12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。緊急トラブルの対応現場で出会ったすご腕の先輩SEの五十嵐優一と共に徹夜でトラブル対応にあたる長い夜。後藤は五十嵐が転職を決意した理由を聞く。(この物語はフィクションです)
五十嵐さんはスマホから顔を上げずぼくに質問をした。
「ちなみに、後藤は、出世したいか?」
「ええ、まあ」ぼくは小さくうなずいた。
「会社で上り詰めるのは社長1人だけ。あとは、全員出世コースから落ちる。それが早いか遅いかだけの違いだと思うけどな」
「いや、社長になる気なんてないですよ。なれる器とも思っていません」

「まあ、そうだわな」
五十嵐さんは、スマホを操作していることもあり、ときおり返事が適当だ。それに、社交辞令だとしても、「そんなことない」と言ってほしかった。
「でも、せっかくならみんなよりは出世したいです。最低課長にはなりたいし、なれるものなら部長になりたいです」
「オレの場合は、入社3年目の最初の人事評価で出世レースからふり落とされた。そういう意味では、いい人生になったと思う」
「出世できなかったことが正解ってことですか?」
「そうだ」と五十嵐さんはあっさり肯定する。
負け惜しみで言っているのだろうか。五十嵐さんはスマホに夢中だから、表情があまり読み取れない。
五十嵐さんはスマホを見ながら「よし!」と小さく言った。
ゲームでもしているのか? それともこんな時間に誰かとチャット? まさか、誰と?
五十嵐さんは、スマホを置いて顔を上げた。
「上司にペコペコして、やりたくない仕事をして、単身赴任で家族とも離れて、それでも出世できればいい。でも、もしそれで課長止まりだったら、オレの人生返せって思うだろ。いつかは出世コースから落ちる。なら、最初から落ちたほうが正解だろ」
「じゃあ五十嵐さんは、早い段階で出世欲がなくなったってことですか?」
「ああ、そうだ」
「ぼくは、出世欲を持たなくなった時点で、終わりだと思います。地位、名誉、金がすべてじゃもちろんありません。でも、出世を目指すのが『男』ってものだと思います」
「そこは人それぞれの価値観だろ。オレの隣人が少年野球の監督をやっているんだ。仕事はそっちのけで、土日どころか平日も野球漬け。すごくイキイキしていて、最高の人生だと思う。正直、オレはうらやましい」
ネット社会でなくリアルな社会で趣味が充実している、いわゆるリア充であろう。その方はきっと、会社の出世には全く興味がないんだろうな。
出世か……。
出世ってなんだろう……。
ぼくは何度も自問した。
だけど、人生の大半は仕事をしているわけであり、1日の大半も仕事で占められている。であれば、出世が気にならないわけがない。少なくともぼくは気になる。
そんなぼくの考えを察してくれたのか、五十嵐さんが新しい視点のアドバイスをしてくれた。
「後藤、その出世って、今の会社での出世に限った話なのか? そこにとらわれないで、IT業界での出世って考えたら、見えてくる世界が変わるんじゃないか?」
「IT業界での出世って、どうやって判断するんです?」
「お前がさっき言ったろ。地位、名誉、金じゃないのか?」
「お金はわかりますけど、地位や名誉って、どうやって測るんですか?」
「どうせ答えはないんだ。自分の価値基準で測ればいい」
そりゃそうだ。正解なんてないんだ。
では、五十嵐さんの価値観は何なんだろう? 少なくともお金ではないと言っていた。
「そういえば、五十嵐さんは、転職に何を求めたんですか?」
五十嵐さんは、さすがに眠くなったのか、大きなあくびをした。しかし、目を数回パチパチさせたあと、力を込めて話をしてくれた。
「オレが転職してコンサルに行った一番の理由は、クラウドをやりたかったからだ。ITの仕組みがクラウドに大きく転換するのを感じていた。本当に顧客が求めているものはこれだと思った。後藤の会社は今だってクラウド事業には及び腰だ。だから転職したんだ」
ぼくが気にしていることと同じだ。ぼくも最新技術を活用できる仕事をしてみたい。だけど、そんな会社があるのか、また、ぼくがそんな会社で活躍できるのかもわからない。
ただ、五十嵐さんの場合、うまくいかないリスクものみ込んで、自分がやりたい仕事を選んだということだろう。
「オレは、クラウドに関しては誰よりも詳しくなろうって努力した。その結果、クラウドの業界では名が売れたし、政府の委員もやった。年収も、同期の出世頭よりもよっぽど多いはずだ。オレの尺度でしかないけど、さっき話題に上った地位、名誉、金が少しだけあったと思う」
五十嵐さんの目には、説得力があった。そして、言葉には力強さを感じた。ただ、最後は遠慮がちに一言付け足した。
「といっても、吹けば飛ぶようなレベルの地位だけどな」
吹けば飛ぶレベルであっても、ぼくにとってはうらやましい限りだ。
「え、でも、同期の出世頭より年収が多いってことは、五十嵐さん、給料をめっちゃもらってたんじゃないですか」
「オレの給料の話はいいじゃないか」
「いや、気になりますよ!」
五十嵐さんは、フフッと笑った。
「いいじゃないか」
「たくさん給料もらってて、なんでやめちゃったんですか。もったいない」
「オレは金にこだわってるわけじゃない」
行きつくところは、やはりそこか。
とはいえ、出世を気にするぼくにとって、広い視野で出世を捉える考え方は有益だった。
「五十嵐さんの言う通りです。会社の出世じゃなくて、IT業界での出世って考えたら、やり方はいくらでもあるんですね」
なんだか夢が出てきた。ぼくは今まで、考えが硬直していた。それが、ぼくの幸福度を下げていたのかもしれない。世間はもっと広いし、価値観だっていろいろある。それなら、違う価値観になってもいいじゃないか、そう思えるようになっていた。
(つづく)
[日経クロステック 2023年8月18日付の記事を転載]
