『菊と刀』は、敗戦直後に米国人の文化人類学者ルース・ベネディクトが、既存文献や文化資料、米国にいる日本人への聞き取りなどを基に、一度も来日せぬまま執筆した日本文化論。「義理と人情」「恥の文化と罪の文化」をはじめ、その後の日本人論の源流となった。戦後70数年が過ぎ、日本人の行動様式は何が変わり、何が変わっていないのか。
義理による貸借関係
「義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ 義理が重たい 男の世界…」。高倉健が切々と歌う『唐獅子牡丹(ぼたん)』(作詞:水城一狼、矢野亮/作曲:水城一狼)。1965年(昭和40年)に公開されたヤクザ映画『昭和残俠(ざんきょう)伝』の主題歌である。哀愁を帯びたこの歌い出しは耳なじみ、ふと口ずさむ昭和の名曲である。「死んでもらいます」の名せりふと共に健さんの名を不滅のものにした。
ルース・ベネディクトの『 菊と刀 日本文化の型 』(THE CHRYSANTHEMUM AND THE SWORD/長谷川松治訳/講談社学術文庫)の訳書が刊行されたのは、48年(昭和23年)と敗戦直後。日本文化論の定番になり、「罪の文化」と「恥の文化」は読んだつもりになれるマジックワードとなった。内面的な罪の自覚に基づく欧米流の「罪の文化」に対して、日本の「恥の文化」は他人の批評を物差しにする――確かに本書はそう言っている。
だが面白いのはそこに至る筋立てである。「義理ほどつらいものはない」。健さんのせりふではない。これは第7章のタイトルである。続く第8章は義理を果たすための行動である「汚名をすすぐ」。第9章では義理と対立する「人情の世界」にメスが入れられる。そして「徳のジレンマ」が第10章の主題となる。主軸が義理と人情の分析なのだ。
主君や雇い主から受けた恩恵は、受けた分だけ返さなければならない。「義理を返す」または「義理を果たす」ことが社会生活の基本である。一見、情緒的と思われる義理の世界に、本書は米国社会における借金の返済という補助線を引く。そこが膝を打つところだ。
米国社会の場合、銀行からの借入金が返済できなければ、「破産が支払い不能に対する刑罰」となる。それは「たいへんきびしい刑罰」である。日本人はある人が義理を返すことができない場合には、「その人は破産したとみなす」。「義理を知らぬ人間」は「見下げ果てた人間」とされる。「彼は仲間からさげすまれ、つまはじきにされる」。
しかも悩ましいことに、「人生におけるあらゆる接触が、必ずなんらかの『義理』を招来する」。つまり社会生活というものは、取りも直さず義理の貸借関係が絡み合うものなのだ。『 草枕 』(夏目漱石著/新潮文庫)の冒頭でも言っているではないか。「とかくに人の世は住みにくい」と。
生き生きとした「人情」の描写
こうした「義理」の世界だけでは息詰まってしまう。でも日本にはもう一つ別の「人情」の世界がある。文化人類学者であるベネディクトは庶民の生活の場も見逃さない。温浴、稽古(けいこ)事の鍛錬、睡眠、食事、恋愛…その描写は一つひとつ生き生きしている。
例えば入浴。どんな貧しい農民でも、毎日夕方に熱く沸かした湯に漬かることを日課にしている。湯に漬かって温かさとくつろぎの楽しみに身を委ねる。他の国々にない「一種の受動的な耽溺(たんでき)の芸術」とまでベネディクトは言う。「水泳プールのような大きな公衆浴場」つまり銭湯で、たまたま居合わせた人と「交歓することができる」。
食事はどうか。日本人は(1)後から後からいくらでも料理の出てくる食事を楽しむ。その際、一度に出される料理は(2)ほんのティー・スプーン1杯ぐらいのわずかな分量であって、料理は風味だけでなく、(3)外観の点からも賞玩される――。(1)(2)(3)は会席料理などの顕著な特徴だ。今も、温泉の魅力と相まってインバウンド観光客を引き寄せている。
