その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は中山淳雄さんの 『推しエコノミー 「仮想一等地」が変えるエンタメの未来』 です。
はじめに エンタメ経済圏のグレート・ミューテーション
私は「エンタメ経済圏」に関する研究者でありコンサルタントである。『ポケットモンスター(ポケモン)』から『鬼滅の刃』まで、アイコンでしかないキャラクターが、それぞれどのくらいの経済圏を生み出してきたか、アニメ、ゲームからグッズに至るまでの経済効果を分析しながら、実際に事業としてその推進も行っている。
例えば『ポケモン』であれば、1996年に誕生したときから約25年で10兆円の消費売上がもたらされ、そのうち半分の6兆円はキーホルダーやカップ、玩具のような商品化によるMD(マーチャンダイジング)事業から生み出されている。さらにその規模はここ5年で大きく羽を広げている。すでに累計売上で0・5兆円規模になったアプリゲーム「ポケモンGo」が毎月5000万人にプレイされ、ポケモンMDの潜在購入ユーザー数が格段に増えたからである。
こういった具合に、キャラクターは様々な商品群に展開されるため、それぞれ影響し合いながら経済規模の拡大縮小を継続する。私はこうしたエンターテイメントの投資対効果を可視化し、そこでの事業を持続可能にすることを生業としている。
コロナ禍『漂流教室』で5年タイムスリップした世界
いまエンタメ経済圏は大きな地殻変動に直面している。
ただし、この1年、コロナによるロックダウンで我々が経験したエンタメの世界は、決して想像していなかった類のものではない。むしろ「いつかこうなる」とずっと思われていたものである。4000億円近い音楽ライブ市場は、いつかデジタルに配信され、何千人ではなく何万人、何十万人というユーザーが同時に視聴するようになることは予見されていた。5000億円のマンガ出版市場は、いつか手軽にスマホアプリとしてサクサク読める電子マンガの市場にとってかわられるだろうと思われていた。いつかは確実にこうなるだろうと思っていた未来が、2020年の春から夏にかけて突然もたらされたのだ。
コンサート会場も劇場も映画館も書店も営業が制約され、締め出された我々が向かう先は「デジタル」以外になかった。個々人のスマホだけがエンタメの生命線であり、2020年3月からほぼ1年以上にわたってユーザーたちのエンタメ消費行動は強制的にデジタル空間に移行させられたのである。
「視聴」の対象は如実に変わっている。米国では2020年4〜6月と10〜12月を比べたときに、ビデオゲームのプレイ時間は30%増え、週に平均4.4時間費やすようになった。次に増えたのはポッドキャストやクラブハウスのような音声サービスで、半年前から20%超の増加、週7.5時間も視聴するサービスへと変わった。ニュースもソーシャルメディアも、瞑想やヨガといったリラクゼーションアプリも視聴時間を増やし、動画配信などビデオ視聴にいたっては「平均で」週20時間も視聴する巨大サービスとなった(※1)。家の外側の大々的な閉鎖を受け、家の内側でデジタルを通してエンタメを消費する姿が一般的になっている。
ビジネスパーソンにとっての「余裕のあるスキマ時間」は以前の15%増しとなり、スポーツやテーマパークなどアウトドアに消費する金額は30%少なくなり、政府からの財政支援などもあり以前よりも多くの貯蓄を抱え込んだ。そんな彼らの時間を救ったのは「エンタメ」であり、皆が家族ぐるみでスクリーンにはりつき、エンタメ消費の時間と市場は爆発した。
2021年の夏になるとワクチンの浸透によってリアルの場が復活してきているが、元通りにアナログに戻ってきているわけではない。一度習慣化してしまったデジタル視聴はしっかりと根付き、特にゲームは2021年夏以降もほぼ変わらないプレイ時間で、消費も落ちていない。
