2024年12月に刊行された『教養としてのインテリジェンス エピソードで学ぶ諜報の世界史』(小谷賢著、日経ビジネス人文庫)は、国家が収集する秘密情報とそのための活動=インテリジェンスの入門書として話題に。他方、同年11月に発売された『ラトランド、お前は誰だ? 日本を真珠湾攻撃に導いた男』(ロナルド・ドラブキン著、辻元よしふみ訳、河出書房新社)は、第1次世界大戦における英国海軍の英雄にして、実業家として活動しながら日米両軍の二重スパイでもあったフレデリック・ラトランドの実像に迫る重厚な作品として注目を集めている。日本のインテリジェンス研究の第一人者である小谷氏と、祖父と父が諜報機関で働いていたというドラブキン氏、話題書の著者二人によるスパイ談義をお届けする。

FBI文書に残された二重スパイの記録

小谷賢(以下、小谷):『 ラトランド、お前は誰だ? 日本を真珠湾攻撃に導いた男 』の出版おめでとうございます。本業は企業家でありながら、重厚な歴史本をお書きになったのは素晴らしい。

ロナルド・ドラブキン(以下、ドラブキン):このノンフィクションを書いたきっかけは、2020年に世界が新型コロナのパンデミックに覆われたことでした。外出が制限され、時間がたっぷりあったことから、諜報機関で働いていた祖父と父の歴史を調べようと思い立ち、思い切ってFBI(米国連邦捜査局)へ情報公開の請求をしました。

 ラトランドという魅力的なスパイと出会ったのは、家族の調査していたとき、偶然、機密解除されたファイルを見つけたからです。そのFBI文書には、日米を股に掛けた二重スパイの記録が克明に残されていました。

ロナルド・ドラブキン氏
作家
アメリカの作家、企業家、エンジェル投資家。シリコンバレーで様々な企業にベンチャーキャピタルを調達。祖父と父が諜報活動に携わっていたことから、スパイの歴史に関心を持ち、膨大なFBI資料などをベースにした初の著書『ラトランド、お前は誰だ? 日本を真珠湾攻撃に導いた男』を2024年11月に刊行した。

『ラトランド、お前は誰だ? 日本を真珠湾攻撃に導いた男』(ロナルド・ドラブキン著、辻元よしふみ訳、河出書房新社)
『ラトランド、お前は誰だ? 日本を真珠湾攻撃に導いた男』(ロナルド・ドラブキン著、辻元よしふみ訳、河出書房新社)

小谷:インテリジェンスの研究者としては「諜報機関で働いていた祖父と父」について根掘り葉掘りお聞きしたいところですが、それは別の機会に譲るとして、今回は「ラトランド」のお話を。

 まず日本海軍との関係において、ラトランドの最大の貢献は、1920年代にイギリスの空母艦載機の技術を日本海軍に教えたこととされています。しかし、彼にプロのスパイという自覚があったのかどうか。日本海軍は彼に膨大な資金を提供したけれど、それに見合う成果を上げた記録は見当たりません。

ドラブキン:ラトランドへの日本海軍の対応は曖昧でした。最初はスリーパー(潜伏任務)の役割を期待しましたが、日米関係が緊迫するにつれ、情報収集を望みました。確かにラトランドがもたらした重要な情報についての具体的な記録はありません。しかし、軍関係者と継続的かつ頻繁な接触があり、そこでかなり価値のある情報の提供もあったのではないか。私はそう見ています。

小谷:そんなラトランドはアメリカ海軍にも情報を提供していた。

小谷 賢(こたに けん)氏
日本大学危機管理学部教授
立命館大学卒業、ロンドン大学キングスカレッジ大学院修士課程修了、京都大学大学院博士課程修了、博士(人間・環境学)、英国王立統合軍防衛安全保障問題研究所(RUSI)客員研究員、防衛省防衛研究所戦史研究センター主任研究官、防衛大学校兼任講師、ロンドン大学(LSE)客員研究員を歴任。主な著書に『日本インテリジェンス史』『日本軍のインテリジェンス』『インテリジェンスの世界史』、訳書に『特務』『CIAの秘密戦争』(監訳)などがある。2024年12月、『教養としてのインテリジェンス エピソードで学ぶ諜報の世界史』を刊行。

