終盤での逆転が目立つ緊迫した闘いとなった第71期将棋王座戦。勝負の内容もさることながら藤井聡太王座と永瀬拓矢九段の関係性も、この勝負を特別なものにした一因でした。藤井王座の唯一の研究パートナーである永瀬九段。2人の出会いとはどのようなものだったのでしょうか。

運命のライバル

 この2人の戦いだったからだと今でも強く思う。
 藤井聡太が将棋界の8大タイトルを全制覇し、棋界統一を果たした第71期王座戦五番勝負は誰の記憶にも強く刻まれたシリーズとなった。王座4連覇中の永瀬拓矢には名誉王座の永世称号が、挑戦者の藤井には将棋界初の八冠制覇がそれぞれ懸かるという舞台背景もそうだが、とにかく内容がドラマチックだった。

 タイトル戦17期無敗の藤井が挑戦者になったことで、さすがに下馬評は藤井優位だった。だが永瀬は超ハイレベルな内容で開幕戦を制し、簡単には達成させないぞという強い意思を満天下に示した。第2局は藤井が制したが、中盤では永瀬が優位に進めた局面もあった。敗勢に陥ってからも永瀬は入玉に望みを託し、勝負への執念を見せた。第3局は後手の永瀬が序盤から完璧な指し回しで勝勢を築いたが、終盤でまさかの逆転。勝者の藤井が内容を反省してガックリとうなだれたほどだった。

 そして運命の第4局。一進一退の攻防が続いたが、終盤で藤井玉に詰みが発生した。誰もがフルセットかと思う中、1分将棋に追い込まれていた永瀬にまさかの落手。詰みを逃し、藤井が驚異的な逆転勝利を収めたのだ。2局続けて終盤での劇的な逆転は、観る者すべてを興奮させるには十分だった。

藤井の唯一の研究パートナー

 そしてもう一つ。相まみえた2人が6年以上もVS(ブイエス、1対1の練習将棋)を続けており、お互いに尊敬の念を抱く仲だったことも大きい。VSの開始時は両者とも無冠だったが、まず永瀬が2019年に初タイトルを獲得し、2020年に藤井が最年少タイトル獲得記録を更新した。お互いに刺激し合い、実力を高めてきたのだ。

 トップ棋士同士でVSを行うのは珍しい。公式戦で頻繁に対戦するので、練習で指すのは味が悪いと見るのが普通だからだ。もちろん公式戦で当たる前には休止するが、戦型面などではVSから駆け引きが始まってしまう可能性もある。それでも両者ともメリットが大きいと見ているのだ。永瀬は藤井から受けた影響をインタビューなどで公言し、10歳年下の最強棋士を深くリスペクトしていた。また藤井が定期的に練習将棋を指しているのは、私が知る限り永瀬だけである。それだけで研究パートナーへの厚い信頼がうかがえる。
 そういう関係性があるからか、この2人の対戦からは「まなじりを決して」という雰囲気はそれほど感じられない。1対1で争う将棋は決闘でもあると思うが、それに似つかわしくない清新で澄み切った空気が流れているのだ。

 だがこの王座戦五番勝負に関しては、「勝負」の濃い情念が両者からしばしば見え隠れした。第2局の序盤の作戦について藤井に尋ねたところ、「番勝負中なのでお答えできません」というシビアな返事があった。そんなことは過去の藤井の観戦記取材で初めてだった。第4局で詰みを逃した永瀬がしばらくして自分が勝っていたことに気づき、頭をかきむしった。永瀬があれだけ感情を露わにする姿を見たのは初めてで、多くのファンの心を動かした。

 爽やかさと勝負師らしい激情。相反するような二つの要素が入り混じったことで、舞台背景も合わせて過去にないタイトル戦となった。それは藤井の相手が永瀬だったからにほかならない。

第71期将棋王座戦の第4局は、永瀬九段の落手で藤井王座が逆転勝利を収めた。写真は自分が勝っていたことに気づき頭をかきむしる永瀬九段(写真:稲垣純也)
第71期将棋王座戦の第4局は、永瀬九段の落手で藤井王座が逆転勝利を収めた。写真は自分が勝っていたことに気づき頭をかきむしる永瀬九段(写真:稲垣純也)
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妥協を見せない中学生

 永瀬が藤井と初めて出会ったのは、2017年にインターネットテレビのABEMAで放送された「藤井聡太四段 炎の七番勝負」である。最年少棋士の記録を更新した14歳の天才少年に寄せられる期待はあまりに大きく、破格の舞台が用意された。羽生善治らのトップ棋士を相手に6勝1敗という好成績を残して大きくアピールしたのだが、唯一土をつけたのが当時六段の永瀬だった。

