「エムスリーで業務執行役員 VPoEを務める河合俊典」と言うよりも、オープンソースコミュニティで有名な「ばんくし」と言ったほうが通りがいいかもしれない。
15年以上も前からロボコンや鳥人間コンテスト、OSSコミュニティで活躍し、高専時代からエンジニアとして名を馳せた。30代という若さの河合氏は、医療業界で様々なソフトウェア・サービスを運営するエムスリーから一度外に出たが、エンジニアを率いる役割の業務執行役員 VPoEとして同社に戻ってきた。読書家の「ばんくし」氏がお薦めする本を聞いてみた。

エムスリーで業務執行役員 VPoEを務める。愛媛県出身。新居浜高専から千葉工業大学に編入して修士号を取得。高専時代からロボコン、鳥人間コンテストなどで活躍。オープンソースコミュニティでも多くの功績を残し「ばんくし」のハンドルネームで知られる。2016年SansanのR&D部門に入社。その後Yahoo!JAPANに転職。ヤフオク!機械学習モデリングチームのリーダーとして開発、マネジメントに従事。2019年2月にエムスリーに入社、機械学習エンジニアとして活動。2022年、CADDiに入社、エンジニアのマネジメント業務に携わる。現在は再びエムスリーに戻り、業務執行役員 VPoEを務めている。
プログラミングは「人生で一番楽しいこと」の1つ
エムスリーが扱っているのは医療とテクノロジーです。我々は「健康で楽しく長生きする人を1人でも増やし、不必要な医療コストを1円でも減らすこと」というミッションを掲げており、医療の領域で事業をいくつも立ち上げています。現在、社員は全体で700人ぐらい。エンジニアは120人ぐらいですね。
作っているのは、様々な医療関係のサービスです。例えば、医師の約9割が登録するプラットフォーム「m3.com」や、国内で高いシェアを誇る電子カルテ「エムスリーデジカル」を開発しています。みなさんが病院に行った時に、医師の先生のディスプレイに表示されていることも、あると思います。
病院のDXにも取り組んでいて、例えばみなさんが病院に行って、待ち時間が長くて困るようなことがあると思うんですけれど、その待ち時間を削減するサービスの「デジスマ診療」も作っています。

エムスリーは、5~10人ぐらいの小さなチームでそれぞれのサービスを作っているので、スタートアップがたくさんあるような組織構成です。大きい企業なので、会社として戦略的に大きな投資をすることもありますし、それぞれのサービスをつくるチーム自体は小さくても裁量の範囲が広いぶん、エンジニアとしてはやりがいがある組織だと思います。
今はこのエンジニア組織をより良い形で拡大していくことに専念していますが、私自身はソフトウェアエンジニアリングが大好きです。ソフトウェアエンジニアリングって、少人数で世の中を一気に変えられる。だから、面白いんですよね。
少人数で世の中を一気に変えられる仕事って、あまり多くはないと思っています。例えば新幹線みたいなハードを作るとしたら、作るのに数万人、関わっている人も合わせると数十万人ぐらいが必要でしょうか。それで完成した後、1日に利用されるのは数十万人です。ところがソフトウェアのサービスなら、10人ほどで作ったものが、何十万人、何百万人に使われる……ということもよくありますよね。
私は経歴的にソフトウェアもハードウェアも好きですが、その中でもソフトウェアの魅力はスケーラビリティにあると思っていて、これをより良い形でチームや組織にも適用できないものかと日々奮闘しています。
ドラッカーが語る、エンジニアリングの面白さ
そんなエンジニアリングの醍醐味をより強く感じられる本が、P・F・ドラッカーの『 テクノロジストの条件 』(ダイヤモンド社)です。ドラッカーといえば、マネジメントや経済、資本に関する書籍をご存じの方が多いと思うんですけど、その人が「イノベーションを作っていくのはテクノロジストなんだ」と言っているんです。それがこの本の一番いいところですね。
“知識労働者の生産性こそ、明日を支配するうえでマネジメント上の最大の挑戦である。特に先進国にとって、彼らの生産性は先進国としての地位の基盤となる。彼らの生産性の向上なくして、今日の地位を保ち、今日の生活水準を維持することはできない。”
『テクノロジストの条件 ものづくりが文明をつくる』(P.F.ドラッカー著、上田惇生編訳、ダイヤモンド社)より引用
この本でドラッカーは、「テクノロジーの意義は硬直した世界を変えられるところにあって、テクノロジストはそれをやるべきだ」と書いているんです。エンジニアとして働く中で、この「硬直した世界を変える」という意識でものづくりをするのは、そう簡単なことではありません。私たちは資本主義市場の中で、給料をもらい、チームや組織、ユーザーと向き合っています。多くの人や物が関われば、ソフトウェアエンジニアリングは必ず停滞し、最悪の場合、衰退に向かいます。
テクノロジストとして硬直しているタイミングを見極め、変えられてこそ真のエンジニアであり、そしてそれがソフトウェアエンジニアリングの醍醐味であるということです。

