2025年12月4日、弁護士ドットコムは東京証券取引所の東証グロース市場から東証プライム市場へと上場市場区分を変更した。弁護士の資格を持つ創業社長として初めて自分の起業した会社を上場させた元榮太一郎氏をはじめ、20数人のキーパーソンの貴重な証言で綴るベンチャーストーリー、『世界は法律でできている』(日経BP)から一部を抜粋してお届けする。その第1回。
シャンパンファイト
指定されたレストランに入ると、準備が着々と進められていた。数人の社員が、ビニールを手に右往左往している。やったことがないことをやろうとしているのだから、仕方がなかったのかもしれない。
とにかく壁という壁に貼らなければならなかった。加えて、天井にもなんとかしてビニールを貼ろうと社員が悪戦苦闘していた。ビニールに隙間があれば、階下の店舗に水漏れしてしまうのだ。
弁護士ドットコムの社員第1号だった福田竜一、その1年数カ月後に入社した第9号社員の多田芳幸は、この日のことをよく覚えている。弁護士ドットコムの上場が決まり、「シャンパンファイトをやろう」と言い出したのは、創業者で社長を務めていた元榮太一郎だった。
福田は言う。
「上場が決まったときに何か特別にメッセージがあったのかというと記憶にないのですが、このシャンパンファイトだけはよく覚えています」
多田も続ける。
「まさかこんなことができる日が来るなんて思いませんでした。もう絶対に経験することはないと思いました」
びしょ濡れになることはわかっているのに、濡れてもいい格好をしてきた人間は一人もいなかった。仕事帰りにそのまま寄ったという風体の社員たちは、ごく普通にレストランに集まってきた。
そして元榮の挨拶と掛け声とともに、シャンパンを手にした社員たちが一斉に振り始め、威勢のいいシャンパンファイトが始まった。参加したのは、ここまで苦しい業務に奮闘してきた社員や役員や協力者たち、40人ほど。
この場は無礼講。福田や多田も「こんなことができるのは今しかない」とばかりに元榮はもちろん、創業期から苦労を共にしてきたエンジニアなどの仲間たち、さらには上場直前の期に弁護士ドットコムに加わった役員たちにも容赦なくシャンパンを浴びせかけた。漂う甘いアルコールの香りとともに、心地良い酔いが押し寄せてきた――。
2014年12月11日、弁護士ドットコムは東京証券取引所マザーズ市場(現グロース市場)に上場した。日本で初めての、弁護士が創業社長を務めた会社の上場は大きな話題となった。また、困っている人と弁護士をインターネットでつなぐという専門性の高いビジネスも注目された。
だが、この上場までの道のりは決して平坦なものではなかった。困っている人が弁護士を探したいというニーズがあるのは想像がつく。しかし、有償で依頼者と弁護士をつなぐことは「弁護士法第72条」に抵触する。当初はお金を取ることができなかった。
しかし、自身の経験から「トラブルに巻き込まれて困っている人や、誰にも言えない悩みを抱えている人が、弁護士と出会う場を提供することこそ、自分がやるべき意義ある仕事だ」と気づき、大手法律事務所でのキャリアを捨てて起業した元榮が簡単に諦めることはなかった。
驚くべきことに、2005年にスタートしてから8年間の長きにわたって、実質的にずっと赤字でサービスを展開してきたのだ。元榮たちを支えていたのは、それでもサービスを支持してくれる利用者たちの声だけだった。
やがて少しずつマネタイズが実現していく。弁護士向けのサービスも支持されるようになる。そして弁護士会のルールが整備され、弁護士からは広告というかたちで適法に費用をもらえるようになる。こうして、ようやく手にした上場。東京証券取引所では、元榮が満面の笑みで恒例の上場セレモニーの打鐘を行った。
ところが、である。その直後に福田も多田も絶句する、驚愕の事態が起こるのである。

国会議員になる
弁護士をしながら起業し、創業社長として会社を上場に導く。「二兎を追うもの一兎をも得ず」という諺(ことわざ)があるが、元榮の辞書にはその言葉はなかった。
大きな法律事務所を辞めるときも、弁護士ドットコムを起業するときにも、周囲の知り合いや仲間の全員から、本人の行く末を心配して大反対を受けた。ところが、誰からも理解されない状況になると、俄然やる気が出てくるのが元榮という人物なのだ。誰にも理解ができないということは、うまくいけばビッグチャンスになるから、と。
「絶対にうまくいかない、と言われるようなアイデアにこそ、とてつもない可能性がある」というのが元榮の発想だった。だが、言うまでもないが、その実現にはとてつもない苦労が伴う。
大学時代、目指そうなどという素振りはまるでなく、誰もが耳を疑ったという元榮の司法試験への挑戦。あのときからそうだったのだ。
誰からも出資を受けずに8年にもわたって赤字の事業を続けられたのは、一方で弁護士として事務所を構え、収益をあげた元榮自身がそれを支えたからだ。
だが、法律事務所の代表としてその規模も拡大しながら、ITベンチャーのトップも務めるとなれば、その苛烈さは想像がつく。実際、元榮は常に多忙を極めた。
そしてようやく上場という一つの成果を得て、ほっと一息ついて、さらなる飛躍に向けて「さあ」というとき、元榮はさらに「もう一兎」を追うと言い出したのだ。
株式上場の翌月の2015年1月、元榮は周囲にその決断を伝えた。2016年7月に行われる参議院議員選挙へ出馬する。なんと、法律事務所の代表、さらには上場企業の経営者のまま、国会議員になると言い出したのだ。
第1号社員である福田の入社からまもなく、法律事務所で元榮と一緒に働くことになった桐生由紀は、当時のことをよく覚えている。
「もちろん、『ええ!?』ですよね。弁護士ドットコムは上場したばかりでしたから、『会社はどうなるのか』と大騒ぎになりました。法律事務所の面々も『え、どうして今ここで?』と、みんな驚いていましたね」
[日経ビジネス電子版 2026年2月9日付の記事を転載]
元榮太一郎、上阪徹(著)/日経BP/2090円(税込み)
