ノンフィクション作家として世界各地を旅する高野秀行氏。英語から辺境の少数言語まで、今までに25を超える言語を学習。教科書が存在しない辺境の言語はネイティブに学び、文法の法則を自力で見つけ出す「言語オタク」としての経験を基に、『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)を22年9月5日に刊行した。高野氏の目に、日本の外国語教育事情はどのように映っているのか。[日経クロストレンド 2022年9月12日付の記事を転載。一部情報を更新]

高野秀行氏
高野秀行氏
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ノンフィクション作家 高野秀行氏
たかの・ひでゆき。1966年、東京都生まれ。89年に早稲田大学探検部での活動を記した『 幻獣ムベンベを追え 』(集英社)でデビュー。06年に『 ワセダ三畳青春記 』(同)で酒飲み書店員大賞を受賞。13年に『 謎の独立国家ソマリランド 』(本の雑誌社)で講談社ノンフィクション賞、14年に梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞。近著に『 幻のアフリカ納豆を追え!―そして現れた〈サピエンス納豆〉 』(新潮社)、『 イラク水滸伝 』(文藝春秋)など。清水克行との共著に『 世界の辺境とハードボイルド室町時代 』(集英社)など。
高野秀行『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)、22年9月5日発売
高野秀行『 語学の天才まで1億光年 』(集英社インターナショナル)、22年9月5日発売

「自分のやり方で解き明かしたい」という原動力

──新著『 語学の天才まで1億光年 』は高野さんがノンフィクション作家として「辺境」と呼ばれる場所を含む世界各地を旅し、現地で使われる25を超える言語を学んだ特殊な経験を通じて、言語や語学とは何かを考える内容です。そもそもどのような経緯でこのような探検的作風のノンフィクション作家に?

 僕が子供だった1970年代は、みんな探検や冒険が好きだったんです。例に漏れず、僕もインディ・ジョーンズや川口浩探検隊、月刊「ムー」(ワン・パブリッシング)など、考古学や探検物語に夢中になりました。人は普通、大人になるにつれてそうした冒険への興味や憧れをなくしていくものですが、なくさないまま大人になる場合もあるということです(笑)

 大学で探検部(早稲田大学探検部)に入ると、サハラ砂漠をバイクで横断したり、チベットの遊牧民の村に調査で住み込んだりしている先輩たちがいた。漠然としていた「未知の土地を探索したい」という夢は、そこで一気に具体的になりました。

高野秀行『幻獣ムベンベを追え』(集英社)。早稲田大学探検部時代に、コンゴの奥地の湖に伝説の幻獣「ムベンベ」を探索に行った一部始終を綴る、高野氏がノンフィクション作家となるきっかけになった一作
高野秀行『 幻獣ムベンベを追え 』(集英社)。早稲田大学探検部時代に、コンゴの奥地の湖に伝説の幻獣「ムベンベ」を探索に行った一部始終をつづる。高野氏がノンフィクション作家となるきっかけになった一作

──高野さんは執筆活動のポリシーに「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」を掲げています。未知の物事を求め続ける原動力は何でしょう?

 今回、本を書きながら人生を振り返って改めて気付いたのは、僕は人から何かを強制されるのが極端に苦手だということです。子供の頃は優等生だったんですが、高校生のときぐらいから、いい大学を出て、いい会社に就職し、そのまま定年を全うするような、決まった生き方が嫌になった。

 自分の関心のある物事を、自分のやり方で追い求めて解き明かしたい。「分からないことを分かりたい」という思いが、すべての根幹にあります。それはたぶん、僕の脳内がいつもゴチャゴチャと混乱しているからではないかと思うんです(笑)。だからこそ、分からないことを自分なりに整理したり、解き明かしたり、位置付けたりしたいという思いが人一倍強くなったのではないかと。それが今でも探検的な活動の原動力であり、言語学習も僕にとっては一種の「探検」です。

英語もできなかった青年の言語学習青春記

──過去の著作の中にも、ノンフィクションやエッセイの一部として高野さんが現地の言語を学ぶ過程がしばしば登場していましたが、今回改めて「言語」をテーマに1冊の本を書くに至ったきっかけは?

 ある意味、コロナ禍のおかげで書けた本なんです。実はこれまでにも「語学についての本を書いてほしい」とリクエストを頂くことはあったのですが、ずっと海外に行っていたり、取材に基づいて本を書いたりを繰り返す生活で、しっかりと言語学習の経験すべてを振り返ったり、本を書けるほど深く考えたりする余裕はありませんでした。

 それが、コロナ禍で海外に行けなくなり、まとまった時間ができた。予期せぬきっかけではありましたが、これまで自分が学んできた語学や、言語とは何かという根本的な問いを、体系立てて考えることができました。僕は20代でアフリカ、南米、東南アジアなどを旅して、それぞれ異なった系統の言語を学びました。言葉にはどういうパターンがあるのか、ある程度までは知っていたことで、説得力を持って語れた点はラッキーでした。

──今までとは趣の異なるテーマを扱う難しさはありましたか?

