大学進学を機に上京した豊田剛さんは、三重弁が通じないことに戸惑い、図書館通いをきっかけに読書習慣を身に付けました。出版社への就職後も転職を重ねるなかで、「自分は会社組織にはなじめない」と感じるようになります。「探訪! ひとり出版社」土曜社編の第1回は、1人で土曜社を立ち上げ、1冊目に大杉栄の『日本脱出記』を刊行するまでの経緯を聞きました。

方言コンプレックスから始まった読書生活と会社員時代
豊田さんは、土曜社を立ち上げるまでにどんな経験をしてきたのでしょう。
三重県出身なのですが、18歳で東京の大学に進学して、まず言葉の違いに直面しました。たとえば、三重のなまりで「本屋」と言っても、東京の人には「こんや」と聞こえるらしい。いろいろ単語が通じない経験を繰り返すうちに、陽気な三重県人から寡黙な都会人になってしまいました。
大学生活では、同級生と過ごすより一人で図書館にいるほうが気楽でした。放課後も夜まで大学図書館で新聞を読んだり、映画を見たり、ジャズを聴いたりしながら、NDC(日本十進分類法)の「000・総記」から順に本を見ていきました。会食やデートも好きでしたが、図書館がいちばん好きでした。綱島の古本屋「湘南堂書店」、大森の「レコファン」、学芸大学「ハイサウンズ・レコード」、渋谷「ツタヤ」と「ブックファースト」など、書店やレコード店でアルバイトもしました。
就職活動も、出版・新聞・レコード会社を中心に回りました。ただ、面接用に髪を短く切るのが嫌で、リクルートスーツを買うのもプロフィール写真を撮るのも先延ばしにしているうちに多くの会社の採用期間が終わっていました。要領を得ない学生でしたが、卒業間際に慶應義塾大学出版会に採用していただきました。
慶應義塾大学出版会では、どのような仕事をされたのですか?
編集者になって本を作りたかったのですが、その思いを秘めたまま営業になりました。同期は3人で、うち1人は「編集じゃなければ辞めます」と意思表示をして編集部に配属されました。私は希望を言い出すことすらできず、結局3年ほど営業をしました。当時は、専務の田谷良一さんに「豊田さんは明日から編集」と告げられる夢まで見ましたね。
営業として取次・書店・図書館を歩きまわって、業界の先輩からも「慶應の豊田さん」と接していただくうちに、スーツにネクタイ、革靴という格好が窮屈に感じてきました。今思えば恥ずかしいのですが、新卒で買った安物のジャケットの袖をまくって、黒のコンバースのスニーカーを履いて着崩したりしていたんです。その姿を社長の坂上弘さんが見て、「このままでは会社に置いておけない」とお𠮟りを受けました。今思うと、服装なんてすぐに改めれば済んだのですが、中途半端な仕事をしていた自分を恥じる気持ちもあって、一晩考えて退職願を出しました。現社長の大野友寛さんは、今でも「豊田さんはバカです」と笑ってくれます。
退職後は飲食店を始めるつもりで、半年ほど開業を模索しましたが、結局、ブルース・インターアクションズ(のちにスペースシャワーグループへ統合)に再就職しました。ブラックミュージックを中心に、レコード・書籍・雑誌を手がける会社でした。
転職して、編集者になれたのですか?
ブルース・インターアクションズは、『グルーヴィー・ブック・リヴュー』という人気の書評本シリーズを出していて、「こんな本をつくる会社で働きたい」と熱意を手紙にして何通も送りました。前職で営業経験があるとはいえ、中途半端だったので、職種は選べませんでした。入社後は電話応対や備品管理、お茶くみなど社内業務全般を担う「デスク」と呼ばれる下積みの立場でした。月収は新卒時の20万円にも満たず、残業代もなかったけれど、服装は自由だし、分厚い学術書から音楽・映画・旅行に分野も変わり、のびのびと働けました。
デスクから営業に出世して、今度こそはという思いで営業の仕事をしました。出版部門は、十数人の編集者に対して営業は私一人でした。営業が1人でも出版社は成り立つことを実感しました。3年ほどして、創業者でオーナーである日暮泰文さんが会社を売却して引退するタイミングで退職しました。
豊田さんのプロフィールを拝見すると、土曜社を立ち上げる前に三井生命保険(現・大樹生命保険)で働かれていますね。
とにかく稼ぎたかったんです。稼ぐなら金融業だと思って、他業界から大量採用していた三井生命保険に入社しました。ちょうどリーマンショックの頃です。3カ月の研修を受けて、ファイナンシャルアドバイザーとして保険・投資信託を販売したのですが、まったく売れませんでした。前職で目をかけてくれていた日暮さんが見かねて、「ノルマがあるんだろ、商品を買おうか」と言ってくれたのですが、そんな厚意に甘えることもできないまま、2年ほどで退職しました。この間に、日暮さんのレコード会社創業から会社売却までの経験を書いた『のめりこみ音楽起業』(同友館)で、初めて編集を担当させてもらいました。
その頃、30歳になり、気力・体力は充実し、交際範囲も広がっていました。先輩の仕事を手伝ったり、仲間と遊びまわったりしているうちに、フィルムアート社の編集者で、ヒット作を連発しながらも上司と折り合いが悪くなっていた影山裕樹君と2人で出版社をやろうという話になりました。

