サポーターという「不完全な役回り」を引き受けている皆さんへ
子どもの受験や部活動の試合、あるいは職場で部下のプレゼンを見守る時。当事者である本人以上に、胃を痛め、動悸(どうき)を抑え、終わった瞬間にどっと疲れが出る――そんな経験はありませんか?
「もっとああすればよかったのに」「なんであそこで踏ん張れないんだ」。そんな思いが口をついて出そうになり、あるいは我慢できずに言ってしまう。そして後になって、「言い過ぎたかな」「余計なお世話だったかな」とひとり反省会を開く日常の繰り返し。
もしあなたがそんな葛藤を抱えているのなら、それはあなたがそれだけ真剣なサポーターだからです。けれど同時に、少しだけ「立ち位置」がズレてしまっているのかもしれません。私たちは、いつの間にか「サポーター」の一線を越え、「プレーヤー」や「コーチ」になろうとしていないでしょうか。
今日は、正解のない時代における、人を育てる・見守る・支援する「大人の器」について、少しお話ししてみたいと思います。
学校で教わらなかった「サポーター」の手法
そもそも、支援する立場のサポーターという役割には、教科書がありません。「サポーターになりなさい」と言われることはあっても、私たちはその方法を学校でも社会でも教わってきませんでした。
スポーツやビジネスの現場には、プレイヤーとしての技術書や、指導者(コーチ・マネジャー)としてのノウハウ本は溢れています。でも、「一番身近な支援者(サポーター)」がどうあるべきか、というノウハウは驚くほど少ないのです。
だからこそ、私たちは迷います。
あるときは「親」としての責任感から、あるいは「上司」としての指導義務から、ついプレーヤーの領域に踏み込んでしまう。「もっと早く準備しなさい」と指示を出し、「そんなやり方では効率が悪い」と先回りして教えようとし、うまくいかなければ自分のことのように落ち込む。
あらためて立ち位置の構造を整理してみましょう。「プレーヤー」は、フィールドで戦う人です。「コーチ」は、技術や戦術を教え、導く人です。では、「サポーター」の役割とは何でしょうか?
例えば、あなたが贔屓(ひいき)にしているプロ野球チームや、推しているアイドルのライブに行く時のことを想像してください。
あなたはチケットを買い、声をからして応援し、彼や彼女らの活躍を願い、時には不調を嘆きながらも、また次の試合も応援に行きますよね。突然の休養宣言を受けたとしても、批判することなく「しっかり休んで元気に戻ってきて」とエールを送る。それがサポーターであり、「ファン」という存在です。
そんなサポーターであるはずのあなたが、急にベンチに入ってきて「今の配球はなんだ!」と采配を振るったり、グラウンドに立って「俺ならこう打つ!」とバットを構えたりしたら、どうでしょう? 「いやいや、あなたはファンですよね? 何でこっち側に来るんですか?」と、つまみ出されてしまうはずです。
笑い話のようですが、家庭や職場では、これと同じことが頻繁に起きています。「サポーター」という名札を下げながら、私たちはつい、頼まれもしないのにコーチになり、時にはプレーヤーとしての過去の栄光(「俺・私の若い頃は…」)を語り出してしまいます。
特に受験やスポーツの勝負、あるいは大事なプロジェクトといった「ここ一番」の場面では、親も上司も熱が入ります。その熱意自体は尊いものですが、その熱が「介入」に変わった瞬間、当事者である子どもや部下にとっては、背中を押す風ではなく、プレッシャーという重荷になってしまうことがあるのです。
「正解」を手放す勇気
なぜ、私たちは介入したくなるのでしょうか。それは、「失敗させたくない」「正解を教えてあげたい」という親心や責任感があるからにほかなりません。
しかし、少し厳しいことを言うようですが、これからの時代、私たちの持っている「正解」は、ほとんど役に立たないことを自覚するべきでしょう。
社会の環境は激変しています。私たちが生きてきた時代の「いい大学に入れば安泰」「このやり方で成功した」という経験則は、今の10代、20代にとっては「過去の遺物」でしかないことが多い。「しっかりしてるねぇ。僕たちが中学生の頃は…」なんて言葉は、若い世代にとっては「当たり前だよ。まったくの別物ですから」とシラケる対象でしかありません(そうとは口に出さなかったとしても)。
公教育においても学習指導要領は抜本的に改変され、今の若者たちは「正解のない問い」に向き合う探究的な学びをしています。彼・彼女らは日々、自分で考え、自分で答えを作り出す訓練をしているのです。そこに、大人が「これが正解だ」「とにかくやれ」と頭ごなしに答えを与えようとしても、通用するはずがありません。
では、どうすればいいのか。
まずは、私たちが「正解はない」という前提に立つことです。そして、「サポーターとしての関わり」に、100点満点を求めないことです。
野球のバッターは3割打てば一流といわれますが、コミュニケーションも同じようなものです。いや、3割では少し低いかもしれませんが、5割――「半分失敗して、半分成功すれば御の字」くらいの感覚でいいのではないでしょうか。
「昨日はこの言葉が響いたけれど、今日は逆効果だった」「良かれと思って言ったけれど、タイミングが悪かった」、そんなことは日常茶飯事です。人間だもの、相手も自分も日々コンディションは変わります。
だからこそ、サポーターである私たちに必要なのは、一度の失敗でクヨクヨすることではなく、「毎日が探究」だと割り切る姿勢です。正解を探すのではなく、目の前の相手を観察し、「今日はどう声をかけようか」「今は黙って見守ろうか」と、その都度チューニングし続けるしかないのです。
『キャプテン』に学ぶ、見返りを求めない「陰の努力」
