その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は岩井克人さんの 『経済学の宇宙』 です。
文庫版の刊行にあたって
『経済学の宇宙』の刊行(二〇一五年)から六年あまり。世界は激しく揺れ動いてきた。〇八年に世界を揺るがしたリーマン・ショックが「百年に一度の危機」だとするなら、ここ数年の動きをどう表現すればよいのだろうか。
二〇二一年一月、文庫版の準備のため、岩井克人氏を訪問した。英国の欧州連合(EU)からの離脱、米トランプ政権の誕生と終焉、米中対立の激化、仮想通貨(暗号資産)ブーム、気候変動による環境破壊の加速、新型コロナウイルスの感染拡大……。激動する世界を岩井氏はどのようにとらえているのか。質問を重ねた。
「我田引水になるかもしれませんが、不均衡動学や法人論で理論的に解明してきたことが、後追いのように現実になったといえます」。岩井氏の解説は明快だった。自由放任主義の経済政策を批判する「不均衡動学」は一九八〇年代、米国流の株主資本主義に異議を唱える「法人論」は九〇年代に完成させた岩井氏の独自理論である。
ごく一握りの経営者が勝者となる米国では所得格差に拍車がかかり、その反動でグローバル化に対する反乱が起こった。トランプ政権の誕生はその結果にすぎない。岩井理論は、目の前の出来事に振り回されがちな私たちにとって、経済社会の本質を見極めるための確かな座標軸となる。文庫版で初めて岩井理論に接する読者はもちろん、改めて接する読者も、岩井理論のしぶとさ、息の長さに驚くのではないだろうか。
本書の記述にもあるように、岩井氏が、私たちには想像もつかないほど多大な労力と知力を振り絞り、一つひとつ練り上げてきた理論だからであろう。いったん理論が完成した後も慢心せず、理論に磨きをかける努力を怠らない。
岩井氏は二〇一七年から三年あまりの時間をかけて「不均衡動学の現代版」を完成させたという。その経緯を語ってもらい、文庫版の巻末に収録した。
一九八一年に出版された『不均衡動学』は、経済学の宇宙には何の波紋も引き起こしませんでした。第八章で述べたように、私は学問の世界における予定調和をかならずしも信じていません。今回、同じ思いに導かれてその現代版を作っても、何の波紋も引き起こすことなく終わってしまう確率は一に近いと思っています。それでも、何もしなければ波紋が起きる確率はゼロです。ゼロの近似とゼロとの距離は無限です。そう腹を決めて、『不均衡動学』の現代版の作成作業に取りかかりました。(本書六一四ページから引用)
七十歳を過ぎてからの挑戦は、理論家としての執念のなせるわざだろう。
岩井氏は、言語論や市民社会論などの理論研究にも着手しているが、その内容の紹介は別の機会に譲りたい。
二〇二一年春 前田裕之
*本編中の敬称は略しました。なお、肩書き・組織名は単行本刊行当時のものです。
まえがき
聞き手 前田裕之
「私は学者として成功したとは思っていません。研究活動は道半ばにあり、今、人生を振り返る気にはなれないのです」。二〇一三年夏、日本経済新聞夕刊に連載していた「人間発見」というコラムへの登場を依頼したとき、岩井克人氏(東京大学名誉教授、国際基督教大学客員教授)は遠慮がちにこう語った。岩井氏はこれまでにも何人かの記者に同コラムへの登場を申し込まれたものの、同じ理由で断り続けてきたという。いったん、諦めかけたが、岩井氏に登場してもらう意味を改めて考えてみた。
会社の創業者、経営者、作家、芸術家、弁護士、元政治家……。日経新聞には「人間」に焦点を当てるコラムがいくつかあり、様々なジャンルの人物が登場して自分の人生を振り返る。順風満帆な人生よりも、波瀾万丈の人生の方が読者の関心を引き付けやすく、「面白い」内容になる傾向がある。そんな中で「学者の人生」は総じて起伏が乏しく、「物語」としては迫力に欠ける場合が多い。岩井氏の場合はどうだろうか。確かに、学者としての生活そのものにはあまり起伏がないかもしれないが、次々と斬新な経済理論を生み出してきた岩井氏の研究対象や思想は大きく変動してきたはずだ。その変遷をたどり、これからの研究テーマを展望できれば、「大きな物語」を書けるのではないか。そう考え直して再び提案すると、今度は快く引き受けてくれた(二〇一三年十月に五回連載)。
