カーボンニュートラルの実現とエネルギー安全保障への関心が世界的に高まる中、水素は次世代エネルギーの有力な選択肢として大きな注目を集めています。日本をはじめ各国では、水素の製造・貯蔵・輸送・利用に関する研究開発や社会実装が加速し、企業による設備投資や新規事業への参入も活発化しています。この大きな変化を理解するために、長年、水素エネルギーの研究に携わってきた東京大学先端科学技術研究センター 水素エネルギー分野の河野龍興教授に、水素社会を学ぶための良書を推薦いただきました。
「水素社会」という言葉を、最近、耳にする機会が増えています。しかし、水素は決して最近になって登場した新しいエネルギーではありません。その可能性が本格的に議論されたのは、1970年代のオイルショックまでさかのぼります。
当時、原油価格の急騰をきっかけに、石油への過度な依存に危機感を抱きました。その中で注目されたのが水素です。水素は、水をはじめとする様々な資源から製造できるため、どの国でも生み出せるエネルギーです。石油のように特定の産油国に依存する必要がないのが大きな魅力でした。しかし、その後は安価で安定した化石燃料が世界経済を支え、水素は長い間、研究開発の段階にとどまりました。
ところが近年、水素を取り巻く環境は大きく変わり始めています。実は、今ほど世界中が本気で水素に取り組んでいる時代はなかったともいえます。背景にあるのは、脱炭素とエネルギー安全保障という二つの大きな流れです。2050年のカーボンニュートラル実現に向け、世界各国でCO2排出削減への取り組みが加速しています。加えて、ウクライナ情勢や中東情勢などを受け、エネルギーを海外に依存することのリスクも改めて認識されるようになりました。こうした状況の中で、「自国で製造できるグリーンな燃料」である水素が再び脚光を浴びているのです。
欧州ではエネルギー安全保障の切り札として水素関連投資が進み、中東では石油を輸出しながら自国内のエネルギーを水素へ転換する構想が広がっています。オーストラリアでは豊富な太陽光を利用して水素を製造・輸出するプロジェクトが進められ、中国も国家戦略として水素インフラの整備を加速させています。水素を巡る競争は、すでに世界のいたるところで始まっています。
脱炭素の主役は太陽光や風力などの再生可能エネルギーでしょう。一方で、再生可能エネルギーが増えるほど、水素の重要性は高まります。再生可能エネルギーは、天候によって発電量が大きく変動します。発電量が需要を上回れば、電力会社は発電を抑制せざるを得ません。そこで注目されるのが、水素を利用したエネルギー貯蔵という考え方です。余った電力を利用して水素を製造し、必要なときにエネルギーとして利用することで、再生可能エネルギーの弱点を補い、電力を無駄なく活用できる可能性があります。
そのためには、水素をいかに安価に製造できるかが重要になります。私たちが行っている研究においても、余剰となる再生可能エネルギーを活用し、低コストで水素を製造する技術の開発を目指しています。水素社会の実現には、こうした製造コストの低減が欠かせず、世界中で技術開発競争が進められています。
水素社会は、エネルギー業界だけの話ではなく、多くの産業に影響を及ぼす可能性を秘めています。企業にとって重要なのは、「水素が普及するかどうか」を議論することではなく、水素を前提とした社会が実現したとき、自社のビジネスはどう変わるのかを考えることだともいえます。世界が大きく動き始めた今、水素社会を単なるエネルギーの話としてではなく、「次の産業構造を左右する変化」として捉えておくことが大切なのではないでしょうか。
今回から3回にわたって、水素社会を学ぶのに適した書籍を紹介します。今回は、水素社会の基礎を学ぶための書籍4冊、次回は少し技術的に踏み込んだ書籍3冊、3回目は私がこの業界を目指した際によく読んだ書籍2冊を紹介します。
「なぜ今、水素なのか」を学ぶための最初の一冊
水素社会を学ぶうえで、最初の一冊として薦めたいのが『今日からモノ知りシリーズ トコトンやさしい水素の本 第2版』(一般社団法人水素エネルギー協会編/日刊工業新聞社/2017年11月刊)です。文系出身の人でも十分に読めますし、また高校生でも理解できる内容です。専門知識を前提にせず、多くのイラストや図表を使いながら、水素の基礎から最新の技術動向までを分かりやすく解説しています。
編集を担当しているのは、1973年に設立された一般社団法人水素エネルギー協会(設立当時は水素エネルギーシステム研究会)です。同協会は、日本で半世紀以上にわたり水素の研究者や技術者が集う団体として活動を続けてきました。水素エネルギーがまだ一般にはほとんど知られていなかった時代から研究を支えてきた組織であり、本書はその知見が凝縮された入門書といえるでしょう。
本書の大きな特徴は、見開き2ページで一つのテーマを解説するという構成です。「水素はいつ、誰が発見したのか」といった歴史から、水素の製造方法や貯蔵・輸送技術、燃料電池、自動車や発電への利用など、水素社会を理解するうえで欠かせないテーマがコンパクトに整理されています。興味のある項目から読み始められるため、辞典のように手元に置いて活用することもできます。「水素とは何か」を体系的に学びたい人だけでなく、「ニュースで見聞きする水素技術をもう少し理解したい」というビジネスパーソンにも最適です。
