その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は渋澤健さんの『 渋沢栄一 100の訓言 「日本資本主義の父」が教える黄金の知恵 』。「まえがき」と「はじめに なぜ、いま、渋沢栄一なのか」をお届けします。

【まえがき】

 なぜ、いま、渋沢栄一なのか。

 二〇一〇年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』では、三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎の視点から、坂本龍馬の生きざまを描いています。実業界における弥太郎の最大のライバルは、渋沢栄一であったと言われています。

 弥太郎は有能な人物が経営と資本を独占すべきと主張したのに対し、栄一は経営と資本の分離を基本に、株式を介して大勢が利益を得ると共に国全体を富ます合本主義を主張し、両者は対立したというのが一般説です。

 実際のところはお互いに手を貸している事実もあり、この二人の偉人の関係を正確に描くには、テレビのドラマでは複雑過ぎるのかもしれません。

 日本初の銀行など、およそ五〇〇の会社と六〇〇の教育福祉事業の設立に関与した功績により「日本の資本主義の父」と言われる栄一が、九一歳という長い生涯を終えたのは一九三一年でした。

 その三〇年後の一九六一年、私は栄一の玄孫(孫の孫)として生を受けました。

 子どもの頃からアメリカで育ち、社会人となって帰国しても外資系企業に勤めた私は、栄一のことを強く意識してきませんでした。

 栄一が残した言葉に直接触れてみようと思ったのは、一〇年ほど前のことです。自分で会社を興すことを意識し始めた頃でした。

 この研究の過程で、栄一の言葉に自分なりの現代解釈を付けてブログに書き込むようになり、その後数年をかけて貯まったコンテンツを整理し、単行本『巨人・渋沢栄一の富を築く100の教え』として刊行したのは二〇〇七年のことでした。編集者も入念に手を入れた自信作であり、重版もかかりました。

 思い入れのあるこの作品が、この度、日本経済新聞出版社のご厚意で文庫本として棚に並ぶことを非常に嬉しく感じております。

 なぜなら、三年前と比べると、ますます栄一の訓言を必要とする時代環境になったと感じるからです。

 坂本龍馬や岩崎弥太郎のように、渋沢栄一にも近年関心が高まっており、執筆や講演依頼が絶えません。

 これは一九九〇年のバブル期をピークに、「失われた」日本の迷走が二〇年間続いている中で、今一度、本質を見直そうという日本社会の潜在的意識が浮かび上がっているからだと思います。

 これは、単に自信を喪失した日本が輝いていた過去への逆戻りを望んでいるのではありません。むしろ、原点に立ち戻って、再び将来へと視線を向ければ視野が拓けてくる、と感じているのではないでしょうか。

 そういう意味で、およそ一〇〇年前の思想に目を向けることは、過去を尊ぶためではなく、私たちの将来のために、現在から行動する際の指針になるのです。

 ぜひ、この本が多くの方々の手に取っていただけることを願っております。

  二〇一〇年七月吉日

【はじめに なぜ、いま、渋沢栄一なのか】

富を永続させるために

 お金儲け──。

 欲望にせよ、拒絶感にせよ、この言葉は人の感情を大きく動かし、ときにすさまじいインパクトを与えます。

 現在の日本は、長期にわたった不況から脱しつつあると言われています。局部的には、不動産価格や株価がバブル期の高値を更新しています。「格差」が社会問題になっており、「ヒルズ族」や「セレブ」の派手な生活がメディアでもてはやされる一方、彼らに対する社会の陰湿な妬みもひしひしと感じ取れます。

 つまり、われわれ日本人は、まだ自分たちが築いた豊かな生活には自信を持てていないのです。
 ここに、見逃されがちになっている大きな問題があります。それは、「富を築くこと」と、その「富を永続させること」は必ずしも合致しないということです。

 世の中には、「短期間で大金持ちになりたい」と考えて、夢のような話にお金を注ぎ込む人々がたくさんいます。彼らは例えば、「儲かる」と聞かされた株式や外債、あるいは不動産などに一気にお金を投じます。あるいは会社を起業した人は、莫大な利益を得ようと、上場を目指して猪突猛進(ちょとつもうしん)するかもしれません。

 場合によっては、そういう人々の一部はうまくやって、大きな利益を上げます。彼らの自慢話は「ハウツー本」となって書店の棚に並び、ときどきベストセラーになります。

 これは、成功した人々も、彼らにならって成功しようとハウツー本を買う人々も、ともに「富を築こう」という飽くなき欲望を持っていることの表れでしょう。つまり、人は「富を築き上げたい」という方向に強烈なパワーを発揮するのです。