 これまで30作ほど本を書いてきましたが、今作が一番悩みました。「言語や語学に興味がある人」と「過去作と同じような、面白おかしいテイストを求める人」の両方に届けるにはどうすればいいのだろうと。過去作とは方向性を変え、「なぜ日本の語学教育は実践的でないのか?」など、実用的なテーマも検討しました。

 ただ、最終的には読者に共感してもらうことを一番に考えました。語学に苦手意識のある人でも、学生時代の英語も話せなかった頃の個人体験から書き始めれば、本を読みながら、僕が言語の魅力にのめり込んでいく過程を一緒に追体験してもらえるんじゃないかと。そう思って記憶をたどりながら書き進めたことで、結果的に青春記としても読める1冊になったと思います。

笑いの生む「距離」がものの見方を豊かにする

──ヒット作となった13年刊行の『 謎の独立国家ソマリランド 』(本の雑誌社)をはじめ、詳細な調査や経験に基づく内容を、ユーモアを交えて伝える語り口で注目を集めました。なぜジャーナリズムではなく、一貫してエンタメ性の高いスタイルを選んできたのでしょう?

 過去には硬派なジャーナリズムを目指したり、藤原新也さんに憧れてシリアスなかっこいい路線を目指したりしたこともありました。でも、どうしても筆が進まなかった。それに、『謎の独立国家ソマリランド』をもしジャーナリズム風に書けたとしても、そもそも日本ではソマリアに興味を持ってくれる人はほとんどいない。それでも多くの人に読んでもらえたのは、やはり「探検記風」だったからだと思うんです。僕が見つけたい答えへとたどり着くまでの過程を、ジャングルをかき分けて進むように追体験してもらうことで、遠い知らない国の話でも共感を持って読んでもらえた。

高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』(本の雑誌社)。無政府状態・内紛状態が続くアフリカの東端・ソマリアの中で、奇跡的に平和を達成している「ソマリランド」。国際社会では国として認められていない独立国家の謎に迫るルポルタージュ
高野秀行『 謎の独立国家ソマリランド 』(本の雑誌社)。無政府状態・内紛状態が続くアフリカの東端・ソマリアの中で、奇跡的に平和を達成している「ソマリランド」。国際社会では国として認められていない独立国家の謎に迫るルポルタージュ

──作風には「笑い」への一貫したこだわりも感じます。

 笑いの本質って「距離」だと思うんです。対象との距離、自分との距離の両方です。例えば、著者が「第3世界のことをもっと理解すべきである」とか「貧しい人たちを助けるべきだ」とか、正論のみで書き進めていくと、客観的な距離のない、公式声明のような「著者=正しい人」という一元的な狭い世界の見方になってしまう。

 でも、笑いを取ろうとすると「そんなこと言ってる俺って何なんだよ」という、客観的な突っ込みの視点が入ってきますよね。例えば、学生時代に伝説の怪獣を探しにコンゴを探検した際も、こちらは真剣そのものですが、現地の人からしたら滑稽で笑えるでしょう。だって得体の知れない日本人が、怪獣を探しに来てるわけですから(笑)

 現実の世界、あるいは現地での体験は、一本線のような単純なストーリーではなく、反対の意見やノイズや矛盾が複雑に混じり合っている。笑いの「距離」を通すことで、正論だけの痩せた見方ではなく、そうした複数の視点が生きてきて、文章や物語が豊かになっていく感覚があるんです。

日本語は孤立した「離島」のような言語

──高野さんにとっての言語学習は、そうした別の視点を得るためにも重要なものなのですね。

 そもそも、言語に対する感覚自体が、場所によって大きく違うんです。例えば、日本人は近年、本を読まなくなってきていると言われますが、それでも世界から見ると、突出してよく読書をする人たちです。世界には文字を持たない言語の方がずっと多い。僕が今まで旅をしてきたのも、本を読む人などほぼいない地域が中心です。では、文字を持たない言語は劣っているのかと言えば、それも違う。

 アフリカの人たちは読み書きができなかったり、関心がなかったりする人が多い。一方で、彼らはしゃべることについてはとても長い伝統を持っていて、しゃべりもうまいです。アフリカの人がテロップ満載の日本のテレビ番組を見たら、不思議に思うでしょうね。ソマリ人の友人がニュースサイトをチェックする様子を見ていると、ソマリ語のニュースサイトには文字と一緒に音源が付いていて、友人は読まずに聞いているんです。その方が早くて楽だと言うんですね。

 SNS時代なので、世界各地の友人とやり取りをしていますが、ボイスメッセージがまあ多いです(笑)。チャットに文字を打ち込むのが面倒なんですね。吹き込んだ方が早いし、受け取る側も聞く方が楽だろうと。それだけ日本人とは言語観が違うわけです。

──多くの言語を学んできた高野さんの目に、日本語はどのような言語として映っていますか?

