10月29日(土)と30日(日)に、地元の群馬県前橋市で“本のフェス”を開催する糸井重里さん。たくさんある本との出合いのなかで、糸井さんが初めて、寝る間を惜しんで読んだ本のエピソードなどを伺いました。読書は、親が与えてくれた、糸井さんにとって「自由」だったのだそう。

 僕は、「自分をつくった本3冊」という視点では本を選ぶことはできないけれど(その理由は第2回の記事で→「 糸井重里の告白『僕はもう、よそ行きの読書をやめました』 」)、「人生で初めて、寝床で腹ばいになって夢中になって読んだ本」については語れます。

 僕にとってそれは、北杜夫さんの本でした。

初めて夢中になって読んだ本

 なぜ読む気になったかというと単純で、小学5年生か6年生のころに通っていた英語塾の先生が、本棚の前に立って授業をやる先生だった。彼女が教えてくれている間、僕は勉強に身が入らなくてずっと背景の本棚を眺めていたんです。

 ボーッと見ているうちにふと目に入った背表紙のタイトルが『どくとるマンボウ昆虫記』(北杜夫著)。ずっと気になって、あるとき「あの本、なんですか?」と先生に聞いたら、「面白いよ。読んでみる?」と。「うーん、読むかもしれないし、読まないかもしれない」とか言いつつ、借りてきたら、面白いのなんの。

 まず、絵にやられました。佐々木侃司(かんじ)さんが描く絵がものすごく気に入って、しかも「ウスバカゲロウ、なんとも悲しい名前である」とか書いてある。寝ずに読んでいるのを父親もとがめないからずっと読んでいましたね。読み終わると次は『どくとるマンボウ航海記』を借りました。こっちには梅毒のことも書かれてあって、本の中で大人の世界をチラッと味わったりして。

「面白くて、時間を忘れて読みましたね。以後は、『北杜夫』という名前で本を選ぶようになったんです」
「面白くて、時間を忘れて読みましたね。以後は、『北杜夫』という名前で本を選ぶようになったんです」
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 うれしかったのは、僕が本に夢中になったことを親が喜んでくれたこと。以後、本屋さんによく連れて行ってくれるようになったんです。

 さらには、高校生になると「ツケ」で買うことが許された。「本屋さんのおやじに帳面つけてもらって金は後から払うから、『糸井です』って言って好きな本を選んでいいぞ」って。

本を読むことで大人の世界を知った

 最初のうちは、胸のボタンをきっちり上まで留めているような、いわゆる「真面目」な本を選んでいたんだけれど、そのうち大胆になって踏み込んだのが、『大いなる野望』(ハロルド・ロビンズ著)です。これは、当時映画化されてはやっていた、色と欲にまみれた物語(笑)。そこからさらに踏み込んで、柴田錬三郎の『眠狂四郎』シリーズにも手を伸ばし…。

 「どうせ親にはバレないだろう」と当時は思っていたけれど、親が会計するときに僕が買った本のタイトルはきっと渡っていたはず。でも、特におとがめはありませんでしたね。クラスの中で1人くらいはそういう本を読んでいるヤツがいて、「あれも面白いぞ。すごいぜ」と盛り上がったなぁ。この頃から、僕の読書は「自分で選ぶ、自由な活動」になっていたんだと思います。

好きな本を好きなだけ買える大人になりたい

 思えばあの頃から、僕にとって本は「自由」を許されるものでした。好きな本を買って、読む自由。これは、一度手に入れると、手放し難いものになりました。

 20代の頃の僕は、仕送りとアルバイトでもらうお金を本やコンサートやファッションにたくさん費やしていました。いわゆる「文化」に対する出費は、当時の僕にとっては欠かせないもので、腹が減っても手に入れたいものだったのです。

「生きる上で必需ではないかもしれないけれど、僕には必要なものでした」
「生きる上で必需ではないかもしれないけれど、僕には必要なものでした」
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 今のオフィスを構えた場所の近くにある神保町は古書店の街で、若い頃に通った思い出もあります。本をバッグに詰めて、「どこか高く買ってくれそうなところはあるかなぁ」って歩き回ったこともある。

 でも、本を売るのは、その頃からどこか悲しい時間でした。好きで手にしたはずのものを手放してお金に換える悲しみというのかな。「本を買うために本を売ることはしたくない。ちゃんと稼げる大人になりたい」って、いつも感じていたと思う。

 だから、好きな本を好きなだけ買えて、「本って安いよなぁ」なんて言えるようになったのは、僕にとっては大人になった証拠なんです。

 働いて税金を払って、たくさん本を買う。「本の経済を回すのに貢献できるようになったら、立派な大人だ」、僕はずっとそう思ってきたところがあるんだと思います。

「気に入った本を、気軽に人にあげたりできる大人になりたい、そういう気持ちもずっと持っていました」
「気に入った本を、気軽に人にあげたりできる大人になりたい、そういう気持ちもずっと持っていました」
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 でも、一つ問題があって、やっぱりつい買い過ぎちゃうんですよ。そうして、本が家の中に積まれていく。

 家の中には縦に並べたり横に積んだり、まあ、いろんな形のタワーがそびえ立っています。

 だけど実はそれほど気にしていなくて、「どんな本があるんだっけ」とチェックするだけでも、読んでいるに近いところがあると思うんです。

本は、置いておくだけで「沁みる」

 しおりさえ抜いていなくて、パラパラとめくったか、いやめくってないか、それくらいの記憶で、表紙とか背表紙とか帯とかをただ眺めるだけでもなんとなく内容が分かる気がするから、本って不思議ですよね。

 最近だんだん分かってきたんだけれど、本って、置いておけば沁みる(笑)。よく見える場所に置いておけば、もっと沁みる。だから、積読も悪くない。そう思います。

 例えば、100万部超えのベストセラー『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』(ハンス・ロスリング他著、日経BP)、素晴らしい本でしたよね。皆さんの中にも読んだよっていう人は多いと思います。さて、ここで質問です。あの本に書かれていた事例を5つ、覚えていますか?

 読んだことがある人でも、ちゃんと回答できる人、少ないと思うんですよ。ちなみに僕はあの本をもう3回も買っているのですが、読み終わる前に誰かにあげて、また気になったときに買って、を繰り返しています。でも、あれがどういう本かと聞かれたら「統計の解釈をうのみにしてはいけないという本です」と、おおよそのことは答えることができる。僕は、読書って、それでもいいんじゃないかと思うんですよね。

「やっぱり、気楽にできる読書を広めたいんですよね。積読でじわじわ沁みてくる読書もいいもんです」
「やっぱり、気楽にできる読書を広めたいんですよね。積読でじわじわ沁みてくる読書もいいもんです」
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 あともう少しで待ちに待った「前橋BOOK FES」の開催です。どんな本を手放して、誰に渡っていくのか。

 10代の僕がツケがきく本屋で『大いなる野望』を手にしたときのように、想定外の出合いがたくさん生まれるといいなと思います。

 街のあちこちで、人生がちょっとずつ揺さぶられる。そんな時間になることを願っています。

取材・文/宮本恵理子 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集部) 写真/稲垣純也