「何か変だ、パソコンにログインできない」。突然襲い掛かってきたランサムウエア(身代金要求型ウイルス)によるサイバー攻撃。犯人たちとの交渉を試みるマシュー。いったんはうまくいくかに見えた……。ランサムウエア犯罪集団に立ち向かうはみ出し者たちの活躍を描いたノンフィクション『 ランサムウエア追跡チーム 』から抜粋・編集して掲載する。その第1回。

 豊かさの中に貧しさが見え隠れする、ロンドンの中心街。そこには公費で運営される、とある小さな学校があり、パキスタンやインド、東欧から移民してきた家族が子供たちを通わせ、希望を託している。5歳から10歳までおよそ150人の生徒が通うこの学校は、100年以上前に建てられたビクトリア朝様式の建物で、レンガ造りの正面と高いアーチ型の窓が特徴だ。教会の横には質素な運動場がある。

 保護者の多くは生活保護、あるいは失業手当を受けており、学校から支給される無料の昼食と午前中のおやつが、子供たちが1日で口にする唯一の食事ということも多い。2020年に新型コロナウイルスが大流行し、瞬く間に多くの感染者が公営住宅や集合住宅(生徒の家族4人が1部屋で寝ているような場所だ)で発生する事態になっても、学校が閉じられることはなく、マスクをした教師が椅子の配置を変えて、できるだけソーシャルディスタンスを保ちながら授業が続けられた。

 わずかな予算と老朽化した建物で、学校は子供たちにしっかりとした教育を施し、彼らが英国の生活や文化になじめるよう手助けしている。教師たちは彼らが鉛筆の持ち方、絵の描き方、自分の名前の書き方などを学ぶ様子を写真に撮り、その成長を記録している。その写真はサーバーにアップロードされる。サーバーとは高性能なコンピュータで、データを処理し、さまざまなサービスを提供する。教師たちは生徒一人ひとりを少なくとも週2回以上撮影しており、このシステムが数年間運用されてきたことから、サーバー上には何十万枚という写真が保存されていた。

 40代前半の愛想の良い英国人で、暗いブロンドの髪と無精ひげを生やしたマシューは、このかけがえのない子供たち一人ひとりの学習データの宝庫を、2016年から守ってきた。学校は彼を契約社員として雇っており、年間数千ポンドしか払えないのだが、彼はその使命に対して献身的に働いている。

 2020年11月23日月曜日の午後9時頃、マシューのもとに、ウェブサイトがダウンしているという内容のメールが送られてきた。すぐに彼はログインしようとしたが、できなかった。最初はパスワードを忘れたのだと思った。ログインを数回試みた後で、彼はロックアウトされたことに気づいた。そしてキッチンのテーブルで隣に座っていたガールフレンドのシャオに向かい、「何か変だ」と言った。

 午前2時頃、マシューは必死になって、サーバーを管理している会社のヘルプデスクに連絡した。直ちに新しいサーバーを契約し、それを学校に接続した。この新しい環境でディレクトリ内にあるファイルを確認できたが、開いて中を読むことはできなかった。ファイルの拡張子が「.encrypt」に変更されていたのである。学校がランサムウエアに感染したと知ったマシューは恐怖に襲われた。

 ランサムウエアは、いま世界で最も普及し、最も急速に成長しているサイバー犯罪である。それはハッキングと暗号技術を組み合わせた邪悪な存在で、コンピュータに侵入し、正しい解除キー(鍵)がなければファイルを読み取れないようにする。ハッカー[英語の「ハッカー」にはさまざまな意味があるが、本書では「コンピュータに関する深い知識を持ち、それを悪用する人物」をこう称している]はその解除キーを提供する代わりに、法外な額の代償を要求するのである。

 マシューはサーバーを防御していたにもかかわらず、ハッカーはそれをかいくぐって、教師がコンテンツ管理に使用するウェブポータルを介して学校のシステムに侵入した。防御のための更新プログラムが公開されていたものの、インストールはされていなかった。マシューはさまざまなクライアントのITシステムを管理し多忙だったため、脆弱性が確認されたソフトウエアのパッチ適用を忘れてしまうことがあったのである。「私は自分自身のアドバイスに従っていませんでした。とても悔しく、恥ずかしい気持ちです」と明かした。「まるで腹を殴られたような気分でしたよ」

