その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はデルフィヌ・パパン+ブルーノ・テルトレ(著)、グゼマルタン・ラボルド(地図)、岩田佳代子+エラリー・ジャンクリストフ(訳)、井田仁康(日本語版監修)の『 国境アトラス 世界の壁・移民・紛争の全記録 』です。
【はじめに】
国境の偉大な復活
ここ15年ほどの間、国境は再び注目を集めている。ユーロ危機、テロ、移民や難民、ロシアの周辺地域での紛争、中東での戦争、アジアでの緊張、パンデミックなど、国境がこれほどまでにニュースで取り上げられることは滅多にない。それどころか、国境をテーマにしたテレビドラマも登場している。スウェーデンのテレビドラマ『The Bridge/ブリッジ』(2011年)はフランスや英国、米国、韓国、アルゼンチンなどでリメイクされている。国境は現代の地政学の中心的テーマだ。
国境とは?
それは、線または空間による地理上の境界であり、人間が形成する2つの集団間の関係を反映したものだ。軍事的または外交的な力関係にとどまらず、伝統や良好な隣人関係も反映している。ある意味では地理に刻まれた歴史であり、「空間に刻まれた時間」(ミシェル・フーシェ)、「政治的等圧線」(ジャーク・アンセル)でもある。境界は、地域のこともあれば線のことも点のこともある。地域の境界とは征服された地帯や空間だ。線状の境界は2つの空間を隔てる。そして点状の境界には、例えば空港などがある。
本書が主として取り上げるのは、基本的には国家間に存在する、陸上および海上の空間上の境界に限定している。現代の国境は、ウェストファリア条約(1648年)に端を発する近代国家と切り離せない。理論上、国境は、その国家の領土管轄権が及ばなくなる場所に位置する。したがって、それは何よりもまず国際法の概念であり、国際司法裁判所は「主権と権利がそれぞれ行使される空間が交わる正確な境界線」と定義している。それは国家の範囲を規定するものであり、他国との接触面でもあり、国を包む目に見えない膜でもある。
フランスの地理学者、ミシェル・フーシェの言う「ホロジェネシス」すなわち国境の画定は、どのようにして行われるのか。多くの場合、血が流される。植民地の独立を考慮に入れなくても、100を超える国境が戦争によって画定されている。フランス語で国境を意味する「フロンティエール」は「フロント(前線)」に由来する。平和的に定められた国境は50ほどに過ぎない。1920年にはドイツとデンマーク間の国境が国民投票によって画定されたが、これは極めてまれな例だ。
そもそも国境は、住民を守ったり、軍隊と一般市民を隔てたり、領土を分割したりするために築かれてきた。それは以下に挙げる歴史的な事例が示している。(1)リメス、すなわちゲルマン人の侵入を防ぐために、古代ローマ帝国によってライン川の片岸に沿って築かれた防塞システム。(2)列強による植民地化をめぐる対立収拾の結果として決められたアフリカ大陸を分割する国境(1884年のベルリン会議)、(3)1950年の対立を機に設けられ、1つの国を2つの政治体制に隔てることになった朝鮮半島間の軍事境界線。
より正確に言えば、国境は以下のような状況で画定される。(1)国家間の通常戦争の結果、つまり講和条約または降伏(休戦または、それが不可能な場合は、事実上の国境のみを定める停戦)、(2)領土拡張(併合)または帝国主義的拡張(分割)、(3)独立(脱植民地化または分離)、(4)善隣関係。その場合国境が示すのは往々にして両国の権利、つまり土地の所有権、(5)国際仲裁。
国境は国と国とを隔てることはあっても、民族を明確に隔てることはまずない。これは、第一次世界大戦後にウッドロウ・ウィルソン米国大統領が望んだこととは相反する。1919年に行われた戦勝国による領土分割(パリ講和会議)を見れば、国境を画定する際には、経済的利益(炭鉱、海へのアクセス)、戦略上の必要性(領土防衛能力)、民族または国家の統一、歴史的伝統など、多様な要素が考慮されることが分かるだろう。
