年齢や立場を問わず、生きていれば、誰もが「うまくいかない」瞬間に直面するものです。そんなとき、ただ前向きな言葉や成功談を吸収するだけでは足りません。むしろ必要なのは、他者や自分の「うまくいかなさ」とどう深く向き合うか。理不尽さや挫折、停滞や違和感を「学びの種」として捉え直す視点が、新たな気づきを与えてくれ、生きるための教養になることがあります。

 今回は、そんな人生の見え方を変えてくれる名著を、読書のプロ・荒木博行さんに5冊選んでもらいました。荒木さんの解説を読むと、「解釈次第で自分の人生の景色が変わる」ことが分かります。

 想定外のことが起きたとき、何をやっても裏目に出るとき、人生の岐路で選択に悩んだとき、どうしようもないくらいに落ち込んだとき。ぜひ本を開いてみてください。

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対話不能な相手がいたら「構造」だけ探ればいい

1. 『話が通じない相手と話をする方法』 ピーター・ボゴジアン、ジェームズ・リンゼイ著、藤井翔太監訳、遠藤進平訳、晶文社

 初めに紹介するこの本は、哲学者である著者が、「話が通じない相手」とどう向き合えばいいのかを、入門・初級・中級・上級・超上級・達人という6つのステップに分けて教えてくれる一冊です。ソクラテスの対話を引用しながら、哲学的な視点からも丁寧に掘り下げていて、かなり読み応えがあります。

『話が通じない相手と話をする方法』 ピーター・ボゴジアン、ジェームズ・リンゼイ著、藤井翔太監訳、遠藤進平訳、晶文社/画像クリックでAmazonページへ
『話が通じない相手と話をする方法』 ピーター・ボゴジアン、ジェームズ・リンゼイ著、藤井翔太監訳、遠藤進平訳、晶文社/画像クリックでAmazonページへ

 「哲学者が教える不可能を可能にする対話術」というサブタイトルだけ見ると、よくあるスキル本のようにも思えますが、実際に読んでみると、それだけじゃない。人間関係全般に応用できるヒントがたくさん詰まっていて、読んでいて本当に面白いんです。

 僕らの周囲には、「どうしても話がかみ合わない」と感じる相手が一人や二人はいるものですよね。思想がまったく合わない、考え方が理解できない。対話不能な相手と向き合わなければならない場面は、意外と少なくありません。そんなときは、無理に「分かり合おう」としなくていい。むしろ大切なのは「相手がその考えに至った理由を探り、背景や思考の“構造”に目を向けることだ」——と説くのがこの本です。

 例えば、極端な自己責任論を掲げ、その考えをさも当然のように語るような人に出会ったとき。最初は「さすがにこれは許容できない」と感じるかもしれませんが、よくよく話を聞いていくと、相手の育ってきた環境や、これまでの経験が見えてくる。すると、「なるほど。だからこの人はこういう考え方なんだ」とふに落ちる瞬間があったりします。

 意見がかみ合わないからといってすぐに拒絶するのではなく、少しだけ視点をずらして、相手の“構造”を見てみよう。それこそが、本書が教えてくれる重要なポイントです。

 僕自身も仕事で、正直まったく共感できないと感じる人に出会うことがあります。しかし、相手の“構造”に視点を移すことで自分の中のわだかまりが緩み、「共感も同意もできないけど、学びになったな」と感じることがあります。

 もちろん、理不尽な人に出会ったとき、すぐに冷静に受け止めるなんてどだい無理な話です。気持ちも荒れるし、腹も立つ。でも、少しだけ視点の角度を変えると、話が通じない相手の理不尽さの裏にある構造が見えてきて、学びの種に変わることがある。この「構造から理解する」という視点は、他者と分かり合うことが難しくなった今の社会で、とても大事な視点なのではないかと思います。

困難を“エンタメ”に変える人たちがいる

2. 『経営中毒』 徳谷智史著、PHP研究所

 多くの人は「社長」という立場にはないかもしれませんが、仕事をしていれば何かしら、経営者と関わる機会はあるものですよね。ただ、その距離感や接点の度合いによって、「社長」という存在の解像度は人それぞれ。中には、「雲の上の人」や「なんでも自由にできる宇宙人」のように映ることもあるでしょう。

 そこで、次に紹介したいのが、『経営中毒』という本です。先ほど触れた「構造から理解する」という視点をさらに深めてくれる一冊でもあり、読み進めるうちに、社長という存在の特異さが浮かび上がってきます。