 永瀬は勝利したにもかかわらず、14歳の少年に衝撃を受けていた。
 「急所の終盤戦に時間を残すのが普通なのに、藤井さんは序盤から時間をたっぷり使って考え続けました。当時14歳という若さにもかかわらず一切、妥協する姿を見せなかったんです」

 永瀬は藤井と「もっと指したい」と希求した。そしてある棋士から藤井のメールアドレスを入手し、練習将棋を申し込んだ。藤井も快諾、2017年のゴールデンウィークに2人は盤を挟むことになった。以来、2人は公式戦で対戦する前後のみ練習将棋を中断し、他では切磋琢磨を続けてきた。「持ち時間が双方30分なので1時間半から2時間以内に終わるのが普通ですが、3時間以上かかったこともありました」と永瀬は明かす。いつ終わるとも知れないラリーが続くというのだ。

 この話を永瀬から聞いていた私は、藤井が王座を奪取した王座戦五番勝負第2局を盤側で観戦した際に、なぜだか2人の練習将棋の様子が思い浮かんだ。「こりゃあ、2人とも強くなるはずだわ」という感嘆とともに。敗勢の永瀬は決して諦めることなく入玉を目指し、それを防ごうとする藤井との攻防が延々と続いた。総手数は214手。普通はどこかでポキリと折れてしまうものだが。

 永瀬と藤井の棋士人生に大きな影響を与えた「炎の七番勝負」だが、実は永瀬は当初、出場予定ではなかった。ある棋士が断ったため、永瀬に依頼が回ってきたのだという。なんという運命の悪戯だろう。
 「自分はチャンスをつかみにいこうとする性格なんです。プライドや意地はこの世で一番いらないものだと思っていますので」と永瀬はきっぱりとした口調で語る。だから当時、タイトル戦出場経験があって格上だった永瀬が「将棋を教えてほしい」と藤井にお願いし、10歳下の中学生が居住する愛知県に自ら出向いたのだ。「自分だって20代前半くらいの時はプライドはあったと思うので、そういう人の気持ちもわかるんです。でも時代は常に変わっていくので、自分も変わらなきゃいけない。棋士はプライドと意地がある人のほうが多いと思いますが、藤井さんにはそういうものはない気がするんです。将棋を勉強する上で関係ないことはそぎ落としていくタイプなんでしょうね」

本番さながらの練習将棋

 両者の練習将棋の総対局数や勝敗などの詳細は明らかにされていない。断片的に聞いたのは「最初の10局は自分が圧倒したが、次第に追い抜かされた」「大体3勝7敗ぐらいになることが多い」「10連勝しても全く緩むことがないので藤井さんはカライ(笑)」といった永瀬の発言である。

 両者のVSの1日が具体的にどういうスケジュールで行われるか気になる方も多いだろう。藤井の居住する愛知県で行われる場合は、藤井の師匠である杉本昌隆の研究室で行われる。午前10時前に集まり、すぐに駒を並べて対局を始める。
 「雑談をする文化はないですね。藤井さんは鉄道やパソコン、自分はアニメや漫画と将棋以外の興味の範囲が違うので。でも最近は気を遣ってくれているのか、藤井さんから話しかけてくれることが多いですけど」と永瀬は苦笑する。
 1局指した後に昼食を取る。杉本がお弁当を買い出しに行くが、「1局目の対局と感想戦があまりに長いので、お昼のお弁当の注文は開始前に聞くのがベストという結論に達しました(笑)。感想戦後に聞いて注文すると、かなり遅くなるので」と語る。それだけ熱心なのだ。
 「お互いに集中して考えていると、4、5分くらい沈黙することはザラにあります。自分はあまり喋るほうではないですし、藤井さんも沈黙は苦にならないタイプなので助かっています」と永瀬は語る。

 昼食後に2局指すと、午後8時を過ぎていることが多い。それから近所のファミレスで遅い夕食を取り、永瀬は終電で東京に帰る。藤井が東京で予定がある場合は、その前後に永瀬との研究会を入れることもある。そのときは永瀬がお弁当を買い出しに行く。顔を知られている藤井よりは自分が行ったほうがいいという永瀬の配慮だ。代金は永瀬が全額出す。藤井が特別ではなく、永瀬は月に20~23日程度行っている研究会やVSではほとんどの後輩の食事代を持っている。

 「東京だと藤井さんが翌日に予定が入っていることが多いので、午後10時まで拘束するのは申し訳ない気持ちがあります。だから午後8時くらいに解散するパターンが多いですね」と永瀬は言う。
 藤井との練習将棋の話になると永瀬は饒舌になる。さすがにそんなことはないと思うが、公式戦よりも大事にしているのではないかとこちらが錯覚するくらいの熱の入り方だ。