新人作家のデビュー作でありながら、いきなり累計50万部のヒットとなり本屋大賞を受賞、直木賞の候補にもなるなど、2022年の小説を代表する一作となった『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)。ソ連軍に実在した女性狙撃部隊をモデルに、少女たちの目線から第2次世界大戦の独ソ戦をリアルに描く戦争小説だ。大ヒットの一方、受賞直前にはウクライナ戦争が勃発。著者の逢坂冬馬氏は、現実とのリンクに複雑な思いも抱えたという。[日経クロストレンド 2022年11月11日付の記事を転載。一部情報を更新]
──『 同志少女よ、敵を撃て 』は、新人文学賞の「アガサ・クリスティー賞」で、初めて審査員の全員が満点を付けた受賞作として刊行前から注目を集めました。戦争小説、歴史小説のカラーが強い本作の応募先に、アガサ・クリスティー賞を選んだのはなぜでしょう?
アガサ・クリスティー賞と聞くと、ミステリーの賞だというイメージがあると思います。けれど、僕が最初に挑戦した年の応募作品は、実は冒険小説に近いジャンルでした。それでも、受賞はできなかったものの一次選考を通過できたので、アガサ・クリスティー賞が「ミステリー」の範囲を思ったよりずっと幅広く捉えていると分かったんです。長さの規定も原稿用紙800枚以内と、かなりの長編小説でも受け付けてもらえます。なので、最初の挑戦以降はこの賞のみに毎年応募し続け、4年目に本作で受賞することができました。
また、主催の早川書房は、月村了衛先生の『機龍警察』シリーズ、小川一水先生の『天冥の標』シリーズなど、僕が長く愛読してきた作品の版元でもあり、『三体』シリーズや『ザリガニの鳴くところ』など、優れた海外の作品も数多く翻訳出版している。なので、自分の小説を早川書房から出したいという憧れもありました。
最悪の形で同時代性を獲得してしまった
──2021年11月にデビュー作としては異例の初版3万部で発売され、22年4月には本屋大賞を受賞、累計48万部まで部数を伸ばしています(編集部注 22年末に累計50万部を突破)。改めて、作品のヒットをどのように受け止めていますか?
新人作家の作品にもかかわらず、発売当初から多くの方に評価や応援をいただき、本屋大賞受賞をきっかけにさらに多くの方に届けることができて、本当にありがたく思っています。一方、受賞直前の22年2月末にウクライナ戦争が勃発し、小説の読まれ方はそこで大きく変わってしまいました。現実に起きている戦争と、本書で描いた戦争の物語との距離が密になってしまったことには複雑な思いがあります。
本作を執筆していた頃は、今のように戦争のニュースが日常化する事態は予想しておらず、小説にそのような時事性を持たせる意図もありませんでした。小説の時代背景となっている独ソ戦は、第2次世界大戦の中でも突出した死者を出し、最大の激戦といわれる戦争です。しかし、少なくとも日本のフィクションの世界では今まであまり注目されてこなかった。なので、ウクライナ戦争が始まる前までは、独ソ戦を題材に、それも女性狙撃兵の物語を描いたことの珍しさに注目して手に取っていただくことが多かったんです。
それが、戦争が始まると、取材などでも現実の戦争についての考えを頻繁に聞かれるようになりました。「小説はフィクションであり、現実の戦争については聞かないでほしい」という態度を取る選択肢もありましたが、やはりそれではダメだろうと。本屋大賞の受賞スピーチでは「最悪の形で同時代性を獲得してしまった」「誤読を恐れている」とお伝えしましたが、それは防衛戦争を戦うソ連の兵士たちを描く本作について、「戦争が起きたら祖国を守るために武器を取って戦い抜くのが正義」と説く物語だと誤読される例も実際に増え始めていたからです。
作品の意図をしっかり伝える意味でも、本作は「反戦小説」だと自分の口から明らかにし、ロシアのウクライナ侵攻は許されない侵略戦争であるという認識も伝えなければならないと思った。ウクライナ戦争に関するメディアからの質問やコメントの依頼も、すべてお受けしていました。
今はまだ戦争の出口は見えませんが、もし将来的に現実の戦争を想起せずにこの作品を受け止めていただける状況になり、それでもなお、内容を自分たちの普遍的な問題と捉えて読んでもらうことができたなら、この小説を本当の意味で届けることができたと実感できるのではないかと思っています。
狙撃兵は戦場に「最適化」されることで完成する
──女性狙撃兵の目線から独ソ戦を描く本作の構想については、ソ連軍に従軍した女性兵士の証言を集めた、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)に着想を得たそうですね。
『戦争は女の顔をしていない』では、作品の最初に女性狙撃兵の証言がつづられているのですが、この女性の証言が構想の原点でした。彼女は18歳のときに戦争が始まってソ連軍に従軍し、やがて狙撃兵の訓練場で専門的な訓練を受けます。そこで高い狙撃の技量を身に付けたものの、それでも初めてドイツ兵に直面した際には、生きた人間をスコープに捉えて引き金を引くことに激しく躊躇(ちゅうちょ)します。
