藤井聡太王座が防衛戦を果たした第72期将棋王座戦。“運命のライバル”ともいうべき藤井王座と永瀬拓矢九段の関係性とはどのようなものなのでしょうか。前年度の第71期王座戦の際の永瀬九段のインタビューをもとに、ひもときます。
「私には永瀬先生しかいませんから」
ついに藤井とのタイトル戦が実現した。永瀬は2022年の棋聖戦の挑戦者決定戦で渡辺明を倒したのである。「タイガーウッズのような方」と永瀬が評する渡辺には、煮え湯を飲まされ続けてきた。非公式のレーティングはそれほど変わらないのに、通じない。その渡辺に勝って藤井に立ち向かえることは大きな喜びだった。
私はこのシリーズの第1局を取材した。千日手(同一局面が4回現れると、「千日手」という引き分けになる)が2回続き、3度目の対局で永瀬が後手番で質の高い準備を見せ、そのまま押し切った。1日3局はタイトル戦では異例で(その後、藤井は叡王戦で菅井竜也を相手に経験した)、永瀬が体力勝負に持ち込んだのかという推測もあった。そして意外だったのが、「これが永瀬さんが藤井さんに見せたかった光景なのか」とごく一部のファンから批判的な声が上がっていたことだ。これは永瀬の「自分がもっと強くなって、藤井さんがまだ見ていない景色を見せてあげたい」という過去の発言が伏線としてあるのだが、千日手が卑怯な作戦かのような物言いで、もちろん全くの筋違いである。だが同時に、これだけ将棋に詳しくない方が将棋に物申すようになったのかという嬉しさも私にはあった。
なぜ永瀬は2局目の先手番で得意の角換わりに誘導したのに千日手を受け入れたのか。肝心の本人の弁は次である。
「開幕局ならではの現象なんですよね。開幕局は振り駒なので先後が決まっていません。どうしても事前準備は後手番が中心になります。2局目は私が先手になって、角換わりに誘導しました。藤井さんが手厚く研究している後手番で、『研究将棋はどうですか』と打診したら、『受けて立ちます』と強いカードを出してきたんです。こちらはちょこちょこ時間を使いましたが、藤井さんは全部で1分しか使わずにビシビシ指してこられた。もちろん私だって先手の研究はしていましたが基礎知識が中心で、明らかに藤井さんの準備が上回っている雰囲気だった。そうなると自分はその勝負は降りますね」
永瀬の戦略の思考法がよく出ているので実に興味深い。第1局を制した永瀬だったが、第2局から3連敗し、1勝3敗で敗退した。このシリーズが決着した翌日、主催の産経新聞社の取材で今後の永瀬との練習将棋について問われた藤井は「私には永瀬先生しかいませんから」と答えている。
このシリーズについて永瀬は後にこう振り返った。
「第1局の後、藤井さんは勝負にカラく(厳しく)なりましたよね」
どういうことなのだろうか。
「第1局で2回千日手があって、1日に3局指したでしょう。あれで藤井さんにエンジンがかかってしまったような気がします。それまでは藤井さんは指す戦型が大体決まっていたので、予想することができました。ただこの対局の後、藤井さんはそれまで指していなかった手札を切るようになりました。そのシリーズの第4局は相掛かりになり、後手の藤井さんは10手目に△1四歩と突いているのですが、そのタイミングでは初めてでした。藤井さんは基本的に終盤型なので、こちらが準備してきた手順を早い段階で切ってしまって、未知の局面に持ち込みたいはずなんです。でも藤井さんは棋聖戦の前まではそれをやってこなかった。ただ第1局の後に急にカラくなってしまったので、千日手は悪影響だったかな。ハハハ」
この1日に3局指した対局の中で、「途中までVSと全く同じ手順だった将棋があった」と永瀬は明かす。藤井も普通に指しているだけでは手の内をよく知られているだけに序盤で苦しくなる可能性が高く、終盤力だけでは厳しいと思い始めたのではないか。
「隙らしい隙がなくなっている」
