本には「いい読み方」があるのだろうか。 『本とは何か』 (新潮新書)の著者で美学者の難波優輝さんは、本を読むとは本でパフォーマンスをすることだという。小説や実用書、楽譜、レシピなど、異なるジャンルの本を手がかりに、読書パフォーマンスをどう評価するのか、「いい読書」とは何かについて聞いた。
第1回 では、読書のパフォーマンスを音楽演奏にたとえて説明いただきました。とはいえ、楽器は自分で演奏しながら「今日は割といい音が出せたな」とか、「スムーズに弾けたな」と分かりますが、読書の場合、パフォーマンスを発揮できたかどうか自分ではつかみにくいように思います。
その通りだと思います。読書のパフォーマンスをどう評価すべきなのかについては、実は結構悩んでいます。自分の場合はちょっと研究寄りになってしまいますが、作者が伝えたかった以上の意味を、作品自体が語りだす瞬間に出会うことがあるのが好きですね。
例えば、村上春樹の『 夏帆─The Tale of KAHO─ 』(新潮社)を読んで、今回もいい作品だなと思ったのですが、自分は村上春樹の作品は、村上春樹という人間がすべてをコントロールしているとは思えないんです。自分は村上春樹は「メタファー(隠喩)星人」に操られていて、どこからか飛来してきたメタファーを書いていると、勝手に変な説を主張しています(笑)。
今回はどんなメタファー星人に指示を出されたのかしら、とか思いながら読んでいる。そういう読み方をしていると、これは以前の村上春樹作品の、あのメタファー星人からの指令に似ているなとか、今回は結構違うアレンジが入ってきたなとか、物語だけではない味わいが出てくる。
そんなふうに、村上春樹という存在が表現してしまう何かをキャッチできたなと思うときは、自分は「いい小説の読み方」ができたなと思います。
美学者
本の「いい読み方」ができたなと思うことは、ほかの人にもあると思います。例えば、『夏帆─The Tale of KAHO─』には、母親との関係が表れるわけですが、それを読んだ人が、自分のお母さんとの関係を考えて、ちょっと電話してみようかなと思った。それも、「いい読書パフォーマンス」かもしれない。本を読むことで人生が豊かになったら、それはもういいパフォーマンスって言っていいんじゃないかと思います。
研究者として読むなら研究者としていい読み方ができればいいし、生活者として読むのであれば生活者としていい読み方ができたらいいなと。音楽のように、明確にパフォーマンスそれ自体を評価されるのは、本の場合は批評家ぐらいしかないので、そこは自由でいいのかなと思います。
本書『本とは何か』では、楽譜を見て自分なりの解釈や技術でパフォーマンスすることと、レシピを見て料理することの共通性を指摘されています。楽譜とレシピに共通性を見いだされたのはなぜですか。
単純に、音楽好きで料理も好きということがありますが、それ以上に、楽譜にせよレシピにせよ、それだけでは伝えきれないものがあるわけです。例えば、ラヴェルの曲にピアノやフォルテの強弱記号はあっても、どのくらいの音量かは書いていない、強くと言っても相対的なものです。
ピアノは柔らかくという意味でのピアノかもしれないし、あるいは硬くという意味のフォルテかもしれない。あまりにも、伝えられないものが多いですよね。レシピもそうで、使う鍋の素材もコンロも違う。どちらも、ここから先は委ねるほかないみたいなある種の諦めがある。伝わるかどうか分からないけれど、こういう音楽とか、こういう料理のイメージはあるので作ってみて、みたいな感じでしょうか。
ラヴェルは頭の中に響いていた音楽を書き留めたわけですが、響いていた音楽すら1つのパフォーマンスであり、書き留めることで可能性が広がる。違う音楽演奏によって違う曲が出現し、それぞれ違う人が作ることによって違うしょうが焼きができるようなものでしょうか。書き留められた情報が完全には伝わらないからこそ、毎回のパフォーマンスが豊かに出現する。楽譜もレシピも、作者の意図とパフォーマンスをつなぐ「蝶番(ちょうつがい)」になっている感じが、いとおしいなと思います。