『経営中毒』 徳谷智史著、PHP研究所/画像クリックでAmazonページへ
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 多くの社長は、「困難がないと生きている実感が湧かない」「困難そのものをエンタメとして楽しめる」という性質を持っているように思います。まさに、その感覚こそが「社長である人とそうでない人」を分ける一つのポイントなのだということが、この本からは見えてきます。

 例えば、スタートアップ系の社長たちは、のるかそるかのギリギリの勝負をしているときにこそ、自分が生きている実感を得ている人が多い。だからこそ、せっかくの週末もトライアスロンに打ち込んだりして、自分を証明し続けずにはいられないのです。

 タイトルにある「中毒」という言葉は、非常に的を射たチョイスで、困難を一度乗り越えて達成感を味わってしまうと、次の困難を求めずにはいられなくなる。それが、「社長」という職業の中毒性なのでしょう。イーロン・マスク氏などは、その象徴的な存在です。電気自動車で成功を収めた後、次は宇宙へ、そして人の脳へ、と挑戦する。もはや「困難への依存」と呼んでもいいかもしれません。けれど、その背景には、ある種の快感が確かに潜んでいるようにも思います。

 もちろん、僕ら自身が同じ感覚を持っていなくたってかまわないし、彼らの生きざまに共感できなくてもいい。でも、「困難がないと生きられない」「困難そのものをエンタメ化する」人たちもいるんだと知ることが、一つの大きな視点になるはずです。

 自分が人生に行き詰まり、八方塞がりだと感じるとき。「これはもしかすると、何かを乗り越えようとしている証なのかもしれない」と思えたら、それは確かな転換点になりますよね。うまくいかない時期にこの本を読めば、「今のしんどさって、もしかすると人生の次のフェーズの入り口なのかも?」と、ふと感じられる瞬間があるかもしれません。そして社長たちのように、困難が“エンタメ”に変わったとき、人は少しだけ前に進めるのかもしれない。本書はそんなふうに、視点が柔らかく切り替わる読書体験ができる一冊です。

今こそ読む価値 転落した車輪の下から見える世界

3. 『車輪の下』 ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳、新潮文庫

 真面目で素直、成績も優秀な少年・ハンスは、誰が見ても“いい子”な優等生。しかし、厳格な教育と周囲の過剰な期待に押し潰され、彼の人生は次第に空回りし、やがて悲劇的な結末へと向かっていきます。そんなヘルマン・ヘッセの小説『車輪の下』は、読んだことがあるという方も多いかもしれません。けれど僕は、改めて今の時代にこそ手に取ってほしい一冊だと思っています。

『車輪の下』 ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳、新潮文庫/画像クリックでAmazonページへ
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 この作品のタイトル「車輪の下」という言葉には、象徴的な意味が込められているように感じます。車輪の“上”にいる人は、効率よく移動しながら、どこか世の中を見下ろしている存在。けれど、一度“下”に落ちると、その車輪を見上げる立場になり、同じ世界がまったく違った風景に見えてくる。この視点の落差こそが、人生転落のリアリティーではないでしょうか。

 特に印象的なのは、ハンスが“優秀であるが故に”期待に応えようと頑張り過ぎてしまうところです。父親や教師の期待に応えようとするその真面目さが、かえって彼自身を追い詰めてしまう。そして、真面目な自分を手放すことができなかったが故に、立ち直るチャンスさえも失ってしまいます。

 頑張ってきたにもかかわらず、人生が崩れ落ちていくとき、人は世界をどんなふうに感じるのか。やることなすことが裏目に出てもうどうにもならない。そんな“ネガティブ連鎖の極致”にある心理や風景が、この小説には鮮やかに描かれています。

 だからこそ、人生がうまくいかず、つい気持ちが沈んでしまうときには、この本を手に取ってほしいのです。僕自身、うまくいかないときにこの本を読むと、心をぎゅっとつかまれるような感覚になります。ハンス少年の姿を通して、「自分は頑張り過ぎていないか?」「他人の期待に引っ張られすぎていないか?」と、ふと立ち止まって見直してみる——そんな機会をくれる本だからです。

人生の「意味不明な伏線」はやがて回収される

4. 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 上・下』 ウォルター・アイザックソン著、土方奈美訳、文春文庫