海上国境については、陸地からの距離という恣意的な基準で定義されるだけでなく、地質学(大陸棚)や水文学に基づいて定義されることもある。
植民地時代には、英国とフランスという大国が国境の画定に力を発揮していた。その際、前者は防衛、後者は行政を優先した。英国人であるケドルストンの初代カーゾン侯爵ジョージ・カーゾンは、間違いなく最長の国境線(9600キロ)の「立案者」だ。1990年には、現存する陸上国境の半分以上が植民地時代に画定されたものだった。大国によって画定されたこれらの「外圧的」または「政治的」な国境は、ときに奇怪な線を描くことがあった。植民地間の接触を防いだり(ナミビアのカプリビ回廊やアフガニスタンのワハーン回廊)、人々を分断したり(イスラエルのガリラヤの指)するためだった。こうした幾何学的な形(国境確定の際、チャーチルが「しゃっくり」をしていたせいで過度にジグザグになったと言われる、トランスヨルダンの東の国境なども)の合理性については、のちに疑問の声もあがっている。
そもそも国境は、住民を守ったり、軍隊と一般市民を隔てたり、領土を分割したりするために築かれてきた
「自然」国境と「人為」国境
いわゆる「自然」の国境は、世界全体の約55%を占めている。これらは、河川や水域の中央(水文学的根拠、30%)や、山脈や渓谷(地形学的根拠、25%)にある。稜線や分水嶺、谷底線(河川または谷の最も低い地点)が国境を示すことも多い。長い間、砂漠や森林や湿地は越えるのが困難だったことから、自然の国境と考えられてきた。しかし、こうした考えはもはや通用しないうえに、これらはそもそも線ではなく、空間なのだ。
対して全体の45%を占める人為国境は、北米やアフリカでよく見られるように、直線であることが多い(25%)。経線や緯線に沿って画定されている場合も多く、このような国境は「天文測量による国境」と呼ばれる。
自然の国境は「科学的」(特定が可能で権利も主張できる)だという声もあるが、本当にそうだろうか。この考え方には議論の余地がある。確かに、山や川といった国境は権利を主張しやすい。だが、なぜこれが21世紀において不可欠な基準となるべきなのか。また、山脈が2つの国を隔てている場合、自然の国境は尾根なのか、それとも分水嶺なのか。さらに、後者の場合であっても、タイとカンボジアの国境紛争に見られるように、その決定は容易ではない。一方、川や湖は特定が簡単なため、紛争は避けられるかもしれない(「これほど自然な国境はない」とはカーゾン卿の弁だ)。だが、水路は人々を分断するというよりもむしろ結びつけるものだ。その場合、どこに線を引くべきなのか。河岸か、浅瀬の中央か、谷沿いか。中国とロシアは、2444の島の領有を決めるのに40年も要している。言うまでもなく、川の流れは変わることもある。リオグランデ川がそうなった際、開削によって生じた土地の領有(1967年まではメキシコ領)をめぐって、米国とメキシコはほぼ1世紀にわたる紛争に巻き込まれた。オーストリアとイタリアは、流域の変化を踏まえて「可動式の国境」という概念を用いた。一方でドナウ川の流域の変化は、クロアチアとセルビアの領土紛争の火種となっている。
「自然」の国境はいつでも画定できるわけではない。すべての国に川や湖、山があるわけではないからだ。米国とカナダの間やアラビア半島、ロシア南部ではどうすればいいだろうか。