 それでは、「富を築くこと」は、「お金儲け」と同じことなのでしょうか。

 いいえ、違います。

 自分の「お金」あるいは「富」への思いを振り返ってみてください。本当は、私たち一人一人が心に感じる素朴な望みは「お金儲けをすること」だけではなく、「その富が永続すること」にあると気がつきませんか。

 さきほど、儲けようとしていろいろな投資にお金を注ぎ込む人のうち、一部は成功すると述べました。ということは、その他の多くの人々は、特に成功しなかったり、ときには投資した分をまるまる失って、大損したりする場合もあるわけです。また、一度は儲かっても、その後失敗して、お金の多くを失うケースもあります。

 せっかく努力して儲けたお金が夢のように消えてしまうことなど、願う人は誰もいません。つまり、富とは、手に入れるだけではなく、永続させなければなりません。「富が永続すること」こそ、本当の意味で「富を築くこと」なのです。

渋沢栄一の数々の名言

 そんな恐ろしくも魅力的な「富」について、すでに一〇〇年以上前から、その本質を喝破し、いくつもの名言を残していた人物がいます。いわく、

「富というものは上手くできていて、それを独り占めしようとすると永続しない」

「しかし、大勢の民衆の一人一人の富の永続性を構築できうれば、一つ一つの事業、そして地域社会や国の発展につながる」

「富とは、決して卑しいものではない。国力の源である」

 ……などなど。

 このような高き理想を語っていたのは、日本が近代経済社会へと歩み始めた明治時代に活躍した実業家、渋沢栄一(しぶさわえいいち)です。五〇〇社もの会社を起こしただけでなく、経済活動に中国の古典『論語』などに基づく倫理的な価値観を導入した彼は、「日本資本主義の父」と呼ばれました。私は渋沢栄一の、孫のそのまた孫に当たります。

 渋沢栄一の語った「富」に関する卓見は、そのまま現在の日本に当てはめてもまったく古びていない──。そう考えたのが、私が本書を書こうと思ったきっかけでした。

 しかし、そう言うと、おそらくこんな反応が返ってくるでしょう。

「現在は二一世紀だよ。いくら日本経済史上の巨人でも、一九世紀から二〇世紀初めに活動した人物の思想が、本当にわれわれに関係あるの?」

 もちろん、大いにあります──というのが私の答えです。

 二一世紀に入って、経済をめぐる情勢はすさまじい勢いで変化しています。時代の寵児(ちょうじ)と呼ばれた若手起業家が、「金がすべてだ」「儲けて何が悪い」などと吠えながら自由自在に飛び回っていると思いきや、瞬く間に羽を容赦なくもぎ取られ、塀の中に落ちていきます。

「お金儲け」という言葉が、社会の各所で卑しく響き始めている。

 悲しいかな、これが、二一世紀日本の現状です。

 では、これは現在の日本だけの、独自の現象なのでしょうか。拝金主義的に新しい市場主義の時代を切り開こうとする勢力と、旧時代の秩序を依然として守ろうとする勢力の価値観が衝突しているから、こんなことが起こっているのでしょうか。

 答えは「NO」です。

 実は一九世紀、明治の初期に日本の新しい時代を切り開こうとした勢力も、まったく同じように保守的な勢力とぶつかっていました。そういう意味で、歴史は繰り返しているのです。その新しい時代のパイオニアとして経済界に新たな秩序を打ち立てたのが、渋沢栄一だったのです。

壮大なグランド・デザイン

 日本は、江戸時代という長期安定期を築くことに成功しました。しかし、それがいくら素晴らしいものであっても、同じ秩序を単純に守り抜くだけでは、激変する世界情勢の中で国の機能は麻痺し、いずれ大きな危機に直面する。このように先を見据えた渋沢栄一が提唱し、実行したイノベーションは、実は「民営化」でした。

 世界の競合相手に日本が立ち向かうには、拡散している民力を結集して高めるしかない。そのために、民間企業は政府に頼っていてはならない。自ら動いて、国の発展に貢献できるインフラを築き上げなければならない──。

 これが、明治初期に渋沢栄一が描いた壮大なグランド・デザインでした。

 彼はそれを実践に移そうと志し、やがて日本初の銀行の創立や、日本へ株式(合本)制度を導入するなど、資本市場の基盤をがっちりと築きました。つまり、「民から公を創る」という一大構想を、文字通り旗を振って先導した民間人だったのです。

