最初に紹介するのは、私が高校1年生のときに友人に薦められて読んだ『孫子』です。「どんな本かな」と読んでみて驚きました。古代中国の紀元前の人が書いたものなのに、私の中にとてつもない発想がこれでもかとあふれ出てきたのです。

 印象的なフレーズ、驚くほど新しい思想は数え切れませんが、なかでも心をつかまれたのは「百戦百勝は善の善なる者に非ず」という言葉。百回戦って百回勝つのはいいことじゃないよ、と孫子は言う。なぜなら、それほど勝てる相手だったら、戦わなくたって目的を達成できるはずだから。

 当時の私というのは、自分の正しさを周囲に証明したくてたまらない見えっ張りでした。百回戦って百回勝ちたいタイプ。でも、恐らくそんな自分を変えたいという思いも抱えていたのでしょう。孫子のこの言葉に出合えたことで、自分を見直し、軌道修正できました。当時の自分のことを思い出すのも恥ずかしいのですが、おかげで人間的に少しはマシになったと思います。

青木 亮一(あおき りょういち)渋谷教育学園幕張中学校・高等学校 理科教諭
青木 亮一(あおき りょういち)渋谷教育学園幕張中学校・高等学校 理科教諭
理学修士。自律型ロボットの製作やプログラミングに取り組む中学電気部・高校物理部の顧問として、知能ロボットコンテストやロボカップジュニア、パソコン甲子園などの大会に部員が挑戦するサポートをしている。趣味の1つは睡眠についての論文を読むことで、生徒にも毎日たっぷり寝るよう言い続けている
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 孫子に出合えた私はその後、老子、荘子、墨子など「諸子百家」へと興味を広げ、本を買ってはひたすら読むという日々を過ごしました。

 老子が由来の「柔弱は堅強に勝る」は、私が今も大切にしている言葉です。弱々しくても柔軟性があるもののほうが、力強くても硬直しているものよりも優れている。私はこれを「短所も長所にできる」と理解しています。

 私は物理を教えていますが、高校時代、物理に憧れていたものの、なかなか理解が進んでいませんでした。でも、苦手とする人間の代表として、物理を学べばいいじゃないか。老子の言葉のおかげでそんなふうに考えられるようになったんですね。これが、物理学科への進学、そして、物理教員である今につながりました。

 昨今、物事を勝ち負けで捉える風潮も強くなっています。議論を深めようとはせず、相手を打ち負かして「はい、論破」としてしまう。そのせいもあるのか、他人から評価されたいという承認欲求に苦しんでいる生徒が少なくないようにも思います。その姿はかつての私でもある。読書を通して自分が変わってきた過程を伝えることで、そんな生徒の気持ちが楽になれるようなきっかけが作れたらいいなあと考え、授業中に孫子や老子の言葉を紹介しています。

ロボット製作の部活では、孫子の言葉でアドバイス

 孫子の「巧遅は拙速に如かず」は、よく生徒に紹介する言葉の一つ。本校の生徒たちは何らかの高い能力を持っていますが、そのため完璧主義になり、テストで不正解になることを恐れる気持ちも強い。周りからも間違えたところばかり指摘されるため、身動きが取れなくなってしまうんですね。そういう生徒を見かけたときはこの言葉を思い出して、「不完全でもいいから、大切なのは目的に近づくことだよ。拙くてもいい、今やるべきだと思ったらやっていいんだよ」と話します。

 また、私が顧問をしている中学電気部・高校物理部では、大会やコンテストを目指してロボットを製作しています。生徒たちを見ていると、納得のいくロボットが完成してから大会にエントリーしようとするのですが、それですと永遠に完成しない。「先に大会に申し込んでから、間に合わせればいいんだよ」とよく話します。完璧を目指して長い時間かかってしまうより、多少問題があっても早く実行してしまうほうがいい。まさに、先人の知恵は素晴らしいですね。

 今回紹介しているのは、徳間文庫の『 中国の思想 孫子・呉子 』(徳間書店)です。このシリーズは、重要なポイントをまず掲げ、続いて日本語訳、さらに白文と書き下し文が収められています。他の思想家との関係性も解説されており、自然と興味が広がるので、とても良いシリーズだと思います。

「徳間書店の『中国の思想 孫子・呉子』(左が文庫、右が単行本)。重要なポイントをまず掲げ、続いて日本語訳、さらに白文と書き下し文を収録。他の思想家との関係性も解説しています」
「徳間書店の『中国の思想 孫子・呉子』(左が文庫、右が単行本)。重要なポイントをまず掲げ、続いて日本語訳、さらに白文と書き下し文を収録。他の思想家との関係性も解説しています」
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一生の宝物になる。
先生たちに聞いた人生を支える一冊