本書の初版は2008年に刊行されました。その後、水素社会を取り巻く環境は大きく変化しています。パリ協定の採択を契機に世界各国で脱炭素への取り組みが加速し、日本でも水素基本戦略が策定されるなど、水素社会の実現に向けた政策が本格化しました。こうした変化を受けて刊行された第2版では、水素社会のロードマップや最新技術の動向が反映され、内容がアップデートされています。水素の全体像を無理なく理解し、「なぜ今、水素なのか」を知るための最初の一冊として、ぜひ手に取っていただきたいです。
水素社会を理解するために「天気」を知る
水素社会を実現するためには、水素そのものだけを学んでも十分ではありません。その背景にある再生可能エネルギーを理解してこそ、水素が果たす役割が見えてきます。そして、その入門書としてお薦めするのが、『Newton大図鑑シリーズ 天気と気象大図鑑』(ニュートンプレス/2021年7月刊)です。一見すると水素とは関係のない気象の本ですが、水素社会の本質を理解するのに、有用な知識を与えてくれます。
現在、水素は脱炭素社会を実現するエネルギーとして注目されています。一方で、水素そのものは「つくる」必要があります。そして、その製造に化石燃料由来の電力を使ってしまえば、水素を利用しても製造段階でCO2を排出することになり、本来の目的である脱炭素にはつながりません。
だからこそ重要なのが、太陽光や風力などの再生可能エネルギーを利用して水素を製造することです。一方で、再生可能エネルギーには大きな課題があります。それは、天候によって発電量が大きく変化することです。太陽光発電は曇りや雨の日には発電量が低下し、風力発電も風が吹かなければ電気を生み出せません。そのため、再生可能エネルギーを社会の主力電源として活用するには、気候変動を正確に予測し、発電量を見通すことが極めて重要になります。
本書では、雲や雨、台風といった身近な気象現象から、地球温暖化、気候変動、異常気象のメカニズムまでを豊富なイラストと図解で分かりやすく解説しています。さらに、太陽光や風力発電がどのような気象条件で発電するのかなど、再生可能エネルギーと天気との関係についても理解を深めることができます。
Newtonシリーズならではの美しいビジュアルも魅力の一つです。難解になりがちな気象学を直感的に理解できるため、読み物として楽しみながら学ぶことができます。
水素は地球温暖化を抑えるための技術です。そのためには、再生可能エネルギーから水素をつくるという考え方を理解することが大前提になります。現在流通している水素の多くは、石炭や天然ガスなどの化石燃料を利用して製造されており、製造時にCO2を排出しています。今後、本当に目指すべき水素社会とは、再生可能エネルギーを利用して水素を製造し、エネルギーを循環させる社会です。その全体像を理解するうえで、多くの気付きを与えてくれるでしょう。
カーボンニュートラルにおける水素の位置付け
水素は、カーボンニュートラルを実現するための重要な技術として注目されています。しかし、水素だけを学んでも、その役割や必要性を十分に理解することはできません。そこでカーボンニュートラルの全体像を学ぶ入門書としてお薦めするのが『図解でわかるカーボンニュートラル~脱炭素を実現するクリーンエネルギーシステム』(一般社団法人エネルギー総合工学研究所編/技術評論社/2021年9月刊)です。
本書の特徴は、エネルギー分野全体を見渡しながら、水素を一つの要素として位置付けている点です。カーボンニュートラルの考え方をはじめ、再生可能エネルギーや原子力、発電・送電技術、蓄電池、CO2回収・利用技術(CCUS)、産業分野における脱炭素化など、幅広いテーマを図解とともに分かりやすく解説しています。
もちろん、水素についても紹介されています。また水素だけを取り上げているのではなく、電力や産業、エネルギー政策など様々なテーマの中で、水素がどのように関わってくるのかが示されています。「水素は社会全体の変革の中で活用される技術である」ということが自然と理解できる構成になっています。
本書を編集したエネルギー総合工学研究所は、エネルギー分野の研究開発や政策提言を担うシンクタンクとして長年活動を続けています。国のエネルギー政策や産業界とも深く関わりながら、将来のエネルギーシステムについて調査・研究を行っています。私の研究でも同研究所の研究者と共同で取り組む機会が多くあります。そのため、技術だけでなく政策や産業動向まで含めた俯瞰(ふかん)的な視点に基づいてまとめられている点は、本書ならではの強みといえるでしょう。
一方で、豊富な図表やイラストを交えながら、専門用語も丁寧に解説されているため、エネルギー分野に詳しくない人でも無理なく読み進めることができます。カーボンニュートラルという言葉は知っていても、その全体像までは理解できていないというビジネスパーソンにとって、最初の一冊として十分に活用できる内容です。
また同じシリーズには、カーボンニュートラルを国際標準化の観点から解説した『図解でわかるカーボンニュートラル×国際標準化~脱炭素産業で生き残るためのルールメイクとルール優位性戦略~』(筒井潔著、苑田義明著、角田弘子著/技術評論社/2025年11月刊)も出版されています。自社のカーボンニュートラルの達成度を測りたい人などには、こちらの書籍もお薦めです。
今回は水素社会の基礎を学ぶために4冊を紹介しました。次回は、主には中級者に向けてお薦めの本を紹介します。
東京大学先端科学技術研究センター 水素エネルギー分野 教授
(取材・構成:木村 知史=CocoSmile 編集者)