ここで一つ、サポーターとしてのあり方を考える上で、私がぜひお薦めしたい本(漫画)があります。ちばあきおさんの名作野球漫画、『キャプテン』(集英社文庫)です。
ご存じの方も多いと思いますが、私がこの作品に強く引かれるのは、そこに「支える者の美学」が静かに、しかしとても力強く描かれているからです。リーダー論や勝負論の裏側にある「サポートの本質」が、ここには詰まっています。
主人公の谷口タカオをはじめ、歴代のキャプテンたちは、決して最初からスーパースターではありません。彼らのすごみは、「キャプテン」という肩書以上に、チームのために「自分を整えること」を貫く姿勢にあります。誰かを責めたり、威張ったりしない。ただ、誰よりも隠れて練習し、自分にできることを静かに積み重ねる。
こうした「陰の努力」は、決して「評価されたい」とか「褒められたい」という外的承認の欲求からくるものではありません。「仲間に恥をかかせたくない」「自分がチームの足を引っ張るわけにはいかない」という、純度の高いスタンスなんですね。「透明な動機」にひもづくひたむきな背中こそが、周りの選手の心を動かし、結果としてチーム全体の力を引き上げていくのです。
そしてもう一つ、この作品に登場するキャプテンは決して出しゃばりません。「教える」「導く」というよりも、仲間を信じて待ち、相手が自分で気づくための「余白」を残す。声を荒らげず、怒鳴らず、ただ場を整えて待つ。これはまさに、現代の親やリーダーが目指すべきサポーターの理想形ではないでしょうか。
「誰が見ていなくても、自分を整える」――その静かな背中を見せることこそが、口うるさいアドバイスよりもはるかに雄弁なエールになるはずです。
「さらけ出し」が信頼をつくる
『キャプテン』の話にも通じますが、私がサポーターにとって最も重要だと考えているキーワードがあります。それが「さらけ出し(Exposure)」です。
これは、自分の弱さや迷い、不完全さを、隠さずに相手に見せる姿勢と行動のこと。多くの親や上司は、子どもや部下の前で「立派な人」であろうとします。迷っている姿を見せたらナメられる、不安にさせる、と思って、平気な顔を装います。まさに「鎧(よろい)を着ている」状態なのです。
でも、相手は敏感に感じ取っています。「お母さん、口ではいいよって言ってるけど、目が笑ってないな」「課長、自信満々に言ってるけど、本当は迷ってるんじゃないか」。非言語の雰囲気で全部バレています。
どうせバレるのですから、鎧を脱いで、正直に言えばいいのです。「ごめん、昨日は言い過ぎたかもしれない」「お父さんも、どう声をかけたらいいか、実は迷いながら話しているんだ」。こうやって「さらけ出す」ことは、決して恥ずかしいことではありません。むしろ、真剣勝負の渦中にいる子どもや部下にとっては、大きな安心感になります。
彼・彼女らは今、プレッシャーの中で戦っています。「どうすれば勝てるのか」「どうすれば結果が出るのか」、答えのない問いと格闘しています。孤独で、不安なのです。
そんな時、一番身近な大人が、涼しい顔で正論を言ってくるのと、「実は私も悩んでいるんだ」と人間臭い姿を見せてくれるのと、どちらが「仲間」だと感じられるでしょうか。
「大人だって完璧じゃないんだ」「親も自分と同じように、答えのない中で葛藤してくれているんだ」。そう伝わったときにこそ、「上と下」の関係ではなく、共に戦う「横」の関係が生まれます。それこそが、サポーターとしての信頼のベース(土台)になるのです。
声かけは「期待」ではなく「応援」のスタンスで
繰り返しになりますが、サポーターの役割は、問題を解決してあげることではありません。そもそも、当事者の抱える課題を、代わって解決することなどできません。
子どもがスランプに陥っている時、部下が壁にぶつかっている時。私たちはつい、前のめりになって解決策(Solution)を提示したくなります。「こうすれば直るよ」「ここがダメなんだよ」と。
しかしながら、私たちに求められているのは解決策ではない。「自分は1人じゃない」と思える環境、安心して弱音を吐ける場所をつくることを優先しましょう。サポーターができることは、日常の中に「失敗しても取り戻せるチャンス」があることを示し、安全基地となってあげることです。
それは、何か特別なアドバイスをすることではありません。「あなたのことを見ているよ」「悩んでいることは分かっているよ」と存在を承認し、ただ隣にいることが大切です。
かける言葉のチョイスも重要です。
日々の声かけは「期待」ではなく「応援」であってほしいと思います。「期待しているぞ(だから結果を出せよ)」という言葉は、時として重荷になりますが、「応援しているぞ(どんな結果になっても味方だよ)」という言葉は、勇気になります。
もちろん、ここぞという勝負の時には、親だからこそ、上司だからこそ言える厳しい一言が必要な場面もあるでしょう。「今、逃げずにやり切ったか?」と問わなければならない時もある。でも、その「伝家の宝刀」を抜くのは、本当に人生を左右するような勝負の時だけです。毎日のように抜いていたら、それはただの口うるさい小言になり、いざという時にまったく効かなくなってしまいますから。
日常においては、サポーターである私たち自身も迷いを隠さず、間違え、それを謝り、また向き合う。そんな不完全な「人間同士」の付き合いを積み重ねていくこと。「正解」なんてなくていい。「毎日が探究」でいい。
そう腹をくくれた時、あなたの肩の力は抜け、不思議と子どもや部下との関係も、柔らかいものに変わっていくはずです。サポーターである私たち自身が、まずはその「不完全な自分」を許し、楽しむことから始めてみませんか。
取材・文/宮本恵理子 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集) 写真/洞澤佐智子 本写真/スタジオキャスパー