 伝記作家のウォルター・アイザックソン氏といえば、イーロン・マスク氏の伝記でも話題になりましたが、今回ご紹介したいのは『レオナルド・ダ・ヴィンチ』です。これは、いわゆる“偉人の生涯を追う伝記本”とは一線を画す作品。ダ・ヴィンチの人生がある一点に向かって伏線を回収していく…そんな壮大なストーリーとして描かれているところに、ぜひ注目してほしいと思って取り上げました。

『レオナルド・ダ・ヴィンチ 上・下』 ウォルター・アイザックソン著、土方奈美訳、文春文庫/画像クリックでAmazonページへ(クリック先は「上」)
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 例えば、ダ・ヴィンチ晩年の代表作「モナ・リザ」。この一枚には、彼が生涯をかけて積み重ねてきた学びの全てが凝縮されています。光学の研究によって、光の屈折や反射を学んだことが目の描写に活かされ、死体解剖で得た筋肉や神経の知識が、あのほほえみにリアリティーを与えている。さらに背景に描かれた風景には、彼が探究してきた地質学の知見までもが反映されている。「モナ・リザ」は、まさに人生の全てが一点に集約されたような作品だと感じます。

 そしてこの本を読んで強く思ったのは、僕たちの人生における“意味不明な伏線”が、いつかどこかでつながっていくのかもしれない、という希望です。

 僕自身、かつて会社で人事をしていたときに、社員の訃報に際して弔辞文を作成する仕事を任されたことがありました。その方の人生をたどりながら、一つひとつの出来事が、つながりを持って語られていく。そしてストーリーとして言葉にしていく過程に、この本で読んだダ・ヴィンチの人生と重なるものを感じたのを覚えています。

 僕たちはダ・ヴィンチのような偉大な芸術家ではありませんが、今は無駄に思える出来事や、理不尽に感じるような経験も、いつか自分の何かをかたちづくる材料になるかもしれない。例えば、不本意な異動を命じられたこと、思わぬトラブルに巻き込まれたこと、キャリアが止まったように感じたこと…。そうした出来事の全てが未来で回収される伏線になっている可能性だってあるのです。

 そんなふうに思えるだけで、今この瞬間の歩み方が、少し変わってくるような気がしませんか。この本には、悩みの中にあっても、静かに前へと進むための勇気をくれる力があると思っています。

成長しない。停滞する。それもまた「人生」

5. 『くっすん大黒』 町田康著、文春文庫

 最後に紹介するのは、町田康氏のデビュー作『くっすん大黒』です。正直、読んだ人の半分くらいが「何が面白いのかよく分からない」と言うかもしれません。かなり変わった小説であることは間違いない。でも僕は、これがめちゃくちゃに面白かった。特に今、人生がうまくいかないと感じている人にこそ推薦したい一冊です。

『くっすん大黒』 町田康著、文春文庫/画像クリックでAmazonページへ
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 物語の内容はというと…主人公は、働くことに絶望し、酒を飲んでは街をさまよう男。妻にも見放され、部屋にあった大黒様の置物に「これが俺の不幸の元凶だ!」と八つ当たりし、大黒様を捨てに行く――ただそれだけの話です。

 しかし、その“捨てに行く”までの過程が、驚くほど大げさで、面倒臭い。ゴミ箱に捨てていいのか? 捨てに行くまでの道のりで職務質問されたらどうする? といった、くだらない思考が延々と続いていきます。けれどそこには妙なおかしみがあり、思わず共感してしまう瞬間があるのです。

 この物語の大きな特徴は、主人公がまったく成長しないことにあります。現代の社会は、「昨日より今日、今日より明日」と、常に成長やアップデートが求められますが、この作品はそうした価値観に真っ向から異を唱えます。主人公はむしろ“退化”し、停滞を受け入れていく。何も解決せず、何も変わらない。でも、「それでいいじゃん」と思わせてくれる。

 僕はこの本を、「力を抜くための小説」だと思っています。仕事に追われ、効率や成果ばかりを求められる現代のビジネスパーソンにとって、「なんの役にも立たないけれど、ただ面白い」というものに触れることは、とても大切なことではないでしょうか。読むことで、「自分は何をそんなに焦っていたのか」「なぜそこまで執着していたのか」と、ふっと肩の力が抜ける。

 この物語に登場する男は、ある意味で『車輪の下』のハンスとは正反対の生き方です。なんならハンス少年にも、この本を読んでほしかった。何かに追われてばかりのとき、立ち止まってもいい。むしろ、笑いながら立ち止まったっていい。そんな価値観を、ユーモアとともに教えてくれる作品です。

取材・文/金澤英恵 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集) 編集協力/山崎綾