つまり、狙撃兵というのは技量を身に付けた段階で完成されるのではなく、そうした経験を積み重ねる中で、人間の内面が戦地の状況に最適化され、慣れていくことで狙撃兵になっていく。次第に倫理観がまひし、人を殺すことへの葛藤が薄れていく。従軍前までは普通の市民であった人たちが、いかにして戦場に最適化され、内面が変わっていくか。ここで描かれていることは、小説を書くうえで大きなテーマになりました。
──個々の兵士の内面の変化を通じて、戦争を描く視点ですね。
いわゆる戦記物って、人間の動きを何十万人という束で捉えたり、広大な土地の奪い合いを地図や時系列で捉えたり、人工衛星から地上を観察しているような大きなスケールで語られることも多いですよね。そこからは、個々の人間が生きて死んでいった姿というのは、見えてこないわけです。
本作でも何人もの主要人物が死に、主人公のセラフィマのように戦闘を経験するうちに、生き残る兵士たちの心のありさまもどんどん変わっていく。書いている自分もしんどいですが、独ソ戦という史上最大の死者を出した戦争を、アレクシエーヴィチのように徹底して個々の人間に落とし込み、極限の状態を小説で表現したかった。
それができれば、「もし自分が同じ状況を生きていたとしたらどう行動するか」「独ソ戦がなかったら登場人物たちはどういうふうに生きていただろう」と、約80年前の戦争が決して自分と無縁のものではないと、読者の方に受け取ってもらえると考えました。
女性兵士たちの目線から見た戦争を小説に
──第2次世界大戦中、ソ連だけが100万人規模で女性兵士を動員していたことにも改めて驚かされます。女性の目から戦争を描くことの意味をどのように捉えていましたか?
ソ連軍がなぜ女性兵士を組織的に前線に投入したのか。実はいまだに明確かつ単一の理由で説明することは難しいのです。単に総力戦で兵力が枯渇していたという理由なら、ドイツの方が先に女性兵士を動員していてもおかしくないわけですから。ソ連は男女同権をプロパガンダとして打ち出していたので、女性も戦場で戦えるし、社会進出していくんだという考え方が背景に流れていた。
ただ、それが本当の意味での先進的な男女平等の表れだったのなら、戦後も女性兵士は存在し続けていたはずですが、そうはならなかった。戦争の終結とともに差し迫った危機が去ると、男性優位の古いジェンダー観が復活した。「男たちは戦地で勇ましく戦い、女性たちはその帰りを待っていた」という戦後に語られる物語の中では、戦争中は様々な理由を付けて正当化していた前線で戦った女性兵士は、都合の悪い存在として記録や大文字の歴史からは抹消されてしまう。
男性兵士と同じように戦い、戦後も同じように戦争体験から精神的後遺症などにも悩まされていたにもかかわらず、大義名分やアイデンティティーを失ってしまったわけです。小説を書くなら、そこの部分まで踏み込むべきだと思いました。それはまさに、女性兵士の目線を通すことでしか描くことができない戦争の苦痛なんです。
──戦後問題の部分までを描く戦争小説は少ないと感じます。
戦争中の兵士の在り方が、戦後にゆがめて語られてしまうのは、独ソ戦に限ったことではありません。日本でも太平洋戦争について、「戦後日本の繁栄は、戦争を戦い抜いた日本兵のおかげ」という言説をよく聞きます。実際は、戦後の日本というのは、大勢の日本兵が無駄死にしていった歴史の後にもかろうじて成立していると言うべきで、因果関係がおかしいですね。戦争を戦った兵士を戦後に美化するのは生きている人間のエゴであり、死んでいった人々を尊重してるようでいて、ないがしろにする行為だと明言したいです。
小説の強みを最大限生かして迫る戦場の「内面」
──史実としての戦争と、フィクションの部分をどのように描き分けていったのですか?
例えば、女性だけで構成された狙撃部隊は現実にもいたという資料がありましたが、実際は作中で描いたよりずっと人数が多く、旅団規模だったそうです。しかし、旅団を小説で描ききるのはあまりに困難なので、小隊という形にしています。実際はセラフィマたちのような規模の小隊が、作中のように独立して転戦していくというのは不自然なのですが、そこはぎりぎり整合性が取れるように裏付けとなるフィクションの要素を投入しました。
主人公と主要な登場人物についてはドラマチックにフィクションを導入し、しかし、その背景部分の史実はしっかり押さえていくというのが基本方針でした。独ソ戦に関しては、ひと昔前まで定説とされていたことが、最近の研究では間違いだったと再検討されている事柄も多く、そうした部分については古いステレオタイプを小説の中で再生産しないように注意を払っています。
──戦争を扱う作品には映像や漫画もありますが、小説でしか描けない戦争表現とはどのようなものだと思いますか?
