秋の読書推進月間「本との新しい出会い、はじまる。 BOOK MEETS NEXT 2023」のオープニングイベントが2023年10月17日、紀伊國屋ホール(東京・新宿)で開催された。記念講演として、累計発行部数が1300万部を超えるミステリー作家の神永学さんが登壇し、語ったのは「本嫌いだった私が小説家になった理由(わけ)」。高校を卒業するまでに本を1冊も読み切ったことがなかったという神永さんに起きた、「あり得ない」と言わずにはいられない驚きの出来事とは――。
本を読まず、言語能力がみるみる落ちた
僕は、高校を卒業するまでに本を1冊も読み切ったことがありませんでした。完全にゼロで、はっきり言って読むことが嫌いでした。なぜそんなに嫌いだったのか。一つに親が本を読む人たちではなく、家に1冊も本がなかったことが考えられます。正確に言うと1、2冊はありましたが、それは父の趣味である盆栽の写真集でした(笑)。それ以外、本という本は1冊もなく、活字に対するなじみがまったくありませんでした。
そんな僕が初めて小説に出合ったのは学校の教科書でした。僕にとって、教科書に載ってる小説はなんのために読むかというとテストのためで、完全に読まされている状態でした。それで小説を好きになれるわけがなく、読書感想文はあとがきを丸写しにしました。当然先生にバレてげんこつを食らい、こんな目にあうなら本なんて絶対読むもんか! とひねくれて考えるようになりました。自分で本を買うなんてもってのほかで、図書館に行ったことも一度もありませんでした。
本を読まなかったせいで、言語能力がみるみる落ちました。本を読まないと考えなくなり、考えがなければ言葉にすることもないから言語能力が落ちるわけです。結果、国語の成績は2になって、SPIなどの適性検査で「言語能力に問題あり」という結果が出たこともありました。
それでも僕は本を読もうとは思いませんでした。なぜなら、当時の僕は映画監督になりたかったからです。映画監督になるのが僕の夢で、映像の世界で生きていくんだから本を読まなくていい、と開き直っていました。そしてその夢をかなえるべく、高校卒業後は日本映画学校(現・日本映画大学)に入学しました。
本嫌いから一転、年間150~200冊読む
入学早々、僕は壁にぶつかりました。最初の実習がシナリオを書くことだったのです。シナリオというのは作品を作るための指示書で、役者にはセリフを通じてストーリーや役柄を、カメラマンさんや照明さんには撮り方を伝える役割を果たします。しかし、僕にはそれを可能にする言語能力がなかったのです。結果として、僕は課題を提出できませんでした。
シナリオを書けなかったら映画監督になれないのだろうか。この先、一体どうしたらいいのか……。困り果てて先輩に相談したところ、小説を読むことを勧められました。何を読んだらいいのか分からない僕に、先輩は僕が好きそうな大沢在昌先生の『ウォームハート コールドボディ』(角川文庫)を選んでくれました。
交通事故で死んだ男が謎の新薬を投薬されて、痛みを感じない体になって悪と戦う、という少年漫画のようなストーリーで、僕は生まれて初めて本を最後まで読み切れたのです。先輩とこの作品のおかげで、僕は小説って楽しいものなんだ! と開眼することができました。
それから今までの遅れを取り戻すかのように、年間150~200冊というペースで本を読みあさりました。当時は学生でお金がなかったので、できるだけ分厚くてページ数が多いものを選びました。例えば、京極夏彦先生の本など。1冊買うと長持ちしてコスパがいいんですよね。そう思うほど、活字におぼれていたかったのです。
22、23歳から自分で小説を書くように
映画学校卒業後は映画の制作会社に入りましたが、激務な上に薄給で生活が立ちいかなくなり、一般企業に転職しました。人事の仕事で残業も多くありましたが、ちゃんと残業代が出たため生活を立て直せ、貯金もできるようになりました。
