ミリオンセラー『ファクトフルネス』(日経BP)は、データを基に世界を正しく見ようという本。しかし、日本語版の発行は、データやファクトよりも、思い込みが優先で始まったという。担当編集者の中川ヒロミが 『ファクトフルネス』 のヒットの裏側を明かす。

『ファクトフルネス』が100万部を超えてミリオンセラーの本になってから、取材やイベントなどで質問を受けることが増えた。

「最初からミリオンを狙って編集していたんですか?」
「統計やデータの本が売れると考えて狙ったんですか?」
「読者層が広いテーマだと見込んだんですか?」

 質問する方は私から画期的な戦略を聞きたいと考えているんだろうなと思うし、私も聞き手の立場ならそう思う。

ミリオンセラーとなった『ファクトフルネス』。データを分析して、ミリオンを最初から狙ったかというと…
ミリオンセラーとなった『ファクトフルネス』。データを分析して、ミリオンを最初から狙ったかというと…

 しかし残念ながら、「いやあ、そんなことないんです」と答えてしまう。こんなつまらない回答だと記事にならなくて申し訳ないなあと思いながらも、実際そうなので仕方がない。

 ではなぜ、『ファクトフルネス』を日本で発行したのか。それは、著者のハンス・ロスリング氏が大好きだったからだ。我ながら、全く戦略がない。

 私はこれまで、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』『TED 驚異のプレゼン』『TED TALKS』などプレゼンの本を何冊も編集してきた。編集過程でTEDの動画などをよく見ていたのだが、ハンスのプレゼンに魅了された。

 テーマは世界の貧困、感染症、人口問題など堅い内容だ。大事な話だけれど、多くの人にとってそれほど身近な内容でもない。それを“自分ごと”として考えてもらうために、ハンスは最初に3択のクイズを出す。その上で、「間違ったあなたは、ランダムに選ぶチンパンジーに負けた」とジョークを言う。そして、間違ったのはあなたが無知なのではなく、思い込みがあるからだと続ける。

 そして、膨大な統計データの塊をグラフ上で時系列で動かし、ハンスも壇上でデータと共に動きながら、熱を込めてしゃべりまくる。こんなにおちゃめで優しくて熱がある研究者は見たことがない。とっつきにくいテーマながら、クイズで観衆に“自分ごと”として考えるように仕向け、動くグラフを駆使してワクワクさせ、ファクトで考えることの重要性を納得させる。こんな面白くてチャーミングな研究者、ハンスの本を日本の読者に届けたいと私は思っていた。

「なんのファクトもなくてすみません」

 ハンスが本を書くという連絡をもらったのは、英語版の『ファクトフルネス』が発行される3年近く前。ニューヨークの版権エージェントからメールが届いた。欧州でハンスは人気があるので、高値で版権の入札が進んでいるという。日本語版は私が出したい。ただし、これから書き始めるそうで、概要はあるが原稿はない。

 届いた概要から企画書を書き、社内の企画会議に出してみた。

「人間には思い込みがあるけれど、データやファクトを基に世界を見ると、実はよくなっているということが分かるんです」

 自分で説明しながら、どんな本か分かりにくいかなあと心細くなってきた。同じような本があれば、「売れているあの本と同じジャンルです」と言えるけれど、そんな本はなかった。

「テーマは、世界の貧困、人口、感染症、経済など。TEDでは3択クイズを導入して面白くプレゼンしているので、きっと面白い内容になるはず。まだ原稿はないんですけどね」

 うーん、だんだん企画を通す自信がなくなってきた。でも、「私、この本はやりたいんです」と説明。なんのファクトもなくてすみません。

発行の4年前、2015年に担当編集者が会議に提出した企画書。中身はあまりない
発行の4年前、2015年に担当編集者が会議に提出した企画書。中身はあまりない

 企画会議に出席していた編集者のほとんどがハンスを知らなかったし、私の説明にそうなの?という薄い反応。新型コロナウイルスが流行している今でこそ感染症の専門家は注目されるが、2015年はそれもない。

 ところがそのなかで、ベテランの先輩編集者が、「これ、もしかすると化けるかもしれないよ」と言ってくれた。4年後の発売時にこの話をしたら、その編集者は全く覚えていなかったけれど、当時の私にとても勇気をくれた言葉だった。

日本の出版各社と入札で競う

 部署の企画会議が通ったら、次は部長以上が集まる会議で承認を得る。同じように「著者のハンスは面白い人。欧米ではすごく人気がある。きっと面白い本になるはず。でも、原稿はまだないんですけどね」という説明をまたする。

 企画会議と同様、上司たちの反応は鈍い。そりゃそうだ。分かりにくい本だし、原稿もないのだ。似た本もないから、売れるのかもよくわからない。

「中川さん、そんなにこの本やりたいの?」と最後に上司が聞く。

「はい、すごく売れるか分からないけれど、ハンスはめちゃくちゃ面白い人だから、日本で出したいんです」と答える。

「じゃあ、やってみたら?」とゴーサインが出た。ちょうどその頃、『HARD THINGS』という担当書が10万部のベストセラーになっていたおかげで、私の言うことを信用してもらえたのかもしれない。

 その後は日本語版の版権をめぐって、日本の出版各社が入札をすることになった。原則として、最高金額でオファーした出版社が日本語版発行の権利を得ることになる。欧米では高騰していたが、日本でハンスの知名度はそこまで高くないので、各社がいくらで入札するかは読みにくい。各社の翻訳書のヒット編集者は顔なじみが多く、あの人がハンスに興味がないといいなあと願う。

 そして、日本でこの本が売れるかどうかは分からないが、私が担当したいという熱意だけで、高めの金額で入札した。ミリオンセラーになった今では安過ぎる金額だけれど、当時の私にはドキドキする金額だった。

 そして運よく、版権を得ることができた。『ファクトフルネス』はファクトやデータを基に考える習慣を持とうという趣旨の本だが、その割に版権を得るまでのプロセスは私の熱意といえば聞こえはいいが、単なる思い込みだったかもしれない。

 もっとも、前例がないサービスや製品を出すときはまだデータがないことも多い。例えば民泊スタートアップの米エアビーアンドビーが提供するのは、知らない人を自宅に泊めるサービスで、当初はそんな危ないサービスを誰が使うのかとほとんどの投資家に酷評されたという。その後、エアビーアンドビーの可能性を理解した一部の投資家から資金を得て急成長した。

 データがない、前例がないときに、担当編集者の私の熱意を基に企画を通してくれた同僚や上司に感謝をしているし、私もリスクを取る人を応援していきたいと思う。

 その後『ファクトフルネス』の編集やプロモーションでは、もう少しファクトを調べて戦略を立てたので、また別の機会にご紹介したい。

「思い込みと熱意から始まった『ファクトフルネス』。そして、ミリオンセラーに成長するまでもいくつもの波を経験したんです」
「思い込みと熱意から始まった『ファクトフルネス』。そして、ミリオンセラーに成長するまでもいくつもの波を経験したんです」