アニメや映画などで表現される戦争ものは、確かにビジュアル面は迫真です。小説で戦争を描くのは難しい。だからこそ、小説の強みを最大限発揮できる表現方法で戦争を描くべきだと思いました。戦場で撃たれて死体がバラバラになる衝撃は戦争映画でリアルに描けるかもしれませんが、ついさっきまで生きていた友人が自分の隣で撃たれて死んでいく衝撃、敵を撃つことへの躊躇といった人間の内面を描くなら小説の方が向いていると思う。
例えば、映画のようにカメラを置いてフラットに戦場の様子を撮影した映像と、人間の目が捉える光景は同じではないですよね。人間というのは、何かを注視したりインパクトの強いものを見たりすると、必然的に他のものは視界に入らなくなる。そう考えると、小説で何を描写し何を描写しないか、登場人物にとって何が印象に残り、何が誇張して見えているかを意識的に選択することで、より内面に迫れると考えたのです。
──「敵」という強いキーワードを含むタイトルは、現実に起きている国同士の戦争や緊張関係にとどまらず、あらゆる人間同士の対立が複雑に可視化されている今の時代に刺さると感じます。
この小説の中には、登場人物たちが「自分が何のために戦うのか」と自分に問う場面や、あるいは他人から問われる場面が繰り返し出てきます。なぜそれを描いたのかというと、特に防衛戦争を戦っている兵士たちにとっては、「なぜ戦うのか」という戦争に対する個人の動機が成立しにくくなるからです。戦争に対する倫理観も動機も、国家からオフィシャルなものが用意されてしまう。
では、その国から与えられた大義名分や動機に身を委ねるのか、それとも抵抗して個人の倫理を貫徹するのか。本作の中で主人公のセラフィマは、個人の倫理を貫徹する選択をする。それが良いのか悪いのかは、作者の僕からも言えません。
はっきりと言えるのは、作品を読む前と後とでタイトルの印象は大きく変わるだろうということです。内容を全く知らずにこの本を手に取った方は、タイトルや装丁から「この物語はソ連の赤軍兵士である女性スナイパーが主人公で、敵とはドイツ軍やナチスのファシストだろう」と予想するでしょう。しかし、読み終わってパタンと本を閉じたときには、改めてこのタイトルや表紙を見て「敵とは何だったのか」と余韻が残るはずです。
「始めなければどんなによかったか」
──そもそも、なぜ小説家を目指したのですか?
小説家を目指すようになったのは、大学を出て就職してからです。学生時代は国際政治や民俗学を深く学びたいと、学者を目指す選択肢もよぎりましたが、師事したいと思っていた先生が立て続けに辞めてしまう不運もあり、確固とした研究対象を見つけられず、そのまま社会に出て会社員になりました。
ただ、いざ働き始めると協調性に欠けるので会社員にはどうも向いていない(笑)。そのとき、大学在学中に懸賞論文を書いて2回優勝した経験や、当時審査員を務めていた高橋源一郎先生に褒めていただいたことを思い出したんです。文章を書いている時間が一番楽しいという自分の在り方に改めて気付き、そこで、学部生レベルではあったけれど、積み上げてきた見識を生かして小説を書いてみようと考えるようになりました。学術の世界では挫折してしまいましたが、今となっては面白い道が見つかって良かったと感じています。
──デビューまで10年以上、新人賞に挑戦し続けてきたそうですが、過去作はどのような作風だったのでしょう?
『同志少女よ、敵を撃て』の2作前は、近未来を舞台に日本中でテロが起きる物語を書きました。さらにその前は、国家の権力が今よりも衰退したパラレル世界で、空母で生活するパイロットたちの物語を書いたりもしました。国家の代わりに企業が行政などを代行している世界で、海洋上は無法地帯になり海賊が跋扈(ばっこ)しているのですが、海賊たちも海賊を鎮圧する賞金稼ぎたちも、みな空母で暮らして戦っているという世界観です。
──どの作品もテーマに戦争や暴力が含まれています。
決定的な理由やきっかけを説明するのは難しいのですが、何かを語るときに自分の中の根本に浮かんでくるテーマなんです。戦争や暴力は嫌いだし、極力遭遇したくはない。それならば平和な日常の物語を描く選択肢もありますが、自分が嫌悪するものだからこそ、世の中でそれらが繰り返されていることについて、問題意識を持って書くべきなのではないかと。書くことを通じて自分が抱えている不安が解消されるかもしれないし、憤りが具現化されて作品の形になるかもしれないからです。
現在の戦争についても、ウクライナを侵略したロシアの立場からすれば、今では膨大な数の人が亡くなってしまい、領土の獲得といった成果を得ずに撤退することは非常に困難になってしまった。誰にもその落としどころは分かっていません。「始めなければどんなによかったか!」と、毎日のように痛切に思います。侵略戦争が起こるとき特有の非現実感、非現実的な思考や決断については、今後も考え続けたいと思います。なぜ戦争を始めてしまうのか、暴力が生まれてしまうのか。一生を捧げても答えが見つかるかは分かりませんが、今後もこのテーマに向き合い続けていくと思います。
(写真/髙山 透)