連載の反響が大きかったこともあり、その際のインタビューや、追加インタビューの内容を再構成し、大幅に拡充したのが本書である。岩井氏へのインタビューは追加分も含めて十時間を超え、新聞連載では紹介できなかった内容や、新たな題材を多く盛り込んだ。インタビューを踏まえて作成した本文に岩井氏が全面的に手を加えて完成させた「岩井克人の思想史」の決定版といえる。
本書の読み方、楽しみ方を幾通りか提案したい。一つ目は経済学の全体像をつかむ入門書として、である。岩井氏は、市場経済は万能と説く「新古典派経済学」と呼ばれる主流派経済学への批判を強め、ケインズ経済学の再構築に取り組んできた。岩井氏は自説を確立するにあたって、アダム・スミス、マルクス、シュンペーター、ケインズ、ヴィクセルら経済学の巨人と呼ばれる先人たちの理論や思想を消化し、「相対化」してきた。
本書は第一章から最終章までおおむね時系列で岩井氏の思想の変遷を追うが、通読すると、岩井理論に加え、様々な経済学説のエッセンスを吸収できる構成にしている。さらに、経済学に脳科学の成果を取り込もうとする最近の経済学界の動きや、『21世紀の資本』が世界中でベストセラーとなっている仏パリ経済学校教授のトマ・ピケティ氏の研究などへの言及もあり、最先端とされる研究分野を評価する座標軸を手にできる。
アベノミクス(安倍晋三政権の経済政策)、デフレーション、円安、消費増税などメディアでもよく取り上げられる経済問題は、私たちの日常生活に大きな影響を与えている。経済学は、経済問題を理解する有効な道具になるはずだが、長い歴史を経るうちに様々な分野に枝分かれし、「自分の専門分野以外はよく分からない」と口にする経済学者も珍しくない。ましてや一般の人には近づきがたい存在になっているのが実情だ。岩井氏は広大な経済学の「宇宙」を見渡せる数少ない学者の一人であり、彼のガイドに従って宇宙を観測すれば、経済学の奥深さ、面白さを味わえるのではないだろうか。
岩井氏が接してきた知識人たちの群像も楽しめる。本書に登場する人物名の一部を列挙しよう。まずは、米国で多くの接点を持った経済学者(いずれもノーベル経済学賞を受賞)ポール・サムエルソン、ロバート・ソロー、ジェームズ・トービン、チャリング・クープマンス、フランコ・モディリアーニ、ジョージ・アカロフ、ジョセフ・スティグリッツ、ロバート・マートン、ピーター・ダイアモンド……。また東京大学などで交流を深めた日本の経済学者に、宇沢弘文、小宮隆太郎、根岸隆、浜田宏一、青木昌彦、猪木武徳、石川経夫、奥野正寛、吉川洋……。エール大学や、「ニューアカデミズム」ブームの母体となった「ゼロの会」などで親しくなった文化人に、加藤周一、武満徹、柄谷行人、三浦雅士、中沢新一、浅田彰、山口昌男……。そして岩井氏の妻である、作家の水村美苗氏も時折、顔を出す。彼ら・彼女らは岩井氏にどんな影響を与えてきたのか、興味深いエピソードが随所にちりばめられている。
岩井氏は、文学作品を評価する基準、学者の使命、団塊世代に属する自身を取り巻く時代背景などについても語っている。岩井氏の物の見方・考え方や、人となりに触れながら、戦後日本の軌跡を探索できる。
「不均衡動学」「資本主義論」「貨幣論」「法人論」「言語・法・貨幣論」……。岩井氏の経済・社会理論は日本で高く評価され、数々の賞を受賞している。米国の学界では必ずしも理解されていないが、リーマン・ショックや欧州債務危機を契機に資本主義の抱える問題が浮き彫りになる中で、岩井理論を再評価する声は海外でも少なくない。岩井理論をどう受け止めるのか、私たちは改めて問われているといえよう。
本編に入る前に、「倫理」の問題に触れておきたい。近年の岩井氏の研究テーマの一つである「信任論」の中核をなす概念であり、仕事を依頼された専門家が、依頼人を裏切らずに忠実に仕事に打ち込む精神、姿勢を指す。「職業倫理」「使命感」と言い換えてもよいだろう。岩井氏は「倫理が資本主義を支えている」と指摘するが、人間はときに倫理を見失い、資本主義の暴走を許してしまう。「二十四時間、学者をやっているのかもしれない」と語り、使命感に突き動かされながら独自の理論を生み出していく岩井氏は、職業倫理の尊さ、大切さを、身をもって示しているように見える。
【目次】