 結局、渋沢栄一は「五〇〇社の企業を作った」という功績を後世に残します。まさに近代日本の「元祖ベンチャーキャピタリスト」というべき存在でした。

少しも難しくない『論語と算盤』

 その一方で、渋沢栄一は、決して利益の追求ばかりに奔走していたわけではありません。

 彼は、「CSR(企業の社会的責任)」や「社会起業家」といった言葉が二一世紀に流行する一〇〇年以上前に、その本質をすでに実行していた人物でもあります。渋沢栄一が関与した非営利活動団体の数は約六〇〇と言われ、これは営利を目的として創設した企業や各種団体の数、五〇〇を上回っています。

 渋沢栄一の心には、「公のために尽くす」「利益を得たらそれを長期的に社会に還元しなければならない」といった、確固とした倫理観と道徳観がありました。

 明治から大正という「日本資本主義の成長の時代」に、彼は「論語と算盤(そろばん)の一致」というスローガンを掲げて行動しました。『論語』に象徴される道徳と、お金を儲ける経済という、一見かけ離れた二つを融合させること。それが日本国の発展、そして築いた富を永続させるために不可欠である──という信念を持っていたのです。

 現代人の多くにとって、『論語』というと、どこか堅苦しいイメージがあるでしょう。学生時代の難しい漢文の授業を思い出す人もいるかもしれません。また、この時代、「算盤」を使えるどころか、その漢字の読み方さえ知らない日本人も少なくないはずです。

 実は、アメリカで少年期から青年期を過ごした私も、その一人でした。

 しかし、数年前、自分の起業がきっかけで、渋沢栄一が残した数々の言葉を読んでみて、私はハッと気づきました。渋沢栄一のメッセージの本質は少しも難しい理屈ではない、と。

 真の富を築いて永続させるために、どのような考え方をすればいいのか。考えるだけではなく、どのように感じ、行動すればいいのか。このような問いを常に自分の心に投げかけることを、栄一は一貫して勧めているのです。

「論語と算盤の一致」を説いた渋沢栄一の言葉は、講演録の『論語と算盤』という本に残され、他の著作や資料とあわせて、資本主義とそれを支えるべき倫理、道徳を雄弁に語っています。それはまさに「健全に富を築き、それを永続させるための教え」であり、いまこそ広く読まれてほしい叡智の塊なのです。

ドラッカーが渋沢栄一を絶賛

 現在、そんな渋沢栄一の思想に着目しているのは、日本人だけではありません。

 例えば中国では、近年、急激に押し寄せてきた資本主義の荒波の中、一部の知的リーダー層には「社会の規律を築きたい」という思いが高まり、渋沢栄一の『論語と算盤』に関心が高まっているそうです。二〇〇六年、武漢の華中師範大学では、中国で(おそらく)初めて「渋沢栄一研究センター」が設立されました。

 一方、「経営学の父」として有名なピーター・ドラッカーも、渋沢栄一を日本の経済人の理想像として、次のように絶賛しています。

「世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていたのである」(『世界』二〇〇六年四月号の寺島実郎氏連載「能力のレッスン」による)

 ドラッカーがこう評したのは、いまからおよそ三〇年前、一九七四年刊行の『マネジメント』という本においてでした。資本主義に対する渋沢栄一の思想は、時代も国境も超えた普遍的なものなのです。

 そんな彼のメッセージに、読者の皆さんがこの本を通じて親しんでいただければ、それはまさに、世界に通用する考えを身につける第一歩となるでしょう。

封建制度に怒る栄一青年

 ここで、渋沢栄一の人生を改めて振り返ってみます。

 渋沢栄一は、江戸時代末期の一八四〇年(天保一一年)に、現在の埼玉県深谷市に生まれました。生家は畑作や養蚕、藍(あい)問屋業などを手掛けていた農商家でした。彼は幼い頃から勉強好きで、七歳で『論語』を読んでいました。

 実は、渋沢栄一の人生を決定づけた重要なポイントが、ここに二つあります。一つは、彼が武士階級に生まれなかったということ。もう一つは、かなり恵まれた教育環境にあったということです。

 当時の支配階級、すなわち武士の家に生まれなかった渋沢栄一は、当時の世の中の限界や矛盾について、「なぜ?」と強烈な疑問を育みました。封建制度の現状に対する不満が、彼の中で大きくなっていったのです。そして、その気持ちは、学問によって広く知識を吸収するにつれ、ますます膨らんでいきました。