ロボコンをやっていた時の話ですが、大会の2週間ぐらい前から泊まり込みで作業して、夜中の1時に「このヒンジを何ミリ曲げるか」でケンカが始まったりするわけです。高専時代の一番の思い出は、そのケンカで友達が背負い投げでポーンと投げられるのを見たことですね(笑)。
泊まり込みがブラックとかそういう話ではなく、そのぐらい停滞を恐れ、数ミリの変更に対して情熱的に言い合えることが重要です。イノベーションとはそういう時に生まれるものだと、それがテクノロジストの役割だとこの本は言っているのです。
これは「エンジニアはどうあるべきか」に関わる話ですので、すべてのエンジニアが読んでおくべき本だと思います。
今は「AIがコードを書けるから、これからどうしようか」と言われていますが、私はあと20年ぐらいはエンジニアの仕事はあると思っています。じゃあ「その20年で何をするか?」をより深く考えるという意味でも、こういうマクロな本は役に立つと思います。
誤解されているマッキンゼーの採用基準とリーダーシップ
『 採用基準 』は、私が読んだ中で一番効いたビジネス書かもしれません。エンジニアってビジネス書とか、自己啓発本が苦手な人も多いと思います。論理だけではない分野ですし、私も昔は苦手な部類でした。でも、この1冊は本当にお薦めできます。この本にはリーダーシップにおいて大切なことが詰まっています。
“全員がリーダーシップをもつ組織は、一部の人だけがリーダーシップをもつ組織より、圧倒的に高い成果を出しやすいのです。だから学校も企業も、欧米では(もしくは外資系企業では)全員にリーダーシップ体験を求めるのです。”
『採用基準 地頭より論理的思考力より大切なもの』(伊賀泰代著、ダイヤモンド社)より引用
著者はマッキンゼー出身で、書籍冒頭で「多くの人の考えているリーダーシップと、マッキンゼーが考えているリーダーシップは違う」という話が出てきます。
この本では、リーダーとは、船が沈んで救命ボートに乗る時に、「この人のボートに家族を乗せよう」と思えるような人のことだ、と言っています。多少性格が強引だろうが、自分とは性格が合わない人だろうが、命さえ助けてくれるなら(目的を達成できるなら)その人の船に乗ろう、と思えるような人です。

そして、他の人もその人の言うことに妄信的に従うのではなく、必要があれば意見もするし、救命ボートの目標である「命を助ける」というタスクを達成するために、自分事として考え、チームとして行動できるのもまたリーダーシップであるとしています。
つまり、「目的に対する行動のすべてがリーダーシップである」と、そう言っているのです。
ボートをより良い方向に向かわせた経験、リーダーシップの有無は、AIが発展していく今後、重要になってくると思います。一緒に働くのなら、共にかじを握ってくれる人がいいですよね。もちろん、かじの握り方にもいろいろあるとは思いますが。
若手エンジニアにも読んでほしいですね。私ももっと早く、できれば新卒1年目で読みたかったなと思う本です。
シリコンバレーのスターたちを導いた「伝説のコーチ」
次の本には、シリコンバレーでコーチを務めたビル・キャンベルと、GoogleやAppleの経営者とのやりとりがたくさん出てきます。
『
1兆ドルコーチ
』はコーチングについて語られているので、自己啓発に近い内容ではありますが、エンジニアにも身近な企業群の「シリコンバレーのあの世界的なプロダクトの裏側で、こんな問題が起こっていたんだ……!」という話を知ることができるのも面白いです。
“ビル・キャンベルは、グーグルの成功にとって最も重要な存在の一人だったと断言できる。彼がいなければいまのグーグルはない。誰にとってもこれだけの業績があれば十分満足だと思うが、ビルはそうではなかった。彼はグーグルの経営陣やアップルのスティーブ・ジョブズと仕事をするあいだも、ほかの多くの人たちに力を貸した。”
『1兆ドルコーチ シリコンバレーのレジェンド ビル・キャンベルの成功の教え』(エリック・シュミット、ジョナサン・ローゼンバーグ、アラン・イーグル著、櫻井祐子訳、ダイヤモンド社)より引用
途中に「ジョブズから電話がかかってきたけれど、1on1の最中だったから切った」というエピソードが出てくるのですが、私はこの話が好きです。ビル・キャンベルという人物が、目の前の仕事、目の前の人としっかり向き合うことをいかに大切にしていたのかを端的に示しています。