こうしたいわゆる「自然」な国境が、必ずしも最も複雑で、恣意的で、不公平で、論争の的となるわけではない。アフガニスタンとパキスタンの山岳国境はパシュトゥーン人の居住地を分断した。ピレネー山脈はバスク人とカタルーニャ人を分断している。ウラル山脈をヨーロッパの東の境界線と考えることは、歴史的にも民族的にも現実的ではない。また、ヨーロッパ大陸の南の国境がボスポラス海峡とダーダネルス海峡にあると考える理由もない。どちらの海峡も両岸がトルコ領であるため、なおさらだ。ライン川、オーデル川、ナイセ川はそれぞれ、ヨーロッパの歴史において最も論争の的となってきた国境だ。何よりも、同じ国境の中で人々を論理的かつ議論の余地なく統合しようとすることは、人々の生活の場を無視することになる。
いわゆる人為的な国境は、単純で、首尾一貫していて、公平で、平和的なものになりうる
逆に、いわゆる人為的な国境は、単純で、首尾一貫していて、公平で、平和的なものになりうる。サハラ砂漠の真ん中に引かれた直線が、米国とカナダの長い国境線ほど論争の的になることはない。トゥアレグ族にとっては、サハラ砂漠は長い間「事実上のシェンゲン圏」であった。また、アフリカ、中東、アジアなどの植民地の国境が、政治的・民族的現実を常に無視していたわけでもない。イラクはかつてのオスマン帝国の州から構成されている。この地域の国境のうち、1916年のサイクス・ピコ協定に由来するものはわずか700キロしかない。イランとイラクの国境画定は1639年に、イランとトルコの国境画定は1514年にさかのぼる。「アフリカの国境が人為的である」という議論は植民地時代に端を発しており、アフリカの人々はこの国境をよしとしていない。とはいえ、かつての植民地であった国々が率先して、経済的利益や人々の分断を目的として、当時と同じように「人為的」な国境線を引いているのも事実だ(モロッコと西サハラの国境)。もちろん、特定の人々、国家、民族集団、言語集団を他の集団から明確に隔てる線を引くことは不可能だ。したがって、すべての国境は、ある程度恣意的なものとなる。
自然な国境という概念には別の意味もある。それは、意図した政治的なプロジェクトであり、達成すべき理想だ。山と川に囲まれたフランスは、常にこの概念を受け入れてきた。古代ローマの属領ガリアの「自然」の国境について初めて言及したのはユリウス・カエサルだ。イデオロギーとしてならば、リシュリューにまでさかのぼることができる。ダントンは国民公会で次のように述べている。「フランスは自然の国境に囲まれている。我々は地平線の四隅から、ライン川側、海側、アルプス側へとその国境を押し広げるのだ」。その後、政治的な国境は、アルザス=ロレーヌの割譲に見られるように、言語共同体にも基づいて画定されるようになっていった。この自然な政治的国境という考え方は、拡張主義や帝国主義(国境そのものが領土を守れるように設定されたケースが多かった)、さらには脱植民地化運動(ウッドロウ・ウィルソンが提唱した「国家の境界」)をも助長していった。しかし、普遍主義の伝統を掲げ、「国境なき世界」を提唱したのもフランスだった。
「要するに、すべての国境は人によって定義されるという意味で人為的なものであり、それゆえに恣意的だ。またそれは、歴史が残した傷跡でもある」(フランソワ・テレ)。「自然は、自らが作ったと非難される国境について、まったくの無実である」(ピエール・ラルース*1)。「すべての国境は人間が作ったものであり、したがって人為的なものである」(リチャード・ハーツホーン*2)。「地形や河川にはある種の誘導力があり、境界線となることを暗示する。しかし、真の意味で国境となることができるのは、正式な法的行為によってのみであり、法的行為こそ、自然界の偶然を法の規則に書き換える唯一の方法である」(レジス・ドゥブレ*3)。「絶対的な意味でよい国境など存在しない。ましてや理想的な国境などありえない。現実の国境は、ある歴史的瞬間において、両国が対等に正当と認めているか、あるいは、一方の国が他方よりも政治的、戦略的、経済的に有利となるようなものである」(ミシェル・フーシェ)
*2 米国の地理学者
*3 フランスの作家
【目次】