 日本語は言語学的に仲間が全くいないので、ポツンと孤立している離島のようなイメージです。ただ、日本語の話者の数そのものはとても多い。世界には7000以上の言語があると言われますが、話者の数はその中で10位くらいです。もっと小さい言語集団に所属していると、母語に加えて英語や中国語などの共通語や公用語を覚える必要がありますが、日本は日本語だけ覚えておけば事足りる。全くグローバル化されていない単一の言語で、国のどこへ行っても会話や読み書きができ、経済活動も事足りているというのは、世界的に見てかなり珍しい環境です。

 よく「日本人は語学ができない」と言われますが、最大の理由はその環境によって勉強する必要がないからですね。でも、言語や語学の世界は広大で、日本人の持つその感覚というのは、世界の中からすると特殊なものであり、あくまで一つの小さな点のような言語観でしかないんです。

日本人のシンプルな言語観とは全く異なる、コンゴ人の階層化した言語観。家族や親族、村の中で使われる民族語の数は250以上もあるとされる(『語学の天才まで1億光年』第2章より、高野氏の作図による)
コンゴ人の言語観(言語世界)のイメージ図
日本人のシンプルな言語観とは全く異なる階層化した言語観。家族や親族、村の中で使われる民族語の数は250以上もあるとされる(『語学の天才まで1億光年』第2章より、高野氏の作図による)
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「マクドナルド」が発音できない語学教育

──教科書もないような言語の場合、現地では実際にどのように言葉を学んでいくのですか?

 例えば、現地でご飯を食べたとき、「おいしいってなんて言うの?」と聞いてみる。そこから広げていく形で、「とてもおいしい」と「とても」を付ける場合はどうか、逆に「おいしくない」を表現するには? そもそもこの食べ物の名前は? というように芋づる式に探っていきます。

 単語や表現がある程度分かってきたら、次は語順を気にしてみる。「おいしい 食べ物」なのか「食べ物 おいしい」なのか。「この食べ物はおいしい」と言いたい場合はどう変わるのかなど、追求し始めるともう止まりません(笑)。僕は言語オタクですから。メカが好きな人が、「この機械はどういう仕組みになっているのだろう」と分解していく感覚に近いかもしれません。

 現地で言葉を覚えていく中で、一番重要なのは固有名詞です。地名、食べ物や商品のブランド名、その土地固有のチェーン店、よくある苗字など、日常的な会話のトピックって、ほぼ固有名詞で占められている。日本でも知らない地方に行くと、会話に出てきたローカルな店の名前などが何なのか分からないことってありますよね。また、固有名詞を知っていても、現地の発音で伝えられないとやはり会話ができない。だから固有名詞の発音練習って、実はとても重要なんです。

──学校での語学学習とは全く異なる覚え方ですね。

 僕は言語を勉強するときはいつも、知りたい単語から文法、語順へと広げていくように、個別から全体へと向かいます。学校の言語教育では、多くの場合逆ですよね。学校ではまず、文法や文型といった全体的なルールを教える。でも生徒の立場からすると、実際に言葉を使う機会や目的がないのに、体系的なことをたたき込まれても漠然とした知識にしかならず、いざ使いたいときに使えない。

 語学教育の根本的な問題がそこにあります。実際に現地で必要なのは、「マクドナルド」のカタカナ読みじゃない発音だったり、その地域の名物料理の名前であったりする。教育の場ではそういう現地性が取り除かれ、「一般」から入ります。でも、「一般的な世界」というのは存在しないので、実際には使えない知識になってしまう。これは日本に限ったことではなく、学校での語学教育は順を追って文法を教える側の事情にかなり縛られている。そういう事情は、実際に現地で言葉を使えるかどうかには全く関係がないと、声を大にして言いたいです。

──むしろ、学校教育が弊害になっているとも言えますね。

 日本の英語教育にありがちな「スペリング1つでも間違えちゃいけないような感覚」って、根強く残ると思うんですよね。僕自身、今でもまだそういう意識に縛られている部分があります。言ってしまえば、相手に意思を伝えるのに、別に身振り手振りのコミュニケーションでも、伝われば構わないわけです。

 何かをお願いするときに「Please」を付けるべきかどうか気にする人もいますが、はっきり言ってどうでもいい。笑顔で話せばどんな言い方でも悪印象にはならないし、むしろ「正しく言わなきゃ」という強迫観念で顔が強張り、相手にマイナスな印象を与えて、余計に自然な会話から遠ざかってしまう。