その攻撃の頻度や影響は過小評価されている

 英国の小説家でエッセイストのジョージ・オーウェルはかつて、「文明の歴史とは、主に武器の歴史だ」と語った。今日、デジタル兵器が世界を変えようとしているが、その中でもランサムウエアは最大の脅威と言えるかもしれない。ランサムウエアは、なりすましなど他のサイバー犯罪よりも効率的で収益性が高く、さらに注意しなければならないのは、犯罪者たちがランサムウエアの持つ、金を稼ぎ混乱を巻き起こすという潜在力をまだ十分に活かしていないという点だ。

 ランサムウエアの被害者の多くが被害を公表したり、当局に報告したりしようとしないため、その攻撃の頻度や影響は過小評価されている。しかし近年、「バッドラビット」や「ロッカーゴーガ」といった奇妙な名前の数百のマルウエアが、数百万もの企業、政府機関、非営利団体、個人のコンピュータシステムを麻痺させた。犯罪に手を染めるハッカーたちは、社会がコンピュータにほぼ全面的に依存していることを悪用して、数千ドル、数百万ドル、あるいは数千万ドルの身代金を要求してくるのである。

 新型コロナウイルスのパンデミック時には、サイバー攻撃により金銭を要求するという行為が大流行し、それが病院などの重要な機関を麻痺させ、企業や学校を閉鎖に追い込み、さらに人々を家族や友人、同僚から孤立させた。マシューはこの2つの流行の間に、類似点を見いだしていた。「コンピュータウイルスと本物のウイルスが同時期に発生したのは、ある意味で皮肉なことでした」とマシューは言う。「どちらも感染力と毒性が極めて強かったのです」

 壊されたファイルの残骸を整理していたマシューは、その中にあるメモを見つけた。「命の懸かったハッキング(Hack for Life)」と題されたそのメモには、次のような一節があった。

 あなたのファイルはすべてロックされました! ファイルの構造とデータは、取り返しのつかない形に変えられているので、あなたはそれを扱ったり、読んだり、確認したりすることはできません。それはファイルが永遠に失われるのと同じことですが、私たちの助けを借りれば、復元が可能です。

 身代金を払えば、すべてのファイルが復元されます。身代金を受け取っても何もしない、などと欺く理由はありません。私たちは野蛮人ではないですし、そんなことをすれば私たちのビジネスに悪影響を及ぼすからです。支払いの猶予は2日間です。2日後、復元にかかる代金は2倍になります。さらに1週間後には3倍になります……ですのでお支払いは数時間以内に行うことをお勧めします。


 マシューがランサムウエアに遭遇したのは、これが初めてではなかった。かつて働いていた会社では、2018年に攻撃を受けたことがあった。彼は2日間ほど、ハッカーにお金を払わず会社のデータを復旧しようと奮闘した。しかし事件が公になれば、自社の評判が落ちて投資家がパニックになるかもしれないと不安に陥った会社は、しびれを切らしてマシューに2ビットコイン(当時の価値で約1万ドル、約140万円)を払うよう指示した。彼はファイルのロックを解除するキーを受け取り、会社は何事もなかったかのように業務を再開した。

 儲かっている会社にとってはしゃっくり程度の出来事でも、資金繰りの苦しい公立学校では破滅につながる可能性があった。「子供たちの成績をつけられなくなる恐れもありました」とマシューは振り返る。「それには何か月もかかります。教師はゼロからやり直さなければなりません。政府の監査役は、この学校を不合格にしていたでしょう」

 その夜、彼は一睡もできなかった。翌日、上司に報告すると、犯人との交渉を許可された。学校側としては、犯人に報酬を与え、さらに多くの学校を狙うよう仕向けるしかなさそうだった。一方でマシューと彼の上司は、この件を公にしないことにした。学校の評判が落ちることを恐れ、警察に通報しようとしなかったのである。写真や教材にアクセスできなくなった教師や保護者に対しては、「システムがダウンした」という万能の言い訳を使った。

 身代金について書かれたメモには、金額は載っていなかった。マシューはハッカーが指定したGメールのアドレスに向けて、「私のパソコンを元通りにするにはいくら必要なんだ?」とメールを書いた。「1万ユーロ(約150万円)払え」というのが返事だった。「今日なら1万ユーロ、明日は1万5000、2日後は2万だ」

 学校にそんな余裕がないことを知っていたマシューは、攻撃による被害があまりなかったふりをして、彼らと交渉しようとした。「悪いが1万ユーロを払う余裕がない。まったくひどい話だよ、私たちは貧しい学校で、少ししか資産がないんだ。大部分のデータはバックアップしてあったけど、最近の写真が一部失われてしまった。払えるのはせいぜい500ユーロ。それで良ければ連絡をくれ」