ただ、映画学校で学んだことがまったく生かせないのは悔しいやらもったいないやらで、フラストレーションがたまりました。映画を撮るには仲間も大金も必要で、現実的でない。それでも何か表現活動をしたい、と考えを巡らした結果、小説なら一人で書ける、と気が付いたのです。それが22、23歳のときで、日中は会社で仕事をし、家に帰ったら小説を書くという生活が始まりました。
最初に書いていたのは人間ドラマ的な内容で、書き上げたら何かしらの文学賞に応募しました。が、残念ながら、すべて1次選考で落選しました。考えてみれば当たり前のことです。18歳まで本を1冊も読んだことがないヤツが急に本を読み始めて、4、5年たって小説を書いたところで、どうにかなる甘い世界では当然ないからです。
とにかく落選しまくりました。気づいたら30歳が目前に迫ってきて、いつまでもこんなことをしていられないと思い、最後の挑戦のつもりでミステリー小説を書きました。案の定、1次選考で落選しましたが、ここまで頑張った自分をねぎらうつもりで本の形にしたくなり、自費出版することにしました。
要は、記念品が欲しかったのです。ミュージシャンを目指していたらライブをし、役者を目指していたら舞台をすると思いますが、小説の場合、印刷した紙しか残りません。しかも当時僕はワープロで書いていたから、用紙は感熱紙。時間がたてば文字は消えてしまいます。それはあまりにもやるせないと思い、自費出版することにしたわけです。
版元は文芸社さんで、タイトルは『赤い隻眼』、部数は1000部。自費出版本も一般購入できますが、当然のごとくまったく売れませんでした。それでいいと思っていましたが、ある日突然、文芸社の編集部長さんから「お会いしたいから編集部に来てくれませんか」という連絡があったんです。
1000部の自費出版本が累計750万部に
なぜ急に呼ばれたのかというと、当時、文芸社さんから自費出版された山田悠介さんの『リアル鬼ごっこ』が大当たりしたときで、編集部の方々は「第2の山田悠介」をつくろうと画策していたからでした。それで自費出版本の中から商業出版もできそうなものを探し、たまたま僕の本が選ばれた、と。大幅に改稿して、タイトルも『赤い隻眼』から『心霊探偵八雲』に変えて刊行しました。結果は……、やはりまったく売れませんでした。
売れない作家は消えていく運命です。にもかかわらず、なぜ僕は生き残ることができたのか。それはひとえに、書店員さんの力のおかげです。まず、東京の明正堂書店アトレ上野店(現在閉店)が、『心霊探偵八雲』を150冊も入れてくれたのです。1店舗で150冊というのはあり得ない数で、売り場スペースも大きく割いてくれました。
その光景を目の当たりにしたとき、僕は不安にかられ、書店員さんに「こんなことして大丈夫ですか?」と聞きました。書店員さんは平然と「いい本なのに売れない本をいかにして売るか。それが書店員の腕の見せどころです」とおっしゃいました。「あなたの本は面白いから間違いなく売れる。だから安心して書いてください」という励ましの言葉もかけてくださいました。
その後、同じようなことが他の書店でも起きました。旭屋書店の大阪梅田本店(現在閉店)となんばCITY店、紀伊國屋書店の梅田本店の書店員さんは、誰が一番多く『心霊探偵八雲』を売るか、という謎の戦いを始めました(笑)。その結果、書店全体の売り上げランキングでベストテン入りしたんです。無名の作家の本が、です。これまたあり得ないことなんですが、まぎれもなく実際に起きたことです。そして最初1000部だったものが、累計で750万部に。我ながら、この数には震えます。
小説家の中でも、僕はかなり特殊な経験をしているタイプでしょう。あれから20年以上書き続けられているのは、書店員さん一人ひとりが僕を引っ張ってくれて、読んでくれた方々がブログやSNS(交流サイト)で勧めてくれたおかげです。この連鎖があったからこそ今の僕があります。
昨今、出版不況と言われて久しいですが、僕はそんなに悲観していません。確かに、売り上げは落ち込んでいるかもしれませんが、書店員さんの熱、本好きの方の熱は失われていないと思うからです。この熱があれば、僕のような書店発の作家が新たに誕生するかもしれません。そうした存在もまた、本の面白さを物語るものだと思います。
取材・文/茅島奈緒深 写真/尾関裕治