このシリーズの後ぐらいから、藤井の評価はさらに高くなっていた。以前は序盤で苦しくなって押し切られてしまうこともあったが、互角以上で乗り切ることが増えていたからだ。序盤巧者で知られる渡辺明をして「最も序盤が整理されている棋士」と言わしめた永瀬からいろいろな意味で影響を受けていることは疑いなかった。
1日10時間の勉強量をさらに増やす
2人はその後も熱を入れて練習将棋を続けた。何も懸かっていないが、本番以上の気持ちで駒を前進させた。
もっと強くなりたい――。2人の思いは一致していた。そして2023年秋、七冠の藤井が最後の一冠を懸けて、永瀬が保持する王座に挑戦するという運命の展開が実現した。このシリーズに臨むにあたって、永瀬に何か変化はあったのだろうか。
「他のタイトル戦と比べて勉強量は増えましたね。藤井さんが相手だと、例えば普段は90手までで済ませている定跡の研究を、120手ぐらいまで用意します。そこまで深く準備しなければいけません。藤井さんが相手だとやりがいがあるんですよね」
普段1日10時間の勉強を自分に課している永瀬がさらに勉強量を増やすとは……。睡眠時間を削ったのだろうか。
「いや、自分はアニメや漫画を見る時間もあるんです。ただこの時は、それよりも対藤井戦の序盤戦を研究することに圧倒的な興味がありましたから。まあアニメを見る時間も将棋に関する何かを吸収できないか意識はしていますけどね」
例えば秦の始皇帝が中華統一を果たす『キングダム』という漫画を読む際には、描かれている戦争の作戦を将棋の戦術に生かせないかいつも考えているという。また永瀬は格闘技の試合をペイパービューで観戦することがあり、「格闘技については素人なんですけど、戦いの間などが将棋に生かせないか考えながら観ています」と語る。将棋以外の生活の時間で、どれだけ将棋のことを考えているかが大事なのだという。
「自分の見立てでは、藤井さんは例えば1日の将棋の勉強時間が8時間だったとしても、それ以外の時間も将棋に意識が向かっていると思っています」
第1局の開幕前日の記者会見で意外なシーンがあった。藤井に八冠が懸かっていることを尋ねられた永瀬は「それは自分には関係ないので」と撥(は)ねつけたのだ。「リップサービスを求められていることもわかっていますが、対局前日に盤上以外のことを考えるのは面倒なんです。だから本音で話しました」と語る。だから永瀬はタイトル戦では昼も夜もカレーを注文することが多いのだ。食事のメニューで頭を悩ませたくないのである。
開幕戦は序盤からハイレベルな攻防が展開された。中盤の入り口でやや非勢に陥った永瀬だが、辛抱強い指し回しを続ける。藤井の強襲もしのぎ、自玉を守るでもなく藤井玉に迫るでもない「現状維持の一手」(永瀬)を放って互角の形勢を保った。終盤で自陣飛車の好手を炸裂させて藤井を突き放し、大事な第1局を制した。藤井は10月末に行われた日本経済新聞社主催のトークイベントでこの大熱戦を解説した。それを永瀬に伝えると、「(第1局を選んだのは)妥当だと思います。一番の熱戦でしたからね。第2局は終盤に関心がないという話でしたし、第3、4局は藤井さんに解説できないでしょう」と語った。第3、4局は永瀬が終盤でミスをしての逆転劇なので、そこに関して勝者の藤井が語るのは難しいということだ。
対局翌日、永瀬は温泉につかってからチェックアウトする際、対局場の「陣屋」に色紙の揮毫(きごう)を求められた。よく「鬼亀」と記すが、永瀬は「聡」と対戦相手の一文字を残して去った。
「ファンの方に喜んでいただきたい思いは常にありますが、特に意味はありません。私は文字に意味を込めるのは好きではないんです。ただとても気持ちよく揮毫できたので、今後はこれ一択でいきたいくらいです」と永瀬は明かした。気持ちよく書けたのは大事な開幕戦を制したからではない。歴史的シリーズで雌雄を決しようとしている時でも、藤井への思いは果てしなく深い。

