「私にとって『孫子』を読むこと、そして『孫子ゲーム』を通じて戦略の深淵に触れることは、知的好奇心を満たし、人生の深みを増すための素晴らしい『教養』の体験」と語る、MDロジス執行役員で西濃運輸創業家4代目の田口義展さん。『孫子』は現代の経営者にとっても、常に自分を振り返り続けるための羅針盤として極めて実用的な価値を持っているという。『孫子』を愛読書に挙げる各界のリーダーにその活用法を聞く「ビジネス書として読む『孫子』」第11回後編。

田口義展さん(写真左)と守屋淳さん
田口義展さん(写真左)と守屋淳さん
画像のクリックで拡大表示

勝つことではなく「負けないこと」に執着する

守屋淳・中国古典研究家(以下、守屋) 『孫子』を読み込まれる中で、田口さんが特に深く影響を受け、ご自身のビジネスや経営の指針とされている言葉や一節についてお聞かせください。

田口義展・MDロジス執行役員(以下、田口) 私には、常に意識している大好きな言葉が2つあります。1つ目は、「軍争篇」や関連する章に見られる、「亡国はもってまた存すべからず」という一節です。この言葉は、国が一度滅んでしまえば、二度と再建することはできない、という極めてシビアな警鐘ですが、これをビジネスに置き換えるとき、私は「負けの定義(デッドライン)」をどこに設定するか、という問いとして受け止めています。

 どのようなプロジェクトであれ新規事業であれ、毎日の仕事の中において、「これを超えたら、私たちの事業や組織は致命的な打撃を受ける」という、明確なボーダーラインを意識する必要があると思っています。

守屋 確かに「勝ち方」のノウハウについつい目が行ってしまいますが、「ここを超えたら終わりだ」というデッドラインの設定がまずは重要ですよね。

田口 負けのデッドラインを明確に引いているからこそ、「ここを守るためには、今何を手放すべきなのか」「何を絶対に死守しなければならないのか」という、極めてクリアな戦略的判断ができるようになります。

 『孫子』の素晴らしいところは、勝つことではなく「負けないこと」に執着する点にあります。勝ちにこだわりすぎると力任せの正面衝突になり、勝ったとしても自社もボロボロになる「消耗戦」に陥ります。しかし、「絶対に負けない」という思想から出発すると、自社の消耗を最小限に抑えるために、「相手のリソースをいかに活用させてもらうか」「どうやって競合を味方に巻き込むか」という、建設的で洗練された智謀へと発想がシフトしていくのです。

画像のクリックで拡大表示
田口義展(たぐち・よしひろ)
MDロジス 執行役員 営業統括部 営業開発部長
1987年、アメリカのロサンゼルスで生まれ、岐阜県大垣市で育つ。父は、セイノーホールディングス代表取締役社長の田口義隆氏。15~19歳までイギリスに留学し、学習院大学法学部へ入学。2012年からセブン-イレブン・ジャパンで3年間勤務し、2015年に西濃運輸へ転職。オープンイノベーションを含む各種部署を経由し、新規事業の企画立案などを担当。2017年にラストワンマイル輸送を行うGENie(ジーニー)株式会社の取締役に就任。2019年に代表取締役社長に就任。2023年、セイノーホールディングス ブランド戦略室室長、25年にMDロジス株式会社執行役員に。西濃運輸創業家4代目。

守屋 確かにこれは『孫子』の特徴の一つですね。戦争のような勝負事って勝ちか負けかの二分法になりがちなんですが、「負けなければいい場合もある」という『孫子』の指摘は斬新な発想ですよね。

「戦わずして人の兵を屈する」を高い次元で実践

田口 2つ目は、まさしく「不敗」を守ることを重視した、「よく戦うものは、不敗の地に立ち、しかして敵の敗を失わざるなり(戦上手は、自軍を絶対不敗の態勢におき、しかも敵の隙はのがさずとらえる)」(軍形篇)です。私は特にこの「不敗の地に立つ」という言葉を反芻(はんすう)しています。自分たちの特性や強みを徹底的に理解した上で、競合が攻め込んでくることができない安全な位置をまず確保する。そして、相手がミスをしたり、崩れたりする機会をじっと見極める、という戦略思想です。

 ビジネスにおいて、私たちはしばしばその領域において圧倒的な資本力を持つ「大手企業」や「競合」とバッティングすることがあります。その際、同じレイヤー、例えば「アセット」の大きさで真っ向勝負を挑めば、こちらは討ち死にしてしまいます。

 しかし、少しレイヤーを変えて、「私たちの戦う土俵は、アセットの規模ではありません。高度な輸送計画を設計し、確実に実行するノウハウです」という不敗のポジションに身を置く。そうすれば、大手資本と直接戦う必要はなくなります。それどころか、「大手企業が持っている巨大なアセットを活用させていただき、我々がお客様の最適な物流を設計・管理する」という、相手を取り込んで勝つ仕組み(不敗の地)を作ることができるのです。

守屋 自社が持っている強みの本質を見極め、戦う土俵そのものを変えてしまう。まさに『孫子』の「戦わずして人の兵を屈する」を高い次元で実践されているのですね。経営において、『孫子』の思想が具体的に役立った例があれば教えてください。

『孫子』の思想が日々のマネジメントにどのように生かされているか、を問う守屋さん
『孫子』の思想が日々のマネジメントにどのように生かされているか、を問う守屋さん
画像のクリックで拡大表示