 と言っても、渋沢栄一は勉強ばかりしていたわけではありません。剣道で心身を鍛え、村の闘犬で競争精神を養い、一三歳の頃にはすでに藍葉(あいば)商として大人顔負けの目利きになっていました。そうやって世の中を知る中で、彼の疑問や不満は、次第に怒りへと変わっていきました。

 なぜ、さほど才能もなく、かといって汗を流して努力しようともしない人間が、武士に生まれただけで社会を支配できるのか? 特に代官などは、たまたま役所の立場に置かれただけなのに、なぜあれほど高いところからまわりを見下して偉そうな態度が取れるのか? 理不尽な階級制度に、若き渋沢栄一の腸(はらわた)は煮えくり返ります。

「智」と「情」と「意」を持って才能を発揮する人物が、向上できる新しい社会制度を創らねばならない──。若い彼の心の中で、こんな理想が育っていきました。

常に心がけたリスク・マネジメント

 しかし、高い理想を持つ革命家は、どの時代でもなかなかそれを実現できません。社会の秩序を変えようとすると、抵抗勢力が牙をむいて反撃し、さまざまな妨害を受けたり、落とし穴にはめられたり、場合によっては生命を断たれたりします。

 しかし、渋沢栄一は強運でした。少し話は飛びますが、彼は激動の時代にあって改革を進めながら、実に九一歳という長い生涯を完結しました。

 では、なぜこのような強運に恵まれたのでしょうか。

 私が見るところ、強運を生んだ渋沢栄一の生き方の一つに、「きっちりとしたリスク・マネジメントをした」という点があります。人生のリスク・マネジメントとは、明快な指針を定め、それに沿って「押すときは押すが、引くときは引く」と、柔軟に物事に対処することです。

 特に「引く」ことは大切です。「押し」過ぎは自滅のもとです。腐った日本を改革するには幕府を倒すしかないと考えた青年時代の渋沢栄一は、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画を考えましたが、結局、実行しませんでした。もしこの無謀な計画を本当に実行していたら、彼の人生は二三歳で終わっていたことでしょう。

 そうしたら、その後の渋沢栄一の功績は、歴史に残ることもなく、私を含む多くの子孫は現在存在していないことになります。こう考えると、「引く」ことの大切さを知っていた四代前の「曾々お祖父様」に、私は感謝したい思いでいっぱいになります。

 また、渋沢栄一は「偶然というご縁」を常に大切にする人でもありました。「良い運は良い人とのご縁から生じる」というのが彼の信念でした。

 では、どのように、その「良い人たちとのご縁」を得るか。そのためには、自分自身が「良い人」にならなければならない──。シンプルではありますが、これが渋沢栄一の一貫した姿勢でした。

強運の人

 幕府の体制に不満を募らせていた若き渋沢栄一は、自然と怪しい行動が目立つようになり、ついに役人から目をつけられて故郷を追われます。そのとき、今で言う勉強会のような会合で知り合い、目をかけてくれた平岡円四郎という一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ 後の一五代将軍徳川慶喜)の家来のおかげで、関所を通る手形をもらうことができ、一七日間かけて京都に上京します。一八六三年(文久三年)のことです。

 平岡は渋沢栄一に対し、「一橋家の家来になることで幕府の迫害から身を守るか、それとも牢屋で犬死にするか」と、一橋家に仕えるよう決断を迫ります。死を逃れるには一橋家に仕えるしかありませんが、それでも負けず嫌いの渋沢栄一は、「役に立つ人材を大量に採用すべき」とする意見書を殿様に差し上げることを条件に、仕官することになります。

 このような若者のわがままを許してくれたのですから、平岡円四郎という人は寛大だったのだと思われます。同時に、渋沢栄一の「目上の人にかわいがられる人柄」も窺(うかが)えて、興味深いところです。

 渋沢栄一が一橋家に仕え始めてからまもなく、平岡は水戸藩の志士によって暗殺されてしまいます。少し時間がずれて、もっと前に平岡が殺されていたら、当然彼から栄一に助けの手が差し伸べられることもなかったでしょう。そうなれば、栄一は幕府に捕らえられ、牢屋で犬死にしていたかもしれません。やはり、強運の人でした。

ヨーロッパ視察での衝撃

 渋沢栄一は一橋家で、有能な人材選びや領内貿易の合理化、藩札の流通化などに手腕を振るいました。ところが、やがて彼に思わぬ運命の展開が訪れます。仕えていた慶喜が、一五代将軍に任命されたのです。

