その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は日経BPの 『ウクライナ危機 経済・ビジネスはこう変わる』 です。

【まえがき】

 2022年2月24日、ウラジーミル・プーチン大統領をいただくロシアの軍がウクライナに侵攻した。ロシアがウクライナ東部で親ロ派が支配する地域の独立を一方的に承認したのが同21日。これに人々がきな臭さを感じ始めてからわずか3日後の速攻だった。フィンランドのサンナ・マリン首相は「日本経済新聞」のインタビューに応じて、この侵攻によりフィンランドにかかわる「すべてが変わった」と答えた。
 この侵攻は冷戦後の世界史においてどう位置づけられるのだろうか。大きく3つの視点から考えることができる。

 第1は、大国と大国が戦争する時代が再来したことだ。1989年に冷戦が終結して以降、大国同士が戦争に及ぶ可能性は著しく低下した。ソビエト連邦(当時)が崩壊し、1強の地位を確立した米国に軍事面で対抗できる国は存在しなくなった。2月24日を境にこの「安定」が崩れた。
 ウクライナ紛争は2重構造を成している。一つは、ロシアとウクライナによる武力を伴う戦争。これだけなら、ロシアが2008年に起こしたグルジア(当時。現在はジョージアと呼ばれる)戦争と変わらない。ロシアは、この旧ソ連構成共和国に軍事介入し、グルジアが目指すNATO(北大西洋条約機構)加盟を押しとどめることに成功した。

 今回の紛争の特徴は、ウクライナを支援する欧米諸国とロシアとの武力を伴わない戦争が同時進行している点だ。プーチン大統領は侵攻に先だつ21年12月、米国やNATOに対し「NATOがさらなる東方拡大を行わない」ことを約束し法的に保証するよう求めた。米国とNATOは翌1月にこれを拒否。これがロシアの行動を促した面がある。侵攻以降、欧米諸国はウクライナに武器を供与し支援を続けている。つまり、この戦争はNATO東方拡大を巡る欧米対ロシアという大国間の戦争でもある。

 第2の視点は、欧米対ロシアの戦争が「経済」を武器にした戦争であることだ。欧米諸国はウクライナを支援するだけでなくロシアに対し様々な経済制裁を繰り出した。ロシア中央銀行の資産凍結はその最たるものだ。
 欧米諸国が経済戦争を選んだ理由は2つある。まずロシアが核保有国であること。NATOとロシアが武力をもってぶつかれば核戦争にエスカレートする懸念が拭い去れない。核戦争は双方が避けたい悲劇である。
 もう一つの理由は、冷戦終結後、グローバル化が進んだことだ。欧州諸国は天然ガスをはじめとするエネルギー資源においてロシア依存を高めてきた。SWIFT(国際銀行間通信協会)などの決済網が普及し、ロシアもこれを利用するようになった。こうしたモノとカネの流れがグローバル化したため、その流れを止めることが、ミサイル攻撃をはるかに上回る打撃を与える〝武器〞となった。

 第1と第2の視点から見えるウクライナ紛争の像は、軍事的にはロシア対ウクライナの、経済的にはロシア対欧米の大国間戦争ということになる。
 この経済戦争は不幸なことに、欧州という「地域」を超えて「全世界」に影響を与える。ロシアの名目GDP(国内総生産)は世界10位で特に大きくはないが、エネルギーと食糧のサプライチェーンにおいて、その最上流を握っている。石油と天然ガスの輸出量は世界1位を誇る。小麦の輸出量も同様だ。このためロシアを巡る紛争はこれらの産品の価格を高騰させ、世界経済を失速させる。負の影響を被るのは製造業に限らない。エネルギー資源価格の上昇は、電力とガソリンの価格上昇を通じて小売りや運送業など幅広い産業に負の効果をもたらす。その痛手は最終的には家計に及ぶ。

 第3の視点は、東アジアの安全保障環境に与える影響だ。いま我々がロシアにいかに対処するかが、中国の今後の動きを左右する。かつて勢力圏内にあったウクライナを自らの側にとどめようとするプーチン大統領の行動は、台湾統一方針を明言する習近平(シージンピン)国家主席の姿勢に重なる。欧米諸国、そして日本の行動を同国家主席はまばたきする間も惜しんで注視していることだろう。
 中国が台湾武力統一を選択すればもちろん、これを選ばなくても経済戦争を引き起こす可能性は残る。欧州諸国がロシア産エネルギー資源に依存するのと同様に、日本は中国市場に依存している。日本からの輸出の21.6%は中国向け。中国からの輸入は全体の24%を占める。経済戦争をいかに進めるかで苦悩する欧州諸国の「今」は、日本の「明日」を映す鏡かもしれない。

 ウクライナ危機は、遠い欧州で起こっているただの紛争ではなく、日本と世界の経済やビジネス、安全保障を大きく揺るがす危機である――。だからこそ日経BPの『日経ビジネス』や『日経クロステック』はウクライナ危機が及ぼす影響をつぶさに報じてきた。本書は、2022年1月25日から4月22日にかけて日経ビジネスと日経クロステックの記者がそれぞれの専門性と人脈を駆使してまとめた記事の集大成として緊急出版したものだ。かつての冷戦がまた違う形で世界を覆おうとしている今、未来を照らす一冊としてお読みいただきたい。

 なお、本書中の組織名や肩書き、出来事などの記述は、基本的に記事初出時の情報に従った。

2022年5月
日経ビジネス シニアエディター 森 永輔


【目次】

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