてから活動し、夜の森を羽ばたき、洞窟に戻って羽を休める――そんな情景を思い浮かべるかもしれません。しかし、これはあくまで「人間だった自分がコウモリだった場合」の想像であり、ネーゲルは「それでは想像になっていない」と一刀両断するのです。

 コウモリとして生まれ、コウモリとして育った存在について、人間は、本当の意味で理解することはできません。コウモリは超音波を発して周囲の空間を把握する「エコーロケーション」という高度な能力を持っていますが、それがどのような感じなのかを私たちは全く理解するどころか想像すらできません。彼らの認識構造自体が人間とは全く異なるからです。

 これはコウモリだから当たり前と思うかもしれませんが、同じ人間同士だってそうなんです。つまり、その人が今までどういう感覚器官で何を感じて、どういう感情を持ってきたのか、本質的な意味で理解することはできない。親しい間柄であっても、自分がその人の人生を生きてきたわけではないのですから。

 この本を読むと、軽々しく「他者の気持ちを想像しよう」なんてことは言えなくなります。真の意味で、他者を理解するのは不可能である。その前提に立ち、他者に向き合ってみる。この本は、そのような絶望から始まる「他者理解」のあり方を考えさせてくれるのです。

壮大なチャレンジを続けていないと生きられない男

6. 『イーロン・マスク』(上・下)ウォルター・アイザックソン著、井口耕二訳、文藝春秋

『イーロン・マスク』ウォルター・アイザックソン著、井口耕二訳、文藝春秋/画像クリックでAmazonページへ リンク先は上
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 イーロン・マスクの人生を描いたこの本は、前述した『新装版 コウモリであるとはどのようなことか』が教えてくれる、「他者の気持ちを完全に想像することは不可能である」という他者理解の前提を心得たうえで読むと、より深く味わえるかもしれません。

 マスクのような人物が、どのようにして現在のマスクになったのか。この本で最も印象的なのは、マスクの「自己肯定感の低さ」です。

 不安で仕方がない彼は、その不安をかき消すために壮大なチャレンジを続けている。そのヒリヒリするような感覚によって「自分は生きている」と実感する——マスクは、そうでもしなければ生きることが怖くてたまらない、と語っています。そこには、幼少期の体験が大きく影響しています。

 「生きている実感を持ち続けなければ生きられない」とは、どういうことなのか。僕自身、「生きている実感」を常に持てているかというと、そうではありません。むしろ「生きているのが当たり前」という感覚のほうが強い。ですが、死を間近に感じる出来事があり、そこから解放されると生きている実感を得られることがあります。

 死を意識して初めて、人間は生を理解できる。そう考えると、マスクは常に死を意識しながら生きているともいえます。

 天才実業家としてもてはやされることの多い彼ですが、実は、常人には到底想像できない、ある種「珍種のコウモリ」のような存在なのです。そんな彼の人生を知ることは、他者理解を深めるうえでも大きな意味があると思います。

 猛烈に働き続けるマスクは、周囲にどう言われても、その働き方が時代に合っていなくても、気に留めることはありません。そうして、身を削ってでも仕事に労力を注ぎ続ける彼のような人物が、イノベーションを起こすという側面もあるわけです。

 マネジメントにおいて、もしマスクのような人が部下にいるとしたら、その動きを止めようとすること自体が不毛な試みであると、心得ておく必要があると分かるでしょう。

身体の「固定装置」から自己理解を深める

7. 『身体は考える 創造性を育む松聲館スタイル』甲野善紀・方条遼雨著、PHP研究所

『身体は考える 創造性を育む松聲館スタイル』甲野善紀・方条遼雨著、PHP研究所/画像クリックでAmazonページへ
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 最後に紹介するのは、武術家である甲野善紀・方条遼雨の『 身体は考える 』です。ここで皆さんに質問ですが、武術家として最も強いのは、どんな人物だと思いますか?

 この本の一つの答えは、「脱力している人」こそが強い。例えば、老齢の武術師範が強くあり続けられる理由は、筋力でもパワーの強さでもなく、この「脱力」の技術が卓越しているからだ、とこの本を読むと分かるのです。

 人間の身体は、力を入れ過ぎていると、バネのような反動から生まれるパワーを発揮できません。立ち姿勢でも、自分では気付かぬうちに、余計な力があちこちに入っているものです。野球でバットを振るときにも、力強くバットを握り締めていては、打球はそれほど伸びないでしょう。あるポイントで脱力し、その反発によって力が伝わり、飛距離が伸びるのです。

 この本では、そのように「つい力が入ってしまう状態」を「固定装置」と呼んでいます。身体に固定装置が多ければ多いほど、本来の力を発揮することはできません。

 そして、この「固定装置」という考え方は、心にも通じるものだと思っています。例えば、伸び悩んでいる部下がいる場合。その部下は、多くの「固定装置」を心に抱えたまま仕事に臨んでいるかもしれません。つまり、いつも力んでいるから、いざという時のパワーが出せない可能性があります。そんな時、相手の「固定装置」の在処を見抜いてそれを外してあげることができれば、本来の力を取り戻せるかもしれません。他者の心の中に「固定装置」はないか? そんな視点でこの本を読むと、また違った意味を見いだせるはずです。

取材・文/金澤英恵 編集協力/山崎綾 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集部)