12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。緊急トラブルの対応現場で出会ったすご腕の先輩SEの五十嵐優一と共に徹夜でトラブル対応にあたる長い夜。後藤は五十嵐に自分が転職するのが本当に正しいのかを聞く。(この物語はフィクションです)

イラスト:冬乃郁也
イラスト:冬乃郁也
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 IT業界で出世したいのであれば、今の会社をやめたほうがいい。でも、ぼくの力量や置かれている環境を考えると、会社に残ったほうがいい気もする。どっちがいいんだ。

「五十嵐さん、ぼくは会社をやめたほうがいいですか?」

 気が付けばさっきと同じ質問をしている。

「それは、何を求めるかによって変わる」

「何を求めるか、ですか」

 たしかに五十嵐さんの言う通りだ。華やかな仕事なのか、お金なのか。それとも、単に今の不満から逃げ出したいのか。もっと言うと、華やかな仕事であれば年収が下がってもいいのか。逆に年収さえ増えれば仕事の中身は関係ないのか。これは自分のハートに聞くしかない。

「そうだな、超高収入を目指すなら、今の会社は去ったほうがいいだろうな」

「どうしてですか」

「後藤の会社の場合、部長でも年収はたかだか1200万円くらいだ」

「すごいですね」

 ぼくはそう思った。実際にそれくらいの年収をもらってみたい。

 でも、よく考えると、部長でそれだけって、少ないのかもしれない。金融系企業の場合、すでに1000万円を超えている同級生がいる。

「IT長者という言葉もあるし、IT業界は華やかに思われがちだ。だが、現実的には世間がイメージするほどの高給ではない。他の業界を見れば、もっと高収入の職業はいくらでもある。わかりやすく言えば医師とか弁護士とかは収入が多いし、不動産でもうけている会社の年収もえぐい。でも自分で事業を起こして成功している人の年収は桁が違う。本当に億円単位の収入を得ている」

「そうですよね……」

 ぼくは途方もない気分になった。

 億単位のお金! そんなものがあったら、ぼくの人生はどう変わるのだろう?

 だけど、その変化は、ぼくが本当に望むものだろうか? 妻の美香や娘の渚が、心から喜ぶものだろうか? 少なくとも渚は、お金よりもパパとカレーを作ることが大事なはずだ。

 ぼくが頭を悩ませている中、五十嵐さんは年収の詳しい話をしてくれた。

「もちろん、有名企業のトップだったら、年収1億円どころかもっともらえる。だけど、後藤の会社だったら、社長だって、所詮は親会社から降りてくる。年収はせいぜい2000万円程度。まぁ、昔噂で聞いた限りでは、2000万円もないらしいけどな」

「夢がないです……」

「そうさ、でも、それが現実だ。お金を稼ぐって本当に大変なんだ。成功してるソフトバンクの孫正義さんの本でも読んでみろ。やっていることの次元が違う。孫さんのビジネスでの成功は後藤も知っている通りだが、若い頃から別次元だ」

「えっ。そうなんですか」

「そう。考え方や行動が別次元だから、年収も別次元なんだ。金は簡単に稼げない」

「考え方もですか」

「そうだ。評価が悪いとか、後輩が先に昇進したとか、そんな無駄なことを考えてると思うか」

そう言われると、自分が恥ずかしくなる。

「成功者は目指す夢が大きいから、ぐだぐだ考える暇があったら、まず行動する」

 五十嵐さんはそう言って、孫さんの若い頃の話を教えてくれた。

「まず、16歳で単身渡米して、先生に直談判して高校を飛び級。そしてノーベル賞受賞者を100人以上輩出した超超名門のカリフォルニア大学バークレー校に入学。これだけでもすごい。東大生だって簡単には入れない。異文化の国でしかも英語で、最高レベルの大学で授業を受けるんだぞ」

「16歳で単身渡米って。ぼくにはまずそこから無理です……」

「そうなんだ。自分が16歳の時なんて、将来のことなんか全く考えてなかった。そして、考えたとしても、単身渡米なんて行動は、オレには勇気がない」

 そうは言いながらも、五十嵐さんだってぼくからするとすごい人だ。孫さんの話だけでなく、今までたくさんの話をしてくれた。いろんな本を読んで常に勉強しているんだろう。

 一方のぼくはどうか……。そう思うと、身につまされる。

 五十嵐さんの話が続いた。

「それで、大学生の時に自動翻訳機を発明してシャープに1億円で売った。その後、日本から『インベーダーゲーム』などの機械を中古で買いつけてアメリカで大もうけ。若い頃から次元が違うだろ」

「本当にそうです」

「とにかく孫さんは行動力が違う。そう考えると、オレもお前も、所詮は凡人だ」

「孫さんと比べてしまうと、誰だって凡人ですよ」

「しかし、凡人だから不幸ってことではない。孫さんと後藤のどっちが幸せかなんて、比べようがない」

 たしかに! と思う。ぼくは家族と小さな幸せを感じている時間も好きだ。でも、孫さんの人生には憧れる。

「でも……。孫さんのほうが幸せに決まっているじゃないですか」

「あ、やっぱり? オレもそう思う」

「ちゃかさないでくださいよ」

「オレが孫さんのほうが幸せだろうと思ったのは、地位や名誉、お金ではない。孫さんの場合は、自分の夢や目標に向かって努力する。そして、多くの素晴らしき仲間を得て夢や目標を形にする。そういう面での幸福感だ」

「どうせぼくは目標を失っていますよ」

 ぼくは露骨にすねた顔をした。

「まあでも、後藤の場合はそこそこ技術力があるし、漠然としているが、上昇志向がある。前に進もうと努力することはいいことだし、後藤自身の幸せにもつながるさ」

「でも所詮、ぼくは凡人なんですよね」

「そうだ」

 五十嵐さんは社交辞令もなく、即答してくる。もう少し気を使ってくれてもいい気はする。

「わかりました。凡人でもいいです。実際そうだし。でも、凡人なりに行動してみたいです。五十嵐さん、ぼくの場合、どう戦ったらいいでしょうか。実際、五十嵐さんは、どう戦ったんですか? どうやって、クラウドの世界に飛び込み、政府の委員などを務めるまでになったんですか? ぜひアドバイスをください」

「どう戦うかって? そんなの簡単だろ」

「それを教えてください」

「凡人なら凡人らしく戦う。ただそれだけだ」

「凡人らしく?」

「そうだ。そのために、まずは『捨てる』ことだ」

イラスト:冬乃郁也
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(つづく)

▼本連載は左門至峰氏の小説『ぼく、SEやめて転職したほうがいいですか?』(日経BP、2023年6月19日発行)を著者の許諾の下で転載しています。本文表記は原則、書籍発行時の記述をそのまま掲載しています。

日経クロステック 2023年8月21日付の記事を転載]