こうした変化を我々はどう解釈すればよいのだろうか。私自身は、最初のロックダウンに直面したときに思いついたのは、楳図かずおの『漂流教室』であった。ちょうど半世紀前に流行したこの未来へのタイムスリップ・ストーリーのように、我々は突然5年ほど先の未来に強制移送された生徒たちのようなものだったのではないだろうか。メーカーもディストリビューターもリテーラーも、全員がデジタルシフトの強制リセットでOSを入れ替えることが命じられ、ユーザー自身も困惑して複数のデジタルウィンドウを回遊しながら「これならコロナ下でも遊べる」を追求し続けた。「2020年代半ばから後半には、こうなるだろうな」と思った未来が、2020年に突然として出現したのである。
意思ある楽観論なくば人は永久に悲観主義のまま
グレート・コンジャンクション(偉大なる接合)という言葉をご存じだろうか。木星と土星が重なる20年ごとの時代の節目のことだ。これまで「地の星座(牡牛座・乙女座・山羊座)」の位置でそれが起こってきたが、実は200年単位でグレート・ミューテーション(偉大なる変態)があり、「エレメント(火・土・風・水の4種類)」が変わる。それが初めて「風の星座(みずがめ座)」の場所で起こったという節目が2020年12月22日にあった。これまでは「土の時代」として金銭・物質・権威が重視されてきたが、「風の時代」すなわち知性・コミュニケーション・個人が重視されるようになる。
スピリチュアルな話で縁遠いと感じる人も多いだろう。私自身もその1人だった。占星術の領域で話されていたこの予言めいた言説は、それまで全く刺さっていなかった。ところがコロナ流行によるロックダウンで実際に働き方にも生活にも大きな変化がもたされた2020年という特殊な時代背景があり、目の前で企業や友人の動き方がめまぐるしく変化し始めたことと、このミューテーションで語られていることとの一致に驚き、「200年前の産業革命以来の人類史の方向性が、まさにこのタイミングでシフトチェンジするのではないか」と思うようになった。つまり信じてしまったのだ。
コロナによって会社に出勤する必要がなくなった。副業の依頼も増えた。飲み会がなくなったが、リモートでもこれまで獲得した知識と経験で新たに人とつながり、仕事を生み出せるようになった。海外出張ができなくなり、それでも時差だけ考慮すればすぐに中東や北欧の顧客とつながり、むしろデジタルの結びつきと個人の力で新しい依頼が入るようになった。通勤や会議がなくなったことで、必要な作業にだけ時間を集中的に投じられるようになった。複数のチャネルで同時に知識を入れることを覚え、動画を2倍速でみながら、クラブハウスで雑談のように流れる会話から必要な部分にだけ耳を傾けるようになった。ウェビナーでの講演中に調べものをしたり、すぐに検索してヒットした動画をそのままインタラクティブに質問内容に反映したりするようになった。まさに知性とコミュニケーションと個人が、金銭や権威といったものを飛び越えて、活躍できる瞬間を味わえるようになった。
実際の歴史上での200年前に起こった変化は、これ以上にドラスティックだったはずだ。1820年ごろのイギリスを中心とする先進国では、織物の生産性が何十倍にもなり、馬車の移動から鉄道での移動になり、化学薬品が生まれ、電気が発明され、技術的進歩が大爆発した。歴史学者のウィリアム・バーンスタインも「1950年に先進国に暮らしていた人間であれば、2000年のテクノロジーを理解するのにさしたる苦労はないだろう。ところが1800年から50年後の世界にタイムスリップした人間は、間違いなく大混乱に陥る」と述べるほど、この19世紀前半は人類史の中で特別な変化を起こした時代である(※2)。
19世紀の変化は特別なものだった。だがしかし、その渦中にあった人々はどんな気持ちだったのだろう。経済学者アダム・スミスは当時の状況をこのように語っている。「国家の財力が急速に落ちている、人口が減少している、農業が顧みられていない、製造業が衰退している、十分な交易がおこなわれていない、などと論じる書籍や冊子が5年間出版されなかったことはこれまでほとんどない」(※3)。