 僕は「語学」という言い方も実はあまり好きではありません。言語を使うことは、学問ではなく技術だと思うからです。学校の教科で言うなら、むしろ「音楽」「美術」「体育」などの、身体を伴った感覚的なものにより近い。そういう科目って、もちろん理論的に覚える部分もありますが、繰り返し練習し実践するうちに、少しずつ身に付いていくものですよね。語学も才能の個人差はあっても、練習すれば誰でもある程度はうまくなるんです。

コンゴの民族語マンガラ語バンギジ方言(バンギ語)の例文を記録した高野氏のノート
コンゴの民族語マンガラ語バンギジ方言(バンギ語)の例文を記録した高野氏のノート
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50代半ばの記憶力で新しい言語を覚える方法

──今現在、語学学習につまずいている人に向けてぜひアドバイスを。

 基本的にはどの言語でも、学ぶことで何がしたいのか、目的を明確にして主体性を持って学ぶのが一番身に付く。語学に自信がない人ほど、目的をはっきりさせた方がいいです。自分がなぜそこに行くのか、何を見に行くのか、誰と会うのか、その人と何の話をするのかなど、行動や目的が具体的な方が、覚えることも絞りやすいからです。

 僕の場合、最近イラクに行ったのですが、コロナ禍のせいで、前回行ったときからすごく期間が空いてしまったんです。取材のためにアラビア語のイラク方言を習っていたのですが、ブランクのせいでほとんど忘れてしまった。しかも、勉強し直す暇もなかった。それでどうしたかというと、絶対に取材で必要な表現だけ覚えて行きました。今回は特に、現地の伝統的な布について調査をしているので、「糸」「針」「刺しゅう」「はた織り」など、布に関する語彙だけはしっかり覚えてしゃべれるようにした。

 もう50代半ばですから、近所の人の名前すらとっさに出てこないのに、新しい外国語を覚えるというのは至難の業です。記憶を維持するのは無理なので、現地に行くたびに改めて覚え直せばよいというくらいの姿勢でいます。

高野秀行氏
自身の言語学習の基本は「個別から全体へ」と語る高野氏。個別の事象の積み重ねの中から全体像を把握していく手法は、作風にも通じる
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言語学習には不変の価値が1つある

──機械翻訳も発達した時代に、自力で言語を学び続けることの価値とは何でしょう?

 言語を学ぶことには、大きく2つの目的があると考えています。1つは伝えたり伝わったり、意思の疎通ができること。もう1つは相手と親しくなることです。前者は機械翻訳に置き換わったとしても、後者の価値はなくならないでしょう。

 日本でも方言を話すと、標準語より相手との距離感が近くなったりしますよね。海外でも同様に、日本人の僕がローカルな方言のニュアンスや発音を覚えて話すと、現地の人がウケてくれて一気に親しくなれる。そうして、ウケを狙いながら手探りで言語を覚えていく中で体感される、発音、口調、話すときの態度、会話の進め方などから、その地域特有の民族性やノリが見えてくる。さらに学んでいくと、言語がいかに社会状況や歴史を映す鏡であるかが分かってきます。

 世界中で話されている英語から、アフリカのジャングルでしか使われていない言語まで、言語をたどって旅をしていくことで、その言語を話す人々の地域文化や歴史、世界観、他地域との文化的なつながりも分かってくる。言語を学ぶというのは、僕にとっては新しい地図を読み解くような感覚でもあります。世界各地で25以上の言語を学んできましたが、どの言語もみんな美しくて魅力がある。そして、どれだけ文法や発音が異なっていても、人間の言葉は根底のところで似ている。僕はそのことにも心ひかれています。

 意識したことはないかもしれませんが、言語はアイデンティティーの形成にも深く影響しています。つまり、新しい言語を学ぶということは、たとえ数パーセントであっても、それが自分のアイデンティティーの一部になる可能性があるわけです。その言語を話している人と気持ちが共有され、「愛」が生まれる。逆に言えば、言語学習で行き詰まっている人も、その言語に対して、その言語をしゃべっている人たちに対して愛を持ち続けている限り、そのうち必ず先へ進めます。

著者が薦める本
 主に認知症のお年寄りをケアしている老人ホームの施設長が、介護の現場をつづった著作。介護施設では、徘徊(はいかい)しないように、転ばないようにという配慮の結果、お年寄りが主体性を奪われて「管理」されてしまう側面がある。それに対し、お年寄りはとても抵抗するんです。人間は認知症になっても、最後まで主体性を持ち続けたい。たぶんそこに生きている実感があるのだ、ということが描かれている。言語学習もそうですが、「主体性」には効率や生産性とは異なる次元で価値があるのではないかというのが、最近の関心事なんです。偉そうなことを言いましたが、僕自身も洗濯機の中の洗濯物のようにスケジュールにもまれる日々なので、主体性を取り戻したいですね。(高野氏)

(写真/髙山 透)