私をVPoEというマネージャー職に導いた1冊なのですが、ぜひこれも若手の時に読んでおいてほしいです。事業が人をつくり、人が事業をつくるということを知っているだけで、ソフトウェアエンジニアの幅は大きく広がると思います。
妥協は妥協で大事ですし、どこで妥協するか判断できるのもプロのエンジニアとして重要だと思いますが、もう一歩踏み出してやり切るのが大切なこともあるんですよね。締め切りに間に合わせるとか、プロダクトを安定的に動かすための手法、ナレッジっていうのもあるんですけれど、「ちょっと無理してでも一歩踏み出す」みたいなことは、エンジニアリング組織向けの本にはあまり書かれていません。それをこの本から学んでほしいですね。
「実力で評価する」のは本当に平等なのか?
これは、さすがに新卒3年~5年目ぐらいの人向けかもしれません。『 実力も運のうち――能力主義は正義か? 』はサンデル教授の本なので、ちょっと哲学的な本ですね。トロッコ問題とか、なぜ理系に女性が少ないのかとか、そういう問題に対して深く考えるような1冊です。
“競争の激しい能力主義社会で努力と才能によって勝利を収める人びとは、さまざまな恩恵を被っているにもかかわらず、競争のせいでそれを忘れてしまいがちだ。能力主義が高じると、奮闘努力するうちに我を忘れ、与えられる恩恵など目に入らなくなってしまう。こうして、不正も、贈収賄も、富裕層向けの特権もない公正な能力主義社会においてさえ、間違った印象が植え付けられることになる――われわれは自分一人の力で成功したのだと。”
『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(マイケル・サンデル著、鬼澤忍訳、早川書房)より引用
ソフトウェアエンジニアは、比較的実力主義になりやすい傾向があると思います。コンピュータに対する理解や経験は、人によって大きく差があり、その差がプロダクト開発のクオリティに直結する側面があるからです。実力主義だけだと、その人の人間性とか、チームの中での価値とか、実はマネジメントで会社を支えているとか、そういうことを見落としてしまいがちになります。これは、どれだけ意識していても、障害のような緊急時、自分の体調が悪い時、もっと細かな意思決定の節々で現れてしまうので、私だって常に気を付けなければならないことです。
能力が高い人も、いろんな人に支えられて今があるわけですし、そこには環境や運の要素もある。単純な側面だけで見ないで、他の側面も考えるきっかけになる本だと思います。自分とはスペシャリティが違うけれど、能力が高い人はたくさんいます。そういう人たちをリスペクトして、一緒にどうやって働くかといったことについて早めに考えておくと、エンジニアとしてのキャリアが広がると思います。

この本の中に世襲の話が出てくるのですが、「親がコンピュータに詳しくないと、プログラミングを学ぶチャンスも減ってしまう」という点ではエンジニアにも近しいところがあるなと思います。私は両親が教師で、「学校のDXを考える」みたいなタイミングで、父親が偶然「これからは一家に1台PCだ」と言ってパソコンを買ってきたから、私がコンピュータに触れる機会ができたわけです。
今だったら、AI格差もあるかもしれません。親が毎月、ChatGPTに数千円を払ってくれるかどうかで、できることは全然違います。私はたまにプログラミング教室の講師をやることもあるのですが、今は小中学生にAIとプログラミングを教えたら、2週間ぐらいで7,000行ぐらいのコードをガーッと書いてきたりしますから。熱量があってお金が適切に投資されている人と、そうじゃない人の格差が広がっていく。でも、それって本人の能力というより、運の側面もありますよね。
文化資本の違いが広がる中でも、より多くの人を幸せにできるようなソフトウェアを作っていきたいと思っています。そして、根本的にはエンジニアリングの表現性が好きなので、1人でも多くの人にエンジニアの面白さとか、ものづくりの楽しさみたいなものを感じていただきたいと思っています。
こういった考えの一端には、ご紹介してきた本の存在があります。
取材・文/村上タクタ 写真/尾関祐治(人物)、スタジオキャスパー(書籍) 構成/西倫英(日経BOOKプラス編集部)