チャップリン、フレミング、オノ・ヨーコの父

ドラブキン:自分は日本海軍を一番知っている人間だ、と米海軍に売り込んでいる。これはFBI資料で明らかです。日本では鎌倉の材木座に住んでいて、山本五十六や嶋田繁太郎ら海軍首脳との交友があった。アメリカではロサンゼルスを拠点に航空関係の会社を経営する実業家として人脈を広げていました。

 当時のロサンゼルスには様々な国からの移民がいましたが、貧しい階層の人たちが多かった。そんな中で、イギリス出身のラトランドはイギリス英語を駆使して、いわゆる上流階級のコミュニティーにうまく溶け込みました。もちろんそれだけではなく、日本でもアメリカでも広い交友関係を構築できたのは、人を引きつける魅力があってのことでしょう。

小谷:そうして日米を股に掛けて活動したラトランドですが、真珠湾攻撃後にイギリスで刑務所に入れられます。他方、同じく日本海軍に協力していたスコットランド貴族のウイリアム・フォーブス=センピル卿は追放されてはいるが、刑務所には入っていない。この違いはセンピルが上流階級出身だったからですか。

ドラブキン:たぶん、そうでしょう。センピルはウィンストン・チャーチルとも交友があった。スパイの世界は一般社会とは切り離されているように見えながら、当時の階級社会の影は及んでいる。労働者階級出身のラトランドが歩んだ道のりをたどる中で、時代の様々な陰影も浮かび上がってきました。

小谷:われわれ学者の関心は専ら歴史のファクツ(事実)にあり、数多い登場人物一人ひとりの個性などまでは筆が及ばないのですが、この本では、ラトランドだけでなく、彼と接触した日本海軍の立花止(たちばな・いたる)、岡新(おか・あらた)などの性格、個性までしっかり描かれていますね。戦前の日本海軍は負けたことがないので、みんな自信があった。例えばプレーボーイとして描かれた立花はとても魅力的です。

 本書には日本人のエピソードがたくさん書き込まれていますが、FBIの資料だけではこれだけ詳細な情報は得られないのでは?

ドラブキン:おっしゃる通り、FBIの資料はファクツベースで書かれています。今回の執筆に当たっては例えばロサンゼルスの羅府新報(RAFU SHIMPO)なども調べました。1903年に創刊された米国内最古の日系紙で、当時の日本人に関わる様々な情報を知ることができました。MI5(英国情報局保安部)の資料も調べたのですが、こちらは結構、エージェントの感想や意見が書かれていたりして、FBIとの違いが面白かったです。

小谷:そうした多層的な調査によって書かれているから、小説のように読みやすい。また、日本人の個人秘書を雇っていた喜劇王チャールズ・チャップリンや、MI6(英国情報局秘密情報部)に勤務経験のある『007』シリーズの作家イアン・フレミング、サンフランシスコで銀行業を営んでいたオノ・ヨーコの父親、小野英輔などなど、ラトランドの人生に関わりのあったたくさんの有名人が登場して、ページをめくる手を止めさせない。映画化されるかもしれませんね。

ドラブキン:実はすでにハリウッドから映画化の打診を受けていて、エージェントが対応しています。

小谷:それは楽しみです。

百地三太夫を知らない日本人

小谷:こうしてラトランドの話をたどるだけでも私は大いにワクワクするわけですが、総じて日本人はスパイとかインテリジェンスについて関心がありません。

ドラブキン:それには私も驚きました。なぜですか。

小谷:アメリカやイギリスでは、子供の頃からスパイ映画やテレビドラマ、小説などでスパイの話題が身近にたくさんあり、それを見たり読んだりして育っている。将来、なりたい職業の一つにスパイという仕事が普通にある。ところが、多くの日本人はスパイという仕事があることさえ知らないのです。

ドラブキン:日本では忍者が有名では?

