作家・朝井リョウ氏の15周年記念作『イン・ザ・メガチャーチ』。ファンダム経済を舞台に、3つの視点が紡ぐその「物語」とは。出版を記念して、本作の執筆のきっかけやキーワード、ご自身の小説に対する思いを朝井さんに語っていただきました。

『イン・ザ・メガチャーチ』はファンダム経済を舞台としています。熱烈なファンのコミュニティを意味する「ファンダム」を朝井さんはどのように考えていますか。

 私自身、サバイバルオーディション番組やアイドルに関する情報をよく見るのですが、一体自分は何に興味を惹かれているんだろうと考えたとき、出役の方々よりもむしろファンダム、つまり高まる熱量とともに行動力を発揮する人間の在り方のほうに関心があるんだと気付きました。オーディションに合格するメンバーを視聴者投票で決める形式の番組って、構造としてはかなり選挙に似ているんですね。投票の呼びかけはもちろん熱心に行われますし、とある番組の最終局面では「この人に投票してくれれば私のこのスキルを提供します」といった、現実の選挙だったら危うい呼びかけも見られました。

 そして、選挙に似ているということは、自然と戦争とも共通点が出てくるんです。視聴者投票形式のオーディション番組の最終局面では、有力な候補者のファンダム同士が同盟を組むといった現象がよく見られます。有力な共同体同士の同盟って、世界史で学んできたことそのものだなと思うんです。人間の集団が高まる熱量とともに“行動”に移る姿、そこに現れる時代を超えた重なりに私は魅せられているんだと思いますし、そこに今回の小説の種があると思います。

朝井リョウ(あさい・りょう)
朝井リョウ(あさい・りょう)
1989年、岐阜県生まれ。 2009年、『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞してデビュー。『何者』で直木賞、『世界地図の下書き』で坪田譲治文学賞、『正欲』で柴田錬三郎賞を受賞。他の著作に『スター』『そして誰もゆとらなくなった』『生殖記』など多数(撮影:川口宗道)

 質問に戻ると、ファンダムという存在に対しまず私が思い浮かべるのは、行動力です。私自身、特にコロナ禍をきっかけにリモートワークや配信環境が整えられたことで、実際に身体を動かすことへのハードルが高くなったと感じています。また、実質賃金が据え置かれたまま物価が上昇し続ける状態が続いていることで、一般的に金銭的な余裕も少なくなっている状況です。そんな中、今もあらゆるファンダムから、類まれなる行動力と惜しみない支出を感じます。今の時代に人を行動に移させるものは何なのか、考えながら書いていきました。
 個人的に、そのキーワードのひとつが“視野”なのかなと思っていて、今作には“視野”という言葉がたくさん出てきます。


視野を広げる、視野を狭める…『イン・ザ・メガチャーチ』では、登場人物たちが「視野」を巡っていくつもの思考を繰り広げます。

 私自身、おそらく小説家という職業も影響していると思うのですが、昔からよく「視野を広く持ちなさい」と言われてきたような気がするし、自らそう意識している部分もあります。でも最近よく思うのは、視野を拡大し続け、世界の全体像をしっかり把握しようとすればするほど、思い切った行動に出ることは難しくなる、ということです。

 今作は、ファンダムを構築・操縦する側、のめり込む側、かつてのめり込んでいた側、この3つの視点で書いています。それぞれ、そもそもの視野の構え方が違うし、変遷の経緯も異なります。どの人物に共感するのか、はたまた異を唱えたくなるのか、読者の方々には感想を教えていただきたいです。

『イン・ザ・メガチャーチ』(朝井リョウ著)
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本書には「神がいないこの国で人を操るには、“物語”を使うのが一番いいんですよ」という、ドキッとする一文があります。「物語」の作者である朝井さんは、その物語の器である「小説」にどんな思いを持っていますか。

 小説って本当にいろんな種類がありますよね。小説というものを通して社会や他者を本人の思うポジティブな方向に導きたいという書き手もいれば、自分自身の要素は投影せず様々な種類の独立したフィクションを作り上げ続けたいという書き手もいる。みんな作家、小説家と呼ばれていますが、私はどの立場に近いんだろうといつも思います。それによって、小説や物語に対する思いも大きく変わってくると思うので。

 ただひとつ言えるのは、特に今作がそうなのですが、私は小説を「この時代の香りを瓶詰めにして残しておきたい」と思いながら書いていることが多いということ。小説を書きたいというより、標本を作りたい、という思いが強いのかもしれません。大義名分はもちろん、本当は理由や目的もないのかもしれない。そして標本を作る以上、ある立場の人が報われる、救われる、という展開にあまり心が躍らないんです。それじゃ標本にならないでしょう、という謎の声が聞こえてきてしまう。現時点の私は、小説を書くときは、人間としての自分が持っている倫理を一度取り外したい気持ちがあります。そのためには現実が平和でなければならないのですが、人としてどう生きるかと、小説家としてどう生きるかが、私はけっこう乖離してしまっているんです。

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文/桂星子(日本経済新聞 文化グループ兼日経BP 日経BOOKSユニット第1編集部)