 この作戦は成功したようで、ハッカーは減額に応じた。「3000ユーロ、これ以下は受け入れない。明日にはメールを削除してしまうから、早く決めた方がいい」これで自信を持ったマシューは、さらなる値引きを持ちかけた。 「私の調査では、失われた写真は10枚程度だ。3000ユーロも払う価値はない。こちらからの最後の提案は、750ユーロだ」

「1000ユーロが最終の提案だ。同意しなければ話は打ち切る」

 マシューはほっとした。1000ユーロなら学校はかき集められるだろう。最悪の事態は避けられそうだ。ハッカーはビットコインでの支払いを要求していたが、マシューは自分でも投資していたので、その入手方法を知っていた。彼は1000ユーロをオンライン取引所でビットコインに換え、犯人が指定したデジタルウォレットに振り込んだ。マシューは知らなかったが、そのウォレットのアドレスはイランのハッカーに関係したものだった。「OK、送金した」とマシューは連絡した。「ファイルを回復する方法を教えてくれ」

「お前は野蛮人なのか?」

 しかし返ってきたのは、犯人の裏切りだった。「悪いが1000ユーロでは受け入れられない。1万ユーロ払え。まだ9000ユーロ足りない。支払われたら暗号化を解くファイルを送る」

 マシューはだまされたのだ。犯人一味は妥協するふりをして、解除キーを渡さないまま身代金の頭金を手に入れていた。マシューは動揺し過ぎて、「汗をかいているのを敵に悟られるな」という交渉の鉄則を守れなかった。彼は必死で訴えた。「最後の提案は1000ユーロということで合意したじゃないか」とメールに書いた。「もう金はない。お願いだからこんなことはやめてくれ……良心はないのか? 取引を持ち掛けておいて、お金を手にしたら気が変わっただなんてありえない。お願いだ、お前にだって心はあるだろう? それともお前は野蛮人なのか?」

 犯人は譲歩を拒否した。「お前が払った金額は非常に少ない。最初の提案は1万ユーロだった。話すことはない。暗号化を解除したければ、残り9000ユーロ払え」

 マシューはふたたび懇願した。「野蛮人じゃないなら、1000ユーロという最後の提案を守ってくれ。1000ユーロはもう送金した。少しは良心を持ってくれ。凶悪犯でもこんなことはしない。もう金がないんだ」

「受け入れられない。悪いが我々には関係ないことだ」

 マシューのガールフレンドのシャオは、IT業界で働く友人たち全員に連絡を取った。しかし全員から同じ答えが返ってきた――身代金を支払わずにファイルを復元する方法はない。マシューは奇跡が起こることを祈りながら、インターネットを検索した。すると彼は、ブリーピングコンピュータ(BleepingComputer)という名のサイトで、「ヴァッシュソレナ(VashSorena)」の被害者フォーラムを発見した。ヴァッシュソレナはランサムウエアの一種で、学校のネットワークを麻痺させたのと同じように、ファイルに「.encrypt」という拡張子を加えるもののようだ。

 マシューはこのフォーラムに、「今日このランサムウエアに感染してしまって、身代金を払ったのですが、犯人は助けてくれませんでした」と書き込んだ。するとさまざまな助言があり、彼は身代金の要求書と、分析用に暗号化されたファイルのサンプルをIDランサムウエア(ID Ransomware)という別のサイトにアップロードし、demonslay335というハンドルネームで知られるそのサイトの創設者に連絡してみるようアドバイスされた。もし誰かが暗号化を解除できるとしたら、それはdemonslay335だろう、というのである。

 マシューはdemonslay335にメッセージを送った。「こんにちは、私の学校が活動を記録するために使っていたサーバーがハッキングされて、暗号化されてしまいました。どうか助けてもらえないでしょうか? 完全に行き詰っているのです」

(写真:metamorworks/stock.adobe.com)
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(訳:小林啓倫 次回に続く

企業や施設への最大の脅威「ランサムウエア(身代金要求型ウイルス)」が猛威を振るう。この恐喝経済に敢然と挑むのは、社会生活がちょっと苦手ですご腕エンジニアの「彼ら」だった!ランサムウエア犯罪者集団と、それに立ち向かうはみ出し者たち「ランサムウエア追跡チーム」の活躍を描いた迫真のノンフィクション。

レネー・ダドリー、ダニエル・ゴールデン(著)、小林啓倫(訳)、日経BP、2860円(税込み)