 ほんの数年前には倒幕を計画していた若者が、今度は幕府の一員になってしまうというのですから、何とも皮肉な運命です。このとき渋沢栄一は、決して自分の過去の考えや立場に固執しませんでした。「国の発展に努めるという目的に沿っていれば、手段は柔軟でいい」という気持ちで、幕臣という新たな門をくぐることに決めたのです。結局はその決断が、次の幸運の扉を大きく開きました。

 明治維新の前年の一八六七年(慶応三年)、慶喜の弟の昭武(あきたけ)がパリ万博視察のため、ヨーロッパに渡ります。このとき栄一は、使節団の下っ端のスタッフに任命されました。何年か前には外国人居留地を焼き討ちしようとした彼は、実際に外国の社会を見て、巨大な衝撃を受けます。

 ナイフとフォーク、バター、コーヒーといった食卓に並ぶ日用品。ガス燈、電線、上下水道、病院などの社会的インフラ。そして工場、会社、取引所、銀行など、労働と資本を融合させ、富を生産する資本主義のシステム……。

 渋沢栄一はあらゆることに驚き続けました。しかし、彼はただ呆然としているだけではなく、乾いたスポンジのように知識を次々と吸収していきました。

最初の投資でビギナーズ・ラック

 このヨーロッパ旅行で、渋沢栄一が西洋流の資本主義を肌で体感したエピソードがあります。

 使節団の資金勘定担当だった彼は、「お金は銀行に預けるより、公債か鉄道株を買った方が割がいい」と現地の世話人に勧められ、それに従って公債と鉄道株を買い付けます。それが「まるで普通の商売と同じであるのに感心した」そうです。そして、やがて徳川慶喜が大政奉還をすることになったため、使節団は急遽(きゅうきょ)帰国しなければならなくなり、栄一は買った公債と株を売ります。そのとき、

「株式の方は高くなっていて五〇〇円ばかりも儲かり、面白いものだと感じた」

 のだそうです。投資の結果がいい方に出たわけです。

 もしもこのビギナーズ・ラックがなく、大損をしていれば、ひょっとすると渋沢栄一は「株式投資などバクチにすぎない」と吐き捨てていたかもしれません。その結果、資本主義のシステムを日本に導入して、国家と国民に富をもたらそうという大構想は生まれてこなかったことも考えられます。偶然とは、不思議なものです。

 使節団がベルギーを訪れたときには、こんなことがありました。ベルギー国王が一行に対し、こう言ったのです。

「鉄をたくさん造る国は必ず金持ちになり、また、鉄をたくさん使う国は必ず強くなる。日本にもベルギーの鉄をぜひ買ってほしい」

 渋沢栄一はびっくり仰天しました。一国の王様が、商品の売り込みを始めたからです。商売の話など、日本の武士や学者にとっては「卑しい」として見下す対象になる行為でした。それを西洋では、支配階級のトップが堂々とやっていたのです。

 さらに渋沢栄一を最も驚かせたのは、銀行家(日本では金貸し商人として見下されていた存在)が、陸軍大佐(日本でいえば武士)を相手に、対等に国家の行方を論じ合っている光景でした。

 江戸時代の身分制度の中で低く位置づけられていた「商人」が、高貴な「武士」と真剣に意見交換をしている。当時の日本では考えられないことでした。

 しかし渋沢栄一は、この光景から、新時代における日本の発展と繁栄のヒントを得ました。「民へのエンパワーメント」、つまり、才能や能力、あるいはきちんと築いた富に応じた権限を民に直接与える─。それが新しい時代を豊かにするカギだと悟ったのです。

役人にスカウトされる

 渋沢栄一らが帰国したとき、日本はすでに明治という新時代に突入していました。謹慎中の徳川慶喜がひっそりと暮らしている静岡で、一八六九年(明治二年)、栄一は外国で得た知識をもとに、商法会所という合本会社(株式会社の前身)を立ち上げます。まだ銀行がない時代、この会社は主に、いまで言うノンバンクのビジネスをしていました。地域の農家や商家へのお金の貸し付けや、物品の売買などが、業務の中心でした。

 この新会社は軌道に乗る兆しが見えてきたものの、すぐに同年、渋沢栄一に対して明治新政府から「民部省租税正(そぜいのかみ 現在で言う財務省主税局長)に任ずる」という辞令が下りました。パリ万博視察団での海外経験と、経理の腕が買われたのです。