あらゆる小説や人文書も、楽譜やレシピと一緒で、蝶番でしかないし、蝶番だからこそ、魅力的なのだと思ったりしますね。
楽譜の面白さを知る本としておすすめしたいのが、『楽譜でわかる20世紀音楽』(久保田慶一、白石美雪、井上郷子、森垣桂一ほか著、アルテスパブリッシング)です。音楽記号を変形したり五線譜を超えたり、我々がイメージしていない楽譜がどんどん開発されたり実験されたりしたのが、20世紀です。その楽譜の遊びようが面白くて、音符が読めない方でもヘンテコな楽譜のビジョンというか、図像としての豊かさが味わえる本です。むしろ、音楽がちょっと苦手という人ほど、お薦めです。

楽譜やレシピも小説も、読み方を読者に委ねるほかないのに対し、マンガ作品は、「読者の読書パフォーマンスを強くナビゲートできる」としていますね。
マンガは絵と吹き出しを組み合わせた表現で、声の強さや誰が思考しているのかを区別したり、コマで読む順序をコントロールしたりして、読者がどのように読むのかをかなり規定することができますよね。そうしたマンガのインストラクションの強さには、自分には少し距離を感じるところがあります。そこに自分のパフォーマンスが必要なのかなと感じてしまうのです。
ビデオゲームも、ゲームの中で魔王を倒したとしても、自分がプレイする必要があったのかなと思ってしまう。今、マンガやビデオゲームの時代でもあるなかで、インストラクションをされることの快楽を自分はつかめていないところがありますね。
ハウツー本は従来の“読書”のくくりでは、軽んじられがちでしたが、変身の予感を楽しむためのメディアだと考察していますね。
そう考えた起源は学生時代の参考書です。自分は数学が苦手だったのですが、これを買えば数学の問題を解く力がつくかなと思いながら、あれこれ数学の参考書を買っていました。学生時代に参考書という、ある種の自己啓発の入り口に触れたことから始まり、大人になっても同じ構造が続くわけです。
苦手なジャンルほど楽にクリアしたいから、できるようになる自分への期待を込めて、メモを管理すればいいのかな、時間管理にこだわればいいのかな、部下への語りかけはどうすればいいのかなと、ハウツー本を読んでいく。もちろんなんの役にも立たないというわけではないのですが、参考書と一緒で結局は、どれだけ日常で訓練できるか、問題を解いて答え合わせができるか、なのですが、そこまでできないから、次のメモ術、次の時間管理術の本を買ってしまう。
ハウツー本の楽しみは、これを読んで自己が変身する可能性を楽しむパフォーマンスなのです。自己啓発本っておっちょこちょいな人類の切なさというか、悲劇でもあり喜劇でもあって、我々人類の良さが詰まっているなと思ったりしますね。
選手名鑑や辞典を読むことにもパフォーマンスはあるのでしょうか。
あると思います。選手名鑑とか図鑑っていいなあと思っていて。自分の場合は、小さい頃は電車が好きだったし、今なら哲学辞典や美術史辞典は好きです。今回の本では取り上げていないのですが、辞典を読むのはどういうパフォーマンスなんだろうと考えますね。一つは、こんなにも知らないものがあるのだ、新大陸がまだまだあるんだと思える。自分が知らないものがたくさん存在していることをまざまざと感じられることがうれしいのかなと思います。もしかしたら、選手名鑑とかなら全部暗記している人がいるかもしれないですね。それはそれで、この世界を掌握したみたいな喜びもあるのかなと思います。
尊敬する友人でもある美学者の銭清弘さんに『 芸術をカテゴライズすることについて 批評とジャンルの哲学 』(慶應義塾大学出版会)という研究書があります。いいパフォーマンスって何だろう、いい作品って何だろう、ジャンルとカテゴリという概念からいい悪いを決めていけるのだろうかということを論じている本。難しくはあるのですが面白いし、いろんな表現をする人や本を読むのが好きな人が、自分のパフォーマンスについて考えるときにすごく役立つと思います。
取材・文/中城邦子 構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/稲垣純也