小谷:確かに戦国期から江戸期にかけて暗躍した忍者はスパイ活動をしていて、小説やドラマでも描かれていますが、欧米における「なりたい職業」のようには認識されていません。ワシントンD.C.のスパイ・ミュージアム(国際スパイ博物館)には忍者の百地三太夫(ももち・さんだゆう)がジャパニーズ・スパイとして展示されていますが、それを知る日本人も少ないでしょう。最近、アニメ化もされた漫画『SPY×FAMILY』がヒットして、若い人たちの認識は少し変わったかもしれませんが。

 スパイやインテリジェンスの世界は遠い存在ではないことをたくさんの人に知ってもらいたい。そんな思いから今回、『教養としてのインテリジェンス』を書きました。古代ギリシャから第2次世界大戦、現代に至るまで、歴史の裏側で暗躍したスパイたちのエピソードを数多く盛り込み、インテリジェンスの世界への入門書になればと。誰もが知る事件の裏側でミッションを成功させた例だけでなく、失敗例も出てきます。スパイ活動をプロジェクトに見立てて、何が成否を分けたのかを探っていくと、そこに表れる組織の問題点などは、現代の企業が抱える課題と重なるものも多いです。[※関連コラム=歴史に学ぶ「教養としてのインテリジェンス」

『教養としてのインテリジェンス エピソードで学ぶ諜報の世界史』(小谷賢著、日経ビジネス人文庫)
『教養としてのインテリジェンス エピソードで学ぶ諜報の世界史』(小谷賢著、日経ビジネス人文庫)

ドラブキン:小谷先生は、なぜスパイを含めたインテリジェンスを研究するようになったのですか。

小谷:私はもともと、国際政治学、国際関係論を研究していました。中でも太平洋戦争をメインに研究していましたが、表面的な戦闘だけでは理解できないことが多かった。戦闘の裏にあるスパイとかインテリジェンスが分からないと“本当のところ”が見えてこないので、本格的に研究を始めました。

 そして私がイギリス留学中の2000年前後に、イギリスの秘密文書が公開されました。その中に日本の外務省の秘密公電が解読されたものがあり、目を通すとその内容は衝撃的で、1年かけてひたすら読みました。MI5の資料にはラトランドの名前もありました。ドラブキンさんも公開されたFBI文書から新しい情報を得たように、情報公開をきっかけに研究が進展することは多いですね。

ドラブキン:新著で世界のスパイ史をまとめられた小谷先生から見て、日本のスパイの特徴とはどのようなものですか?

小谷:例えば、日露戦争の勝利に貢献した明石元二郎(あかし・もとじろう)や石光真清(いしみつ・まきよ)はストイックでした。明石はスパイ活動費として支給されたお金のうち余った分を、領収書を付けて国に返している。石光は家族を日本に残し、国から一銭ももらわずに、カメラが得意だったので当時の満州ハルビンに写真店を開いて稼ぎながら、ロシアの動きに目を光らせていた。スパイの中には多額の活動資金に溺れて身を持ち崩したり、高額の報酬で寝返ったり、“お金の誘惑”に負けてしまう者も少なくないのですが、日本人スパイには独特の使命感がありました。

ドラブキン:派手な活動も多かったラトランドとはかなり違いが。

小谷:ラトランドは映画『007』のジェームズ・ボンドさながら、高級車に乗って豪邸に住んでパーティー三昧。現代の多くの人々が持っている「すべては人知れず隠密裏に活動する」というスパイのイメージは冷戦時代のものですが、戦前のスパイは隠れて情報を取るといった意識はなかったのでしょう。戦時中の日本で活動した旧ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲも、かなりオープンな活動をしていました。

ドラブキン:一口にスパイといっても、時代によって違いがある。国ごとの特徴もありそうですね。

ロシアは毒、イスラエルは爆弾

小谷:ロシアのスパイはターゲットを決めたらいくらでもカネを投じて徹底的に調べ上げ、必要となれば暗殺も。彼らは毒を使うことが多い。中国のスパイはそうした深入りはせず、専ら広く浅く、です。