 しかし、当時の渋沢栄一は慶喜への義理も大いに感じ、また外国での経験をもとに日本の商業を繁栄させようという意欲に燃えているときでもありました。静岡にとどまる決意をした彼は、民部省租税正就任の話を断わろうと、大蔵大輔(現在の財務大臣)の大隈重信と直談判するため、東京に向かいました。

 渋沢栄一は弁が立つ人でしたが、大隈重信はさらに上手でした。大隈から「君は一静岡より日本全体を富ませ、国家のために尽くすべきだ」と説かれ、納得してしまったのです。しかし栄一は、ただで承諾したわけではありません。一橋家に仕えたときと同じように、また出仕に条件を付けたのです。それは、「民部省に改正掛(かいせいがかり 今で言えば構造改革局)を立ち上げてほしい」というものでした。

 その後、渋沢栄一は租税正と改正掛長を兼任し、全国測量、度量衡の改正、租税の改正、紙幣制度、鉄道敷設……など、幅広い仕事を手がけていきます。

三三歳で銀行トップに

 この役人時代、渋沢栄一はまた一つ大きな構想を考えます。それは、アメリカの例を参考にして「ナショナル・バンク」を日本に創立し、紙幣の兌換(だかん)性の信用を高めることでした。

「バンク」の日本語訳を「金行」にするか「銀行」にするか、かなり迷ったようです。結局、後者に決めて、政府の立場から「国立銀行」条例を立案しました。

 ところが、ちょうどそのとき、渋沢栄一とその上司だった井上馨は、財政均衡について内閣と意見が対立し、共に(民部省が合併した)大蔵省を辞職します。栄一も、「カミナリ親父」と呼ばれた井上も、いつも互いの足を引っ張ろうとするお役所の縦割り行政体質にうんざりしたようです。

 明治新政府の中核から民の立場に軸足を移し、民営化によって日本の活性化と発展を促す──。大蔵省を後にした渋沢栄一は、使命感に燃えるのでした。

 結局、役人時代に彼が立案した条例をもとに、第一国立銀行が設立されることになりましたが、その主導権を握ろうとして、長年ライバルだった小野組と三井組が争っていました。しかし、退官した渋沢栄一が、その第一国立銀行の総監役を引き受けるということになって、ようやく両者の対立が収まりました。

 そのとき一八七三年(明治六年)、渋沢栄一はまだ三三歳でした。日本という国自体もまだ若々しく、イノベーションの気風に満ちていた時代でした。

 誤解されがちな点ですが、第一国立銀行は、国の条例によって成立した銀行という意味で「国立」でありましたが、資本構成はあくまでも民間によっていました。この銀行は合併を繰り返しながら歴史を重ね、現在は、みずほ銀行として存在しています。

 設立当時の第一国立銀行の資本構成は、三井組が一〇〇万円、小野組が一〇〇万円、その他が四四万一〇〇円(そのうち渋沢栄一が四万円)でした。渋沢栄一は、現在で言えば、マイノリティ(少数派)投資によってオンハンズ経営の活動をするベンチャーキャピタルのような存在でした。

 ただし彼は、第一国立銀行については、現在のベンチャーキャピタルファンドのように、エグジット(益出し)をしませんでした。結局、渋沢栄一は、四四年間という長い年月にわたって、第一国立銀行の頭取を務めることになります。

多くの企業家たちとコラボレーション

 渋沢栄一が企業五〇〇社の創業に関与したことは前に述べましたが、そのすべてが成功したわけではありません。消滅して、現在では忘れられている会社も少なくありません。例えば、北海道でオットセイなどの海獣猟業を目的に発足した青木漁猟組という会社は、一八九四年(明治二七年)に設立され、一九〇三年(明治三六年)に解散しています。

 しかし、現在も存続している企業ももちろん多く残っています。例えば、王子製紙、東京海上保険(現東京海上日動火災保険)、日本郵船、清水建設、東京電力、東京瓦斯(ガス 現東京ガス)、東京石川島造船所(現IHI)、帝国ホテル、東京製鐵、札幌麦酒会社(現サッポロビール)、帝国劇場(現東宝)、日本興業銀行(現みずほ銀行)、東京貯蓄銀行(現りそな銀行)、横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)、浅野セメント(現太平洋セメント)、川崎重工、日本鉄道会社・北越鉄道(現東日本旅客鉄道)、大阪紡績(現東洋紡)、澁澤倉庫……などがあります。