 あの名門校の先生は、これから大人へと成長していく、中学生・高校生たちにどんな本を薦めているのでしょうか?生徒たちに薦めたい本、授業で扱った本、自分が好きな本を紹介しながら学校の特色や、本にまつわるエピソードまでをとことん語ります。
【掲載校】渋谷幕張/開成/聖光学院/灘/広尾学園/豊島岡女子学園/フェリス女学院/国際基督教大学(ICU)高校

平林理恵著、日経BOOKプラス編/日経BP/1760円(税込)

マンガを読みふけり、価値観の大転換に触れた小学生時代

 次に、藤子・F・不二雄先生のすさまじい作品を紹介します。

 幸運にも私の親は家で子どもがマンガを読みふけることに理解があり、自宅には『ドラえもん』がほぼ全巻そろっていました。高校生になる頃には、弟とともに集めたマンガがおよそ2000冊。友達にも積極的に貸していたので、「青木図書館」と呼ばれていました。

 つまり、私の物の見方や考え方は、藤子・F・不二雄先生の作品をはじめとするマンガに育まれた部分も大きいのです。

 藤子・F・不二雄作品のすごいところは、なんといっても、大人向けの作品で扱われる題材やテーマを、小学生にも伝わるような分かりやすい形で描き切っていること。普段小学生が触れることのできない世界が描かれているのです。

 例えば、人間の欲望である食欲と性欲の価値観が逆転した世界。恥ずかしそうにご飯を食べ、おおっぴらに性欲を満たす場面が描かれます。どちらも人間が持っている欲望なのに、社会の捉え方が変わることで人々の振る舞いが大きく変わってしまう。こういったことを小学生のうちに考えることができたのは、藤子・F・不二雄先生のおかげ。とても良い経験だったと感謝しています。

「繰り返し読みふけった『愛蔵版 藤子不二雄SF全短篇』(中央公論社)。もう絶版になっていますが、今でも大切に保管しています」
「繰り返し読みふけった『愛蔵版 藤子不二雄SF全短篇』(中央公論社)。もう絶版になっていますが、今でも大切に保管しています」
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 初めて読んだときに価値観の大転換に衝撃を受け、今も影響を受け続けている作品に『流血鬼』(小学館『 藤子・F・不二雄SF短編コンプリート・ワークス8 』などに収録)があります。吸血鬼ウイルスがまん延したために人々が日常生活を奪われ、ウイルスで強化された吸血鬼を前に誰もがなすすべもなく敗れていく。

 タイトルもおどろおどろしいうえに、出だしから血しぶきが上がり、どんどん人間が追い詰められていく重苦しいストーリーとなっています。それでもラストシーンでは、主人公の少年が新しい物の見方を獲得し、これまでの暗闇が、実は明るく優しい光に満ちあふれていたことに気づくのです。

 これを初めて読んだ小学生の私の驚きといったら! ゾンビ映画で、最後に敗れ去ってしまったことを喜ぶ展開なんて普通考えにくいですよね。でも、藤子・F・不二雄先生はそれをやってのける。しかも小学生にも分かる表現でです。

物理が分かると世界が変わる、それを生徒に知ってほしい

 実はこの「流血鬼」のラストシーンをイメージしながら、私は日々物理の授業を行っています。

 物理は非常に楽しめる学問ですが、「物理は難しい。これを面白いと思う人は普通ではない」といった先入観を持ってしまう生徒が少なからずいます。

 だから、物理教員としては、高校物理がスタートする高校1年生の4月は、もう本当にすべてをかけるほどの真剣勝負で授業に取り組みます。こちらが油断すると、生徒は「物理は自分には必要ないもの」と切り捨ててしまい、物理の面白さも素晴らしさも全然知らないままになってしまう。それはあまりにもったいないと思います。

 ただし、物理を教える側としても、生徒が理解しやすく工夫する余地はあるはずです。私も日々の授業の中でいろいろな取り組みをしていますが、藤子・F・不二雄作品もお手本にしています。それこそ、イメージしているのは「流血鬼」のラストシーンのような、新しい物の見方を獲得することによる世界観の大転換です。

 「物理が分かると、こんなふうに物の見方が変わるなんて知らなかった。こんなに楽しめるなんて思ってもいなかった」。そう生徒たちに感じてもらえることが私の物理教員としての目標の一つです。

 私自身、振り返れば、様々な本や著者から多くを学び、大きな影響を受けてきているんですね。そんな素晴らしい本と素晴らしい著者に感謝の気持ちでいっぱいです。

「『物理が分かると、こんなふうに物の見方が変わるなんて知らなかった。こんなに楽しめるなんて思ってもいなかった』。そう生徒たちに感じてもらえることが私の物理教員としての目標の一つです」
「『物理が分かると、こんなふうに物の見方が変わるなんて知らなかった。こんなに楽しめるなんて思ってもいなかった』。そう生徒たちに感じてもらえることが私の物理教員としての目標の一つです」
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取材・文/平林理恵 構成/南浦淳之(日経BOOKプラス) 写真/稲垣純也