 イギリスの場合は伝統的な人によるスパイ活動が得意で、アメリカは通信傍受などテクニカルな諜報活動が得意。だから、英米は最強の組み合わせになる。今のウクライナ戦争でも協力して情報を取っています。

 イスラエルのモサドはなんでもやるが、爆弾を使うのが得意。ハマスとの戦争でも通信機器に爆弾を仕掛けている。

ドラブキン:現代の日本の得意技はなんですか。

小谷:残念ながら得意技はないのですが、強いて挙げるなら、近隣のアジア諸国の分析でしょうか。中学・高校の国語の授業で中国の古典を読んでいることなどを素地として、中国人らの考え方を欧米より理解できる。例えばCIAのエージェントが北京でのミッションの前に東京に寄り、専門家の分析を聞いてから現地入りするということもあります。

ドラブキン:国ごとの違いはあるとして、スパイの基礎教本のようなものはあるのですか?

小谷:ミリタリー(軍事)のテキストとしては、その兵法で知られる『孫子』や、カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』などがありますが、インテリジェンスに関する世界共通の教本のようなものはありません。

 日本では、かつてスパイを養成していた陸軍中野学校で明石元二郎の遺稿「落花流水」が使われていました。世界各地で多くの紛争があり、アジアにおいてもいくつもの火種がくすぶっている現在、インテリジェンスの必要性は高まるばかりですが、現在の日本についていえば、専らOJT(On-the-Job Training=実地研修)で情報の収集などに当たっているものの、残念ながら専門的な教育は行われていない状況です。

 イギリスのMI6などでは、専門の教育機関で主に社交術を徹底的に鍛えます。

ドラブキン:情報収集の入り口がどんな場面でもつくれるように、どんな話題にもついていけるようにするためですね。

小谷:実際に会ったMI6のエージェントは、私が日本人と分かるや日本の経済や政治についての話題を即座に振ってきました。広範な知識を巧みに組み合わせる力が必要なので、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の出身者が多いというのもうなずけます。

 インテリジェンスの重要性を認識している国々ではそれぞれ教育機関を持ち、養成したエージェントたちが身元を隠して様々な活動をしています。私のところにも各国から研究者やジャーナリストとして接触してくる人がいますが、CIAは例外的に身元を明かしてアプローチしてくる。何なら鞄(かばん)にCIAと書いてあったりします。

ドラブキン:今回の作品を書くために、スパイに関するたくさんの資料に目を通しましたが、まだまだ奥の深い世界で、興味は尽きません。

小谷:次作もスパイに関するものを?

ドラブキン:いえ、山本五十六について調べています。

小谷:日本ではすでにたくさんの関連書籍がありますが…。

ドラブキン:アメリカでも山本五十六は有名なのですが、意外なことに人物像に迫るような本は見当たらないのです。

小谷:アメリカ人が知っている日本人といえば山本五十六と東条英機。真珠湾攻撃、太平洋戦争と結びついてのことですが、ぜひアメリカ人が知らない山本五十六の実像に迫っていただきたいです。そう、山本五十六の死には日本の暗号の不備が関わっていますから、インテリジェンスのお話も出てきそうですね。

ドラブキン:また、たくさんの資料を丹念に読み込んでいきたいと思います。

企画・構成/黒沢正俊、木村やえ 写真/岩佐文夫

インテリジェンスとは国家が収集する秘密情報とそのための活動のこと。本書では世界中で行われているスパイ活動や通信傍受、偵察衛星による情報収集などについて国別、時代別に詳解する。各国編は日英米露中イスラエルといったインテリジェンスの世界ではよく知られている国々を、歴史編では古代ギリシャや『孫子』から東西冷戦期を経てロシアのウクライナ侵略までを俯瞰(ふかん)する。日本の過去、現代も追いつつ、将来のインテリジェンスはどうあるべきかを論じる。

小谷賢著、日本経済新聞出版、1320円(税込み)