 これらのすべてを、渋沢栄一が一人で作ったわけではありません。たくさんの企業家や資本家とコラボレーションをしたり、スポンサーとして関与して創業した結果です。コラボレーションと言えば、渋沢栄一は、三菱財閥の総帥・岩崎弥太郎と二代目の岩崎弥之助、三井物産創立者の益田孝、古河財閥の古河市兵衛、浅野財閥の浅野総一郎らと深い関係がありました。

 いわゆる財界活動についても、渋沢栄一は先覚者であり、東京商法会議所(現東京商工会議所)の創立に関わっています。東京株式取引所の創立委員でもあり、現在の取引所は、兜町の旧渋沢邸の敷地内に隣接しています。

 栄一は教育・慈善活動も熱心に行いました。一八七四年(明治七年)に東京養育院を創立し、そのトップとして実に五六年、年数では第一国立銀行頭取よりも長く務めました。他に一橋大学、東京女学館、日本女子大学、早稲田大学、二松学舎大学、聖路加国際病院、東京慈恵会医科大学付属病院、日本赤十字社、国際平和議会などの設立に尽力しています。

長く豊かな九一年の人生

 一九〇九年に六九歳になった渋沢栄一は、多くの企業や団体の役員を辞任します。しかし、その活動が衰えることはありませんでした。世界情勢の動向を気にかけ、特に民間外交では老骨に鞭を打って働きました。

 すでに一九〇二年(明治三五年)、渋沢栄一は初の民間経済視察団の団長として渡米し、ルーズベルト大統領と会見していました。その後、一九〇九年(明治四二年)にタフト大統領、一九一五年(大正四年)にウイルソン大統領、一九二一年(大正一〇年)にハーディング大統領に会見しています。当時のアメリカのメディアでは、「日本のGrand Old Man(長老)」と呼ばれ、親しまれていました。

 第一次世界大戦後、アメリカで日本移民排斥運動などが起こり、日米関係が悪化していることに渋沢栄一は危機感を感じます。一九二七年(昭和二年)には日本国際児童親善会を設立し、日本の人形とアメリカの青い目の人形の交換をするなどの親善活動を行い、民間外交の草の根運動にも尽くしました。

 欧米とだけでなく、栄一はアジアとの民間外交にも力を入れました。一九〇三年(明治三六年)、彼は大隈重信と共に、インドとの友好促進のため、日印協会を創設しています。一九一四年(大正三年)には日中の経済界の提携を目指して、中国を訪問しました。「アジアとの協調なくして日本の繁栄はない」という大きな流れを見通していたのです。

 長く豊かな人生を送った渋沢栄一が永眠したのは一九三一年(昭和六年)、九一歳のときでした。

おじいさんのおじいさん

 私は幼い頃、「渋沢栄一」という名を本で見て、友達に「これは僕のお祖父さんなんだよ」と言ったことがあります。すると、「そんなのウソだ!」と否定されてしまい、「アレ? 違うのかなぁ」と考え込んでしまったことを覚えています。

 よく考えてみると、友達の反応が正しかったのです。正確な答えは「僕のお祖父さんのお祖父さん」だったのですから……。

 幼い私は、渋沢栄一が「偉い人」だったと認識してはいたようですが、それほど強く先祖として意識していたわけではありません。そして、その後長らく、渋沢栄一のことを考えることはあまりありませんでした。

 私は小学二年生のとき、旧東京銀行に勤める父の仕事の関係でアメリカに家族で引っ越しました。その後、大学を卒業するまで、アメリカでアメリカ人と共に生活し、成長してきました。日本に帰国した後も、社会人生活のほとんどを外資系金融機関に勤務して過ごしたため、「渋沢栄一」という存在は、本棚に並ぶ数冊の関連書籍の背表紙が思い出させてくれるくらいでした。

 そんな私が渋沢栄一に関心を持ち始めたのは、六年ほど前のことです。そのとき私は、独立して自分で会社を起こそうと考えていました。

「そういえば、曾々お祖父さんの栄一さんは、五〇〇社も会社を立ち上げたと聞いたことがあるな。自分はいま、ちっぽけな会社を一つ立ち上げようとしている。栄一さんの残した言葉に、何か参考になるものがあるかもしれない」

 こう思った私は、初めて、他人が描いた渋沢栄一像を読むだけではなくて、栄一が残した言葉を自分自身で検証してみようと考えました。幸運なことに、渋沢栄一に関する伝記資料は、まだアメリカに暮らしていた父・芳昭のもとに、電話帳何十冊分もが残っていました。私はさっそくそれらを取り寄せ、紐解いてみたのです。

