そもそも人類はみんな生まれながらには物理が苦手なんです。だって、考えてみてください。ガリレオ・ガリレイが相対性原理を発見してから、たかだか400年程度しかたっていない。得意だったら、もっと早く研究が進んでいたはずですよね。だから、先人たちが苦労しながらようやく見つけてきたことを、後天的に学んでいくしかないんです。
物理とは、できるだけシンプルに最低限必要な道具立てでこの世界を理解しようとする学問です。物体を単純な要素に分け、それらの間に働く作用をいくつかの法則に基づいてモデル化することで、あらゆる自然現象を統一的に記述しようとする。
高校の物理では、先人たちが明らかにしてくれた定義と根本法則をしっかりと把握して、そこから考えるわけです。驚くべきことに、たったこれだけでも、世界は物理を学ぶ前とは違って見えてくる。物の見方が変わるんですね。
AIの時代を生きるうえで重要な視点を教えてくれる
今回、紹介する1冊目は山本弘さんのSF小説『 アイの物語 』(KADOKAWA)です。実は私も、中高生のころは物理に対して苦手意識を持っていたのですが、山本弘さんのおかげで物理学という学問への興味をかき立てられ、今の自分につながっています。
山本作品との出合いは中学生のとき。『ラプラスの魔』(KADOKAWA)を読んですっかり夢中になってしまいました。その後に読んだ『 時の果てのフェブラリー 』(東京創元社から復刊)もそうですが、いずれも物理理論など科学的な視点をストーリーに生かしていて、小説としても抜群に面白い作品となっています。
『アイの物語』の舞台は、数百年後の未来。地球は人類が生み出したアンドロイドといったマシンに支配されていて、主人公の「僕」はアンドロイドから食糧を盗んで逃げる途中、アンドロイドの少女「アイビス」に出会います。
この本に収められているのは、アイビスが人間である「僕」に読み聞かせる7つの物語。ここで読者に突き付けられるのは、人間が物事を捉える能力の限界です。人間は体力でも知性でも、マシンには遠く及ばない。アイビスはそれを、単なるスペックの差に過ぎないと言います。
今の私たちも既に、馬より足が遅いことで悩みませんし、計算の速さでコンピューターに劣っていることを平然と受け止めています。
つまり、人間にはハードウエアとして限界があるけれども、それを超えた可能性もある。人間の限界を提示しつつ、でもやれることはあるという希望をこの物語は示しているのです。それはAIの時代を生きるうえで重要な視点であるように思います。
今のような時代には、AIとの付き合い方に悩む生徒は少なくないと思います。例えば、一生懸命英語を勉強し、悩んで考えて英作文を書く。でも生成AIを使えば、自分の作文よりもはるかに素晴らしい英文が一瞬で出力されるのです。学習のモチベーションを保つことが、以前よりもずっと難しくなっています。
こんな時代を生きる生徒たちに伝えたいのは、言語や学問を学ぶと、物の見方や考え方が変わる、その体験ができるのは自分だけだよ、ということです。自分の物の見方を変えていくことは、自分にしかできない。世界を見るのは自分で、他の人に代わりに見てもらうことはできません。世界を見て、喜んだり、悲しんだりするのは、自分で体験するしかいない。これがAIと人間が関わり合うなかでの、人間の希望になるのではないでしょうか。
この本で描かれているテーマそのものは、これまでにもあったかもしれません。けれどもそれを中高生でも受け止めやすい形で、押しつけがましくなく、すっきり読めるところにこの本の素晴らしさがあります。
先生たちに聞いた人生を支える一冊
あの名門校の先生は、これから大人へと成長していく、中学生・高校生たちにどんな本を薦めているのでしょうか?生徒たちに薦めたい本、授業で扱った本、自分が好きな本を紹介しながら学校の特色や、本にまつわるエピソードまでをとことん語ります。
【掲載校】渋谷幕張/開成/聖光学院/灘/広尾学園/豊島岡女子学園/フェリス女学院/国際基督教大学(ICU)高校
平林理恵著、日経BOOKプラス編/日経BP/1760円(税込)
研究者のこだわりを理解できる1冊
最後に物理学者・米沢富美子先生の『 ブラウン運動 』(共立出版)を紹介します。これは高校生・大学生向けの「物理学One Point」シリーズの1冊です。
ブラウン運動は、1827年にイギリスの植物学者ブラウンが、花粉から出てきた微粒子が無秩序に動く現象を発見し、これを1905年にドイツのアインシュタインが理論的に説明し、1908年にフランスのペランが実験で実証しました。時代と国を超えた連携はとてもドラマチックで興味深く、本書はブラウン運動の理論が書いてある本なのですが、読み物としてもたいへん面白くまとまっています。
私がこの本を読んだのは、大学院1年生のとき。学部の1年生と一緒に実験を行って発表するという実習の授業があり、この本をテキストに使いました。
水中で花粉から出てきた微粒子を顕微鏡で観察すると、プルプル震えるように動いていることに気づき、ブラウンは生命の源を発見したと思い込んだ、と高校時代に教わった記憶があります。ところがこの本を読むと、ブラウン運動は生命現象と関係がない無機物でも起きていることを、ブラウン自身が突き止めていく様子が紹介されています。
ブラウンは、この運動が生体物質に限らず、有機・無機あらゆる物質の微小粒子に共通の物理現象であることを示すために、なんとスフィンクスのかけらまで使って調べているのです。
このような研究者のこだわりであったり、その人がどんなきっかけでそういうことを考えたのかという詳細は、やはり一次資料に当たらないと分かりません。一次資料を自分で調べることの大切さを実感させてくれたのが本書でした。教員になってから、物理学の重要な論文を読むようになったのは、この本のおかげです。授業プリントでも、物理学の歴史で有名な論文の一節や図を積極的に紹介していて、生徒から「物理を学びたい気持ちが高まる」とよく言われます。
また、アインシュタインのブラウン運動の理論は、原子や分子の実在を証明することになったという重大な意義があるのに、あまり知られていません。この本では、その歴史的重要性も分かりやすく説明されています。
ブラウン運動の理論は確率的な現象すべてに通じる
この理論の中で、アインシュタインは確率をとても巧みに利用しています。量子力学との対立で「神はサイコロを振らない」という有名な言葉があって誤解されているかもしれませんが、アインシュタインほど確率を活用した物理学者は当時ほとんどいなかったんじゃないでしょうか。
ブラウン運動の理論は確率的な現象すべてに通じる考え方でもあります。この本は、理学系や工学系の人はもちろん、経済学や心理学など「偶然」が関係する現象に関心のある人すべてにお薦めします。当校では毎年、「卒業生に贈る読書案内」として教員の推薦書を小冊子にまとめているのですが、私はいつもこの『ブラウン運動』を紹介しています。
前回(関連記事『 渋幕・青木教諭「藤子・F・不二雄作品は理想の授業にもつながる」 』)は、『中国の思想 孫子・呉子』と藤子・F・不二雄先生のマンガ作品、今回は『アイの物語』と『ブラウン運動』を紹介しました。ジャンルは全く異なりますが、根底に物理学に通じるものがあるという共通点があります。中高生はもちろん大学生や社会人の方にも、読書を通じて物理の面白さや楽しさに親しんでもらえればと思っています。
取材・文/平林理恵 構成/南浦淳之(日経BOOKプラス) 写真/稲垣純也