日本の人情は意外に魅力的な普遍性を備えているのかもしれない。もう一つ興味深いのは、同性愛を「伝統的な『人情』の一部分」であり、「武士や僧侶のような、高位の人びとの公認の楽しみ」と述べている点だ。明治以降にそれを、「西洋人の意を迎えようとして…処罰すべきものと定めた」というのだ。
ともあれ日本では「可能な肉の快楽を楽しむことは罪ではない」。罰の文化の大元には原罪の神学があるのに対して、日本では「人間堕落の教えを説かない。『人情』は非難してはならない天与の祝福である」。ただしそうした「人情」も「義理」にぶつかる場合には、道を譲らなければならない。徳のジレンマだ。
そして「義理」の世界も、国家や法律に対する義務である「忠」には従わなければならない。主君の敵を討とうとすれば、国法を破ってしまう。そんなジレンマの典型として、『忠臣蔵』がある。あだ討ちを果たし、その後で四十七士が切腹することで、ジレンマは清算される。「死によるジレンマ清算」というわけだが、それは日本文化に特徴的なのだろうか。
この部分は正直言って、欧米にも死による清算はないのかというモヤモヤが残る。忠臣蔵に題材を取った米国映画『47RONIN』(2013年)で、キアヌ・リーブス演じる主人公は切腹したりしないが、それはこの映画が制作されたのが現代であり、しかもファンタジー・アドベンチャー映画だからこそだろう。
一方、北野武・監督、ビートたけし主演のヤクザ映画『アウトレイジ 最終章』(2017年)は現代の『忠臣蔵』である。クライマックスは相手方の暴力団への討ち入りだし、敵討ちを果たしたたけしのピストル自殺は切腹そのものである。
むしろ本書で得心がいくのは、ジレンマに直面した際に私利を追求せずに「誠実」に対処することが求められる、という指摘だ。「まこと」や「まごころ」こそは、日本の倫理規範の基本になっている。その基本を踏み外しては、社会生活を送れない。
ならば、まことやまごころとは何か。まず(1)利潤を追求する行動は、非常に悪いことと考えられ、忌み嫌われる。次に(2)感情に走ってはならない。そして(3)まことのある人のみが、人の頭に立てる――。この辺の指摘は経営者や官僚、政治家が肝に銘じている点だろう。
「自重」を促すのは世間の目
むろん様々な要素を見極めながら誠実に振る舞うためには、慎重な判断力つまり「自重」が求められる。「他人の行動の中に看取されるあらゆる暗示に油断なく心を配ること、および他人が自分の行動を批判するということを強く意識すること」が自重の内容である。
この自重を促すものは「世間」である。世間の目を意識して行動することこそが、「恥の文化」にほかならない。恥の文化には内面の基準がないと指摘され、戦後の知識人は深く恥じ入った。「まさにわれわれのみにくい姿を赤裸々にさらすものであって、われわれに深い反省を迫ってやまない」。法社会学者の川島武宜(1909~92年)による本書の解説にもそんな恥じ入る感じが漂う。
だが恥を知ることと、内面の基準を持つことは、水と油の関係ではあるまい。刑事ドラマの主役たちが持つのは、その両面を兼ね備えた日本の社会人の理想形だろう。例えば内藤剛志が演じる人気刑事ドラマに『警視庁強行犯係 樋口顕』(テレビ東京)がある。ある回のタイトルに「廉恥」とあるように、恥を知ることはしっかりした職業意識や凜(りん)とした姿勢にも通じると信じているのではないか。
恥の文化の最大の問題は、世間の目が硬直化し、行動の自由を縛ってしまうことだろう。コロナ禍で問題になった同調圧力。そこにもこの世間の目が見て取れる。同調圧力は日本以外の世界にも存在するとはいえ、従業員にコロナ感染者が出ると、会社に謝罪会見を求めるような雰囲気は、日本社会の病理であると思える。
ひたすら謝罪を求める不寛容さが、世間そのものを窮屈にしてはいないだろうか。「恥の文化」を克服したと思い込んでいる人たちこそ、本書を改めてひもといてみる価値がある。