そう、革命的だった19世紀初頭の変化に人々は「気づいていなかった」のだ。人類は「マルサスの罠」として人口が増えると食糧がなくなるというプロセスを繰り返し、10万年もの間、地球の人口は増えたり減ったりを繰り返してきた。文明を得てもその均衡が変わらずに数億人前半で変わらなかったものが、石炭というエネルギー源とそれが駆動する機械の力によって生産性革命を起こし、世界人口は1800年代の100年間で突然10億人から20億人に増え始めた。同じ土地で収穫量が倍増できるようになり、それまで2000年以上かけて数億人規模からなかなか増えることのなかった世界の人口が、突然急増し始める。この人類史10万年に1度のまさに究極的なタイミングにあって、ほとんどの人々は「国家は衰退する、人口はもうこれから減る、我々は貧しくなる」と言っていた。現代で語られていることと全く変わらぬ感覚で、危機感をもちながら生き続けていたことになる。
社会が前進していようと後退していようと、恒久的に人間が続けてきた「自分自身については楽観的、社会全体には悲観的」という姿勢は変わることはない。一個人にとっての社会的変化は毎年気温が0.01度ずつ上昇するようなもので、それを真剣に捉えることはない。
一方、社会への見方は、楽観論ではなく悲観論で語ることが「売れる」。人は社会を憂いたい。社会全体の悲観的観測は、目の前の自分個人の生活を相対的に楽観的なものにする、「他人の不幸は甘い汁」の典型的な姿勢である。
憂いながら個人の現状をかみしめることは、ファンタジーの一種である。だから「知識人」と呼ばれてきた人々は常に社会に警鐘を鳴らし続け、「売れる」議論に固執し続けて来た。これからもきっとそれは変わらないだろう。
この位相の転換のなかで、本書を執筆するひらめきが生まれた。それは「推しエコノミー」のタイトル通り、人々が殺到するヒットとなるキャラクターやタレントを「推す」というファンの行動変容がすべての基軸にある。
第1章では、テレビに囚われてきた日本のコンテンツ産業が、人々が熱狂する新たな場所としてのデジタル空間、いわば「仮想一等地」を自ら作り出すことが競争要件になったことについてみていく。そのために大事なのは「ライブ化」であり、今この瞬間にホットであること、バズっていることを、デジタル空間のなかでも周囲が見渡せる劇場のように、演出を配置していくことである。
第2章では、この変化の源泉となるユーザーの変化である。ユーザーにとって趣味趣向は「消費財」ではなく「表現財」となり、いかに自分を「関与させていくか」という対象になった。だから「推し」として関与対象を表明し、かつては個人的・非政治的だったサブカルコンテンツを、社会的でときには政治的に楽しむ「祭り」型のコンテンツとして扱うようになってきた。この領域を世界的に先導しているのは日本であり、規模で日本を圧倒する米国や中国にはない先端的な事例にあふれている。
第3章は地政学の話だ。マンガ・アニメ・ゲームというサブカル領域において、米中の覇権競争が激化している。そのなかで日本が今後歩むべき終着点について語る。すなわち規模を求めたマーケットインではなく、作家が少人数でファンと段階的に作り上げていきながらプロダクトアウト型でブランドを形成していく道のりである。ファンが関与できる「開かれた商品」を作っていくことが、そのまま米中企業の到達点とは差別化されることになる。
終章となる第4章では、前作 『オタク経済圏創世記』 で書いてきたマンガ・アニメ・ゲームの成長の歴史とライブコンテンツ化が、「コロナ」「中国の台頭」という2点によってどの程度の軌道修正を求められているかをふまえ、その先にある日本エンタメ業界の固有の終着点としての「推しエコノミー」、すなわちファンとの対峙による経済圏の創造についての視点を提示する。これが本書の全体像である。
【目次】