「民主主義とは何か」を歴史から学ぶ
人がこの世に生を受け、他の人々と共に生きていくうえで、「話し合い」は避けて通れないものです。ですが、私たちは「話し合い」について多くを知りません。「話し合いとはどういうものか」「話し合いはなぜ必要なのか」「よい話し合いとは何か」など、話し合いについてじっくり考えたことがある人はほとんどいないように思います。そこで、話し合いについて考えるきっかけとなりそうな本を、3冊ご紹介したいと思います。
最初にご紹介するのは 『民主主義とは何か』 (宇野重規著/講談社現代新書)という本です。端的にいうと「民主主義の歴史を分かりやすく説明している本」です。2021年に東大生協で一番売れた本として話題になりました。民主主義を知らない人はいないと思いますが、改めて「民主主義とは何ですか」と、問われると返答に困ってしまうのではないでしょうか。本書の冒頭では、「次のどちらが正しいでしょうか」と、下記のような選択肢が提示されます。
A2「民主主義の下、すべての人間は平等だ。多数派によって抑圧されないように、少数派の意見を尊重しなければならない」
いかがでしょうか。どちらも正しそうです。この本を読むと、私たちはいかに民主主義のことを知らなかったかに気づかされます。本書では、民主主義が古代ギリシャで生まれ、ヨーロッパへ継承されてアメリカ独立やフランス革命があり、議会制民主主義が世界中に広がっていた歴史を描き、日本の民主主義の歴史についても触れています。最終章では、現代において民主主義が直面している四つの危機、「ポピュリズムの台頭」「独裁的指導者の増加」「第四次産業革命の影響」「コロナ危機」について、歴史的な視座からの展望を示しています。
私自身、読んで非常に勉強になりましたし、やはり民主主義の根幹には、人々が共生する智恵としての対話、話し合いがあるのだ、ということを再認識することができました。
もちろん、民主主義も万能な仕組みではありません。ただ、今のところ、これ以外の方法はない、ということなのだと思います。世界情勢は今、大きな苦難、混乱のただ中にありますが、そうした中にあっても、民主主義というものを守っていく営みを続けることが大切なのだと感じます。
「みんな違ってみんないい」の危うさ
「話し合い」について考えるきっかけとなりそうな本として、次にご紹介したいのは 『「みんな違ってみんないい」のか?相対主義と普遍主義の問題』 (山口裕之著/ちくまプリマー新書)です。「普遍主義」とは、「客観的で正しい答えがある」「世の中に答えは一つしかない」という考え方です。一方、「相対主義」とは、「人や文化によって価値観が異なり、それぞれの価値観には優劣がつけられない」「みんな違ってみんないい」という考え方です。この本は、端的にいうと「普遍主義、相対主義、どちらも危ないですよ」という内容です。
「世の中に答えは一つしかない」という「普遍主義」が、「危ない」というのは、何となく想像がつくことかと思います。独裁的な指導者が振りかざす「たった一つの正義」が、多くの悲劇を生みだしてきたことは、人類の歴史が証明しています。一方、「みんな違ってみんないい」というのは、聞こえがいい言葉ですし、別にいいんじゃない?と思われるかもしれません。ですが、本当にそうでしょうか。
世の中には、「みんな違ってみんないい」では済まないような問題もあります。例えば、「原子力発電所をどうするか」といった問題についてはどうでしょうか。原子力発電所については、「日本の経済発展のために必要だ」という意見と、「事故が起こった場合の被害が大きすぎるので、廃止すべきだ」という意見があり、どちらの意見にも、もっともな点があります。ですが、「原発賛成、原発反対どちらの意見の人がいても、いいね」と放置しておくわけにはいきません。日本という国で、共に生きていくためには、さまざまな意見、利害関係を持った人たちが集まって話し合い、方向性を決めなければならないのです。
「みんな違ってみんないい」は、一歩間違えると、「みんな違って“どうでもいい”」となってしまう危険性をはらんでいます。本書では、「普遍主義」と「相対主義」の比較を通して、物事をどう決めていけばいいのか、を考えていきます。そして、「みんな違ってみんないい」の落とし穴に陥らないようにするためには、結局のところ、忍耐強く「話し合い」をするしかない、というところに行き着くのです。
「待てない社会」で「待つ」ことの価値を考える
「話し合い」について考えるきっかけとなりそうな本、ということで最後にご紹介するのは、ちょっと毛色の違う本ですが、 『「待つ」ということ』 (鷲田清一著/角川選書)です。端的にいうと「現代社会は待てない社会になっている」という本です。
ビジネスの世界は、「プロ」という言葉にあふれています。プロジェクト、プロフィット、プログラム、プロダクション、プロモーション…。「プロ」というのは「前に」「先に」といった意味を持つ接頭辞です。つまり、「前のめり」ということです。ビジネスの現場が「プロ」という言葉にあふれているのは、「前へ前へ」と常に物事を前傾姿勢で取り組むことが求められているからです。全てが「前のめり」になっている社会では、「待つ」ことができません。マネジャーはメンバーの行動変容を、先生は生徒の成長を「待つ」ことができなくなっているのです。
本書では、この「待てない」社会にあって、あえて「待つ」ことの意味を哲学的に考察していきます。著者の鷲田清一さんは、「待つ」とか「聴く」といった受動的に思えるような行為に光を当てます。「待つ」とか「聴く」というのは、どちらもおわんに水が注がれるように、受け身で何もしないことのように捉えられがちですが、実際には「待つ」も「聴く」も意図的な選択であり、能動的な行為であることを意識するべきなのだと思います。
「いつ来るか分からないもの」を「待つ」というのはとてもつらいことです。「いつ来るか分からないもの」を「待つ」ためには、意思を持って、能動的に「待つ」ことが必要なのです。
私は人材育成の研究者です。人材育成というのも、「待つ」ことに他なりません。部下にとって少し難易度の高い挑戦的な仕事を任せ、できるようになるまで、耐えて耐えて耐えて、ひたすら「待つ」のが上司の役目です。しかし、「前のめり」な現場では、上司は成果を急ぐあまり、部下を「待つ」ことに耐えられず、つい手を出してしまったり、「もういいよ、俺がやるよ」と仕事を自分で巻き取ってしまったりします。待てなければ育つわけがないのです。
「話し合い」の際も「待つ」ことが求められます。「話し合い」の中に訪れる沈黙の瞬間はとても怖いものです。3秒…5秒…と続くうち、耐えられなくなってきます。ですが、沈黙しているのは、熟考しているからかもしれないし、頭の中で考えを整理しているからかもしれません。5秒後にボソッと、その人が考えに考えた末の一言が出てくるかもしれないのです。だからこそ、その沈黙を能動的に「待つ」ことが必要なのです。
動画は倍速視聴、TikTokやInstagramを瞬時にスワイプし、コスパ(コストパフォーマンス)、タイパ(タイムパフォーマンス)が重視されるご時世。世の中は「待てない化」が加速する一方ですが、だからこそあえて「待つ」ことの価値を考えてみていただきたいと思います。
取材・文/井上佐保子 写真/鈴木愛子