「言い方を工夫してみたり、何度も繰り返したりしても、相手にうまく伝わらなかった」「何かを依頼して、『分かった』と言われたのに結局、依頼通りに実行されなかった」「言った・聞いていないで押し問答になって、どちらが正しいか分からなくなった」という経験はありませんか? こうしたコミュニケーションの齟齬(そご)の裏側には、認知科学的な問題が関わっている可能性があります。「新書大賞2024」で大賞を受賞した『言語の本質』(中公新書)の著者で認知科学者の今井むつみさんの新刊『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策』(日経BP)から、齟齬の原因となりがちな人間の記憶力の特徴について紹介します。3回目は、「何が記憶を書き換えるのか」です。

前回から読む

感情が記憶を書き換える

 記憶を書き換えてしまうのは、他人から投げかけられる言葉だけとは限りません。その人自身の感情もまた、記憶を書き換える要因の1つです。

 知り合いのTさんがこんな話をしていました。大学時代の友人であるNさんと久々に会い、学生時代の話をしていたときのこと。ちなみにNさんの妻も同じ大学のゼミ仲間です。

 その日、たまたまゼミの夏合宿の話になりましたが、Tさんは「ゼミの夏合宿」の話をすること自体が30年ぶり。Tさんが思い出せるのは、「海の近くの宿に泊まった」ということくらいで、Nさんが語る思い出話は、「そんなこと、あった?」という連続だったといいます。
 昔話とともに語られるNさんの思い出話は、そのエピソードの多さ、そして密度の濃さに驚いたそうです。

 こういったことはよく起こります。
 Tさんのように想起する頻度が少なければ、記憶はどんどん薄れていきます。一方Nさんは、ご夫婦で合宿の話をする機会があり、何度も想起していたのでしょう。また、ご夫婦にとって「いい思い出」でもあったのではないでしょうか。

 ただNさんのように何度も想起したからといって、記憶が当時のままで保存されているかというと、決してそうではありません。想起すればしたで、その際、外部から新たな情報が加われば、最初の記憶自体がゆがんでしまうこともよくあるからです。

 Nさんのように、ご夫婦で頻繁に思い出話をしている場合、一方に間違った記憶があると、それが聞いたほうに刷り込まれてしまうことがあります。ですから夫婦で話しているうちに、本来とは違う方向に記憶がつくり上げられることはままあるのです。

 多くの人にとっては大したことのない出来事であったとしても、それが2人の出会いにとってすごく重要な出来事であったなら、記憶は脚色されて特別なものになります。もちろん本人たちに「記憶をつくり替えている」という意識はありません。

 これは「思い込みはどのようにつくられるのか」という、かなりいい事例になると思います。感情というのは、このように記憶をゆがませる1つの大きな原因だからです。

「なぜ?」から始まる推測が記憶を書き換える

 人はもともと、様々なことに対して、「なぜ」という理由や因果を推測します。ネガティヴな感情を持っていると、「なぜこういうことをするのか」という推測もネガティヴに脚色されます。そして自分の推測があたかも現実のことであるように記憶されてしまうのです。

 例えば「先生に注意された」という事実がいつの間にか「先生は声を荒らげて怒鳴りつけた」という記憶に変わってしまったり、「上司に相談をしようと思ったら、たまたま忙しいタイミングだったので『あとで』と言われた」という事実が「上司は自分の相談には乗ってくれない」とか「自分を避けている」などという思い込みになってしまったり。

 こうしたネガティヴな感情にひもづく記憶は、思い出すうちにマイナスのループに陥って、負のサイクルにはまってしまうことがあります。ときに、病的なまでに強まってしまい、自力で脱出することが困難になってしまうことさえあるのです。

「分かってもらえたはず」は実は単なる「思い込み」?

 このように、仕事の上で、あるいは家庭や友人関係において、「正しく認識している」「覚えている」という、私たちが「当たり前だ」と思っていることには、実は様々な障害があることが分かります。
「これは間違いない事実だ」と確信していることですら、実は非常にあやふやで、ときにはまったく事実と異なってしまうこと。
 コミュニケーションでいえば、「間違いなく伝えた」「分かってもらえたはず」というのは思い込みに過ぎないかもしれず、「伝えたこと」「言ったこと」というのは、相手にはその通りに伝わってはいないのかもしれないこと。

 こうしたことが分かると、
「周囲の人と連携をして仕事を進めるには、どうしたらいいのか?」
「現状を正しく認識し、的確な提案をするには、何が必要なのか?」
「コミュニケーションがうまい、とは、どういうことなのか?」
「伝わるコミュニケーションとは何か?」
「人と人が分かり合うとは、どういうことなのか?」
 といった、新たな疑問も湧いてくるかもしれません。

 あるいは、
「こういう事実が起こっているのは明らかなのだから、当然、◯◯すべき」
「◯◯しないのはおかしい!」
「◯◯と言ったじゃないか!」
「私はちゃんと伝えたのだから、聞いていないほうが悪い」
 といった態度を取りたくなったときにも、「本当に、それでいいの?」と踏みとどまることにもなるでしょう。

(写真:Feodora/stock.adobe.com)
(写真:Feodora/stock.adobe.com)
画像のクリックで拡大表示
『言語の本質』(中公新書)で「新書大賞2024」大賞を受賞した今井むつみ氏の書き下ろし最新刊!

「うまく伝わらない」という悩みの多くは、「言い方を工夫しましょう」「言い換えてみましょう」「分かってもらえるまで何度も繰り返し説明しましょう」では解決しません。人は、自分の都合がいいように、いかようにも誤解する生き物です。では、都合よく誤解されないためにどうするか? 自分の考えを“正しく伝える”方法は? 「伝えること」「分かり合うこと」を真面目に考え、実践したい人のための1冊です。

今井むつみ著/日経BP/1870円(税込み)