現在の日本にそのまま使える教え

 ところが、資料を読み始めようとした私は、大きな問題に直面しました。帰国子女である私にとって、旧漢字と旧仮名で記された昔の資料を読むことは、裸でアルプスに登るのに等しい試練だったのです。そこで強力な助っ人である父に頼み、面白そうなところを現代日本語に直してもらいました。

 それを読んで、私は本当にびっくりしました。

 一〇〇年ほど前の言葉であるにもかかわらず、その根底にある考えや思い、志は、現在の日本にそのまま「使える」ものだったのです。今後、二一世紀の日本社会を発展させ、よりよい方向へ導くためのメッセージが、渋沢栄一の言葉にはぎっしりと詰まっていました。私の父も、「栄一さんが偉い人であるとは知っていたが、ここまで偉いとは思わなかった。もうちょっと早くから勉強しておけばよかったなぁ」と、ぼやくことしきりでした。まったく呑気な親子だと言われればそれまでですが……。

 こうして私は、「栄一さんの思想を、過去の遺物として教科書や史料館で尊ぶだけではもったいない。将来の日本のために、栄一さんのメッセージを、いまこそ人々にアピールしなければならない」と考えるに至りました。

 その小さな双葉のような思いが、おかげさまでいろいろな方々からの応援という温かい光を浴び、少しずつ成長して、本書という形になったのです。

一〇〇の名言とキーワード

 この本は、渋沢栄一という人物の功績を細かく取り上げる歴史の本ではありません。あくまでも、「今後の日本社会と日本人が豊かに、幸せになるために、明治の大実業家がどんなヒントを残してくれたのか」を考えるという目的で書かれたものです。

 堅苦しい話はありません。大量の記録の中から、読者の皆さんにぜひ知ってほしいと思える渋沢栄一の言葉を一〇〇個選び出し、それぞれにキーワードと現代語訳をつけて、さらに私が読み解いたメッセージを柔らかい文章で記しました。気軽に読まれた読者が、今の日本で富を築き、幸せに生きるための「大事な気づき」を得てくだされば、著者として本当に嬉しいことです。

 具体的には、一つの言葉につき、見開き二ページで紹介しています。右のページにはキーワードを記し、その下にキーワードの背景となる渋沢栄一の言葉を引用し、さらに現代語に直したものを付けています。上には、栄一がその言葉に込めた思いのエッセンス(翻訳ではなく)を私が英語にしたものを配しています。

 左側のページでは、「この二一世紀ニッポンに渋沢栄一の言葉を当てはめると、おそらくこういうことになるだろう」という、私の(やや独断的な?)解釈を書きました。

 ただし、私の解釈も、栄一のオリジナルの文章を噛み砕いて、現在の状況に投影させたものがほとんどです。また、アメリカや中国に関する言及のように、当時のことが、ほぼそのまま現在も通用する例もしばしばあります。

時代を超えた成功のライフスタイル

 こうしてまとめた文章を通読すると、改めて、「富を築き、永続させ、社会を繁栄させるのは、すべてが自分という個人が中心になっているのだなあ」という感慨が湧いてきます。自分を中心に置くというのは、決して利己的な行為ではありません。まず自分の心をよくし、日頃の行いを改善し、次にまわりの人間関係をスムーズに進め……というように、自分の境界の範囲の「輪」を広げていくと、いずれそれが国や世界の発展へとつながるのです。逆に言うと、一人一人がよい方向に向かわないまま、国や世界がよくなることはありえない、ということです。

 もう一つ、この本で紹介した言葉を読んでいて、ふと気づいたことがあります。渋沢栄一は、「楽しむ心」と「遊び心」を本当に大切にしたということです。

 これは、いままでの渋沢栄一の研究ではあまり着目されていなかったでしょうが、栄一の人生の本質は、「与えられた人生を、真に心から楽しむこと」だったと思います。企業の創設も、民間外交も、『論語』の精神を経済活動に応用することも、どれも彼にとっては心をわくわくと躍らせる作業だったのです。危うい目に遭(あ)いながらも、それも含めたすべてを、まさに「ハートからエンジョイ」した人生でした。

 毎日、心を楽しんで生き、新しい試みに取り組み、成功させ、富を築き、永続させる。そんな渋沢栄一のライフスタイルを読者の皆さんが身につければ、それはまさしく、時代を超えた成功の法則を体得したと言えるでしょう。


【目次】

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