「言い方を工夫してみたり、何度も繰り返したりしても、相手にうまく伝わらなかった」「何かを依頼して、『分かった』と言われたのに結局、依頼通りに実行されなかった」「言った・聞いていないで押し問答になって、どちらが正しいか分からなくなった」という経験はありませんか? こうしたコミュニケーションの齟齬(そご)の裏側には、認知科学的な問題が関わっている可能性があります。「新書大賞2024」で大賞を受賞した『言語の本質』(中公新書)の著者で認知科学者の今井むつみさんの新刊『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策』(日経BP)から、齟齬の原因となりがちな人間の記憶力の特徴について紹介します。2回目は、「記憶はどれだけ確かなものなのか」についてです。
(前回から読む)
無関係の男性が犯人と勘違いされた2つの理由
記憶というものがどれほど頼りないものか、ということに関して、ロフタス教授はもう1つの事例を紹介しています。こちらは実験ではなく、本当にあった事件です。
その事件では、女性が暗がりでレイプされ、ある男性が容疑者として逮捕されました。被害女性が「彼がやった」と容疑者の男性を指さし、力強く証言したことで罪が確定しました。
しかし、この事件は後に真犯人が見つかり、えん罪であることが判明するのです。
被害女性は嘘をつくつもりなどありませんでした。それでも、結果的に偽証をしてしまった理由としては、次の2つのことが挙げられます。
1つは、当時の警察が容疑者を犯人と見定め、それを立証するための証拠づくりをしていたことです。警察は、捜査の初期に、「この男が犯人ではないか?」と容疑者の男の写真を被害女性に見せていました。その際には、女性は確証のある答えはしなかったといいます。
しかしその後、たくさんの男たちの写真の中から犯人だと思う男の写真を選ぶ、ということを求められたとき、「この人かもしれない」と、女性はその容疑者を選んでしまいます。
人は「なじみがある」という感覚だけでも記憶にバイアスがかかります。容疑者の写真を事前に見たことで、その顔に対して「見たことがある」という感覚が植え付けられてしまうのです。
実際にその人に会って見たのか、写真で見たのかは、もう区別がつきません。それで、警察の捜査の中で何度もその容疑者の写真を見せられているうちに、「この人に違いない」と思い込むに至ってしまったと考えられます。
そしてもう1つは、「被害者の視線」の問題です。突発的に事件に巻き込まれてしまったとき、私たちは「どこ」を見ていると思いますか?
例えば、目の前の人に銃を突きつけられたとき、私たちは犯人か銃か、あるいはまったく別のものか、何を見ているでしょうか?
銃口を突きつけられたとき、人は、銃を凝視することが分かっています。それも、犯人の顔はいっさい記憶に残らないくらい、銃だけをひたすら見続けるそうです。
では、その事件はどうだったか。レイプにあったその女性は、ナイフを突きつけられていました。
多くの人は、「自分を襲った犯人の顔なら、はっきり覚えているはずだ」と考えてしまいますが、その女性の視線はおそらく、突きつけられたナイフに向けられていたはずです。そう、そもそも被害女性は犯人の顔をほとんど見ていなかった可能性があるのです。
前述のようにこの事件は、後にえん罪であったことが明らかとなりますが、犯人と間違えられ拘束された男性は心労のためか心臓発作で亡くなったといいます。
人の記憶というものの曖昧さが、事件をより悲劇的なものへと変えてしまったのです。
私たちは「嘘」を言わずにはいられない!?
こうした研究の蓄積もあって、「記憶の曖昧さ」に対する認識はずいぶんと広がってきました。かつて、犯罪捜査において「決定的な証拠」と捉えられていた自供や目撃者の証言の扱いが変わった背景にも、こうした心理学の貢献があります。
人は「事実に基づいた話ができる」存在ではなく、自供や目撃証言が「つねに正しい」とは限らない。嘘をつくつもりがなくても、記憶は容易につくり替えられてしまう。人はそれほど正しく、自分の目撃したことや体験を証言したり再現したりできない、ということが分かってきたのです。
ここで取り上げたのは「目撃者」という立場での話ですが、犯罪や事件だけではなく、日常生活の場面でも同じようなことが言えます。「やった、やらない」といった言い争いや、「事前の注意喚起があった、ない」などといったことに関してもそうです。もちろん「言った、言わない」も同じです。
故意に嘘をつく人がいないわけではありませんが、嘘をつくつもりがなくても、相手が、そして自分が、事実として正しいことを言っているとは限らないのです。
もしかしたら、相手が「だましてやろう」「嘘をついてやろう」と悪意を持っていたほうが、まだ気づける可能性があるかもしれません。
「なんだかちょっと、言動がおかしいな」
「支離滅裂なことを言っているな」
「普段と様子が違うな」
などと感じられるかもしれないからです。
しかし、相手が無意識のうちに自分の記憶をつくり替えていて、自分の記憶を信じて、本気で言っているとしたら?
その嘘(話している本人にとっては真実)に気づくのは、決して容易ではないはずです。
「うまく伝わらない」という悩みの多くは、「言い方を工夫しましょう」「言い換えてみましょう」「分かってもらえるまで何度も繰り返し説明しましょう」では解決しません。人は、自分の都合がいいように、いかようにも誤解する生き物です。では、都合よく誤解されないためにどうするか? 自分の考えを“正しく伝える”方法は? 「伝えること」「分かり合うこと」を真面目に考え、実践したい人のための1冊です。
今井むつみ著/日経BP/1870円(税込み)