田口 実は、ビジネスにおける華々しい成功に『孫子』を適用するというよりも、私は日々の自分の行動や心の状態をコントロールするための自戒として活用することが非常に多いのです。

 私は現在、MDロジスの執行役員という立場をいただいています。役員としての結果を出し、組織を引っ張っていかなければならないという強烈なプレッシャーを常に感じています。そのような重圧の中に身を置いていると、自分でも気づかないうちに、『孫子』が説く「五危(将軍が陥りやすい5つの致命的な弱点)」の感情が心の中に鎌首をもたげてくるのを感じるのです。

守屋 『九地篇』に登場する「五危(ごき)」ですね。
将に五危あり。
一、必死は殺さるべきなり。
二、必生(ひつせい)は虜(とりこ)にさるべきなり。
三、忿速(ふんそく)は侮(あなど)らるべきなり。
四、廉潔(れんけつ)は辱しめらるべきなり。
五、愛民は煩(わずらわ)さるべきなり。

(将帥には、陥りやすい5つの危険がある。
1.いたずらに必死になれば、討死にとげるのがおちだ。
2.助かろうとあがけば、捕虜になるのがおちだ。
3.短気で怒りっぽければ、敵の術中にはまってしまう。
4.清廉潔白では、敵の挑発にのってしまう。
5.民衆への思いやりを持ちすぎると、神経が参ってしまう)

田口 はい。私自身も気を抜くと、実績を上げて周囲に認められたい、結果を出したいと思い、知らず知らずのうちに死に物狂いで突き進む「必死」に陥って、引くべきタイミングを見失いそうになったり、今のポジションや立場を守らなければならないという「必生」にとらわれそうな感覚になったりします。

 私の場合、最も出やすいのが「忿速(怒りっぽく、焦ること)」という弱点だと思っています。

守屋 プレッシャーがかかる現場では、自分の思い通りに物事が進まなかったり、トラブルが起きたりしたとき、ついつい焦りや怒りの感情が湧き出てしまいますよね。

田口 そうなんです。物事が停滞したときに、焦りから来る「忿速」の感情が湧き上がってくるのを感じます。

 しかし、そのときに『孫子』の「五危」という客観的なフレームワークを自分の心の中に持っていると、いったん立ち止まり、「待てよ。今の自分のこの判断は、焦り(忿速)から来ているものではないか」「自分自身のプライドにこだわって(廉潔)、無理な決断を下そうとしていないか」と、自分自身を高い視点から客観視(セルフモニタリング)することができるのです。

守屋 自分の感情に流されるままになるのではなく、古典という「2500年の風雪に耐えた鏡」に自分を照らし合わせることで、軌道修正ができる。

田口 はい。あの一瞬の焦りによる指示や、メンバーに対する言い回しは「忿速」が出ていたのではないか、と後々振り返り、自戒します。そして次の日に同じようなシチュエーションが訪れた際には、意識的に呼吸を整えて落ち着いて対応する。この繰り返しです。

 面白いことに、自分の「忿速」が少しずつコントロールできるようになってきたな、と感じると、今度は「廉潔(プライドを重視しすぎる)」や「愛民(部下に配慮しすぎて決断が鈍る)」といった、別の弱点が顔を出してくるのを感じるのです(笑)。

守屋 まさに、自分自身の成長ステージや状況に応じて、自分の弱点が形を変えて表れてくるのですね。

田口 はい。だからこそ、「五危」というチェックリストを常に自分のかたわらに置き、今の自分はどの感情にとらわれているのか、と常に自分を振り返り続けるための羅針盤として、『孫子』は現代の経営者にとっても極めて実用的な価値を持っていると感じています。

「『孫子』を読むことは、まさに人生の暇と退屈を退け、知的好奇心を満たし、人生の深みを増すための素晴らしい『教養』の体験になっています」と語る田口さん
「『孫子』を読むことは、まさに人生の暇と退屈を退け、知的好奇心を満たし、人生の深みを増すための素晴らしい『教養』の体験になっています」と語る田口さん
画像のクリックで拡大表示

人生の深みを増すための素晴らしい「教養」の体験

守屋 最後に、田口さんの『孫子』以外の愛読書について教えてください。

田口 私は本を読むのが得意ではないのですが、カバンに入れている本に、國分功一郎先生の『 暇と退屈の倫理学 』(新潮文庫)があります。この本は、近代社会において人間が「退屈」とどう向き合ってきたか、そして「豊かな人生を生きるとはどういうことか」を深く考察している名著です。本書の中で、人は「教養(文化的な楽しみや深く考えること)」を深めることによって、物事をただ享受するだけでなく、深く味わい、人生をより豊かなものへと変えていくことができる、と説かれています。

 私にとって『孫子』を読むこと、そして「孫子ゲーム」を通じて戦略の深淵に触れることは、まさに人生の暇と退屈を退け、知的好奇心を満たし、人生の深みを増すための素晴らしい「教養」の体験になっています。

守屋 ありがとうございました。

写真/尾関祐治

孫子本ブームの火付け役となった“赤本”

読者が自らのビジネスや生き方に実践していくために、『孫子』がそもそも何を問題とし、何を解決しようとしたのか、前提条件がまったく違う現代でも本当に役立つのかという観点から、分かりやすく解説。ビジネスだけでなく、スポーツや人生のさまざまなシーンで活用できる「負けないための戦略」を数多く紹介しています。

守屋淳著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)