編集者不在で始めたひとり出版社
「土曜社」の名前の由来を教えてください。
そもそもは、フィルムアート社を辞めるつもりの影山君が編集を担当して、保険会社で行き詰まっていた私が営業担当として、2人で出版社を始めるという計画でした。影山君は老舗の出版社で経験を積み、書き手とのつながりもある。新しい企画を何本も抱えていました。ここで、なぜ新しい出版社を立ち上げるのか、著者にも読者にも分かるコンセプトを宣言しようと提案してくれたんです。でも私は、自分の仕事や出版社をつくる動機に自信がなくて、まっさらな状態でとにかく走り出したかった。屋号と名刺だけを準備して、創業記念パーティーを開くところまで2人だったのですが、その後、影山君とは別々になり、1人になっちゃいました。社名もなかなか決まらなくて、たまたま土曜日に考えたので「土曜社」なんです。その後、影山君も独立して、「千十一編集室」として活動しています。
編集者がいない状態で、ひとり出版社を始めたのですね。
パーティーで創業をお披露目したけれど、売る商品は一冊もありませんでした。編集者もいないし、執筆を依頼できる書き手とのつながりもない。それで、古い書物の復刊から始めることにしたんです。
土曜社が最初に刊行したのが、『日本脱出記』(大杉栄著、大杉豊解説)です。なぜ、大杉栄だったのでしょうか。
「思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらにはまた動機にも自由あれ」という大杉栄の自由さに惹かれていました。岩波文庫の『自叙伝・日本脱出記』はすでに多くの人に読まれていましたが、1971年初版で品切れになっていました。それで、大杉栄の甥である大杉豊さんに校注を依頼し、その後の研究も踏まえた新版として世に出せば、復刊の意味もあるし、パリ×冒険旅行記として打ち出せば、若い読者もいると考えました。
おかげさまで、土曜社版『日本脱出記』は1万部ほど売れています。同業の「景文館書店」の荻野直人君とよく話すのですが、ひとり出版にかぎらず、ものごとは第一弾で決まるのかもしれません。最初の本が売れなかったら、もしくは逆に売れ過ぎてしまっても、違う展開になっていたと思います。

レイアウトやデザインは、どのように進めたのですか?
弟が内装設計の仕事をしていて、装丁と挿絵と組版を担当してくれました。大正・昭和の古書には日本画家や建築家が本の装丁を手がけている例があって、その感覚がいいなと思って、畑ちがいの設計士の弟に頼んだんです。もちろん、1万部も売れるとは思っていませんでした。いま振り返ると、各地の書店が駆け出しの出版社の本を5冊・10冊と発注してくれて、最初から応援してくださったことに感謝しています。
1冊目が大杉栄ということで、土曜社は社会に強く訴えかけたい出版社と見る人もいそうです。豊田さんご自身は、出版を通して社会を変えたいという思いがあるのでしょうか。
もちろん、あえて口にしないだけで、自分なりの思いはあります。ただ、それは声高に叫ぶべきことでもないし、うまく言葉にもできません。だからこそ、逆立ちしても自分には書けるはずのない良質な書物を、せめて出版したいのかもしれません。
行ったこともない遠い町の書店で、土曜社の本が置かれていて誰かの手に渡っていく。その積み重ねで、土曜社の本も少しずつ読まれているようで、初対面の方から「土曜社の本、知っていますよ」と声をかけてもらうことも何度かありました。京都の一人暮らしの小さなアパートで梱包・出荷した本が、知らない町の知らない誰かに読まれているという不思議でうれしい感覚を、忘れないようにしたいです。
取材・文/石川歩 構成/市川史樹(日経BOOKプラス) 写真/鈴木愛子