12年働いた中堅システムインテグレーターをやめようと決心していたSEの後藤智彦。担当企業の緊急トラブル対応に出かけた彼はそこですご腕の先輩SEの五十嵐優一と出会う。転職に悩む後藤は転職後にさらに独立を選んだ五十嵐にその決断の真意を聞こうとする……。(この物語はフィクションです)
転職がうまくいかなかったら、技術力を生かして独立する道もあるのだろうか。
いや、そんなに甘くないか。でも、せっかくだから五十嵐さんに聞いてみよう。
「そういえば、五十嵐さんは転職後に起業されたんですよね?」
「そうだ」
「五十嵐さんの年で独立って、思いきったことしましたね」
「教えてもらってる立場なのに、失礼な表現だな」
「だって、独立したら、給料がゼロになるかもしれません。会社にいれば、五十嵐さんがぼくに言ってくれたみたいに、表面的にニコニコして、我慢さえすれば、安定したお金がもらえるわけですよ」

「その言葉、お前に返すわ。我慢して今の会社で働け」
ぼくは何かを求めて会社を飛び出したいけど、他人には「我慢しろ」って……。自分が矛盾した発言をしたことに気が付いた。
「後藤が言うことは一理ある。たしかに、ニコニコしておけば、55歳で役職定年になったとしても、そこから先は次の職場をあっせんしてくれる。少なくとも60歳までは、最低限の給料がもらえる」
「ですよね」
ではなぜ、五十嵐さんはリスクを冒してまで独立を選択したのか。その理由が聞きたかった。
「ぼくは『独立』『起業』という言葉にかっこよさを感じています。もちろん、今の自分では無理ですが、いつかはやってみたいという思いもあります。でも、収入はとても不安定になると思います。五十嵐さんは、独立に際して不安はなかったのですか?」
「もちろんあったさ。ただ、オレは思ったんだよ」
五十嵐さんは空になった「メルティーキッス」の袋を2つに切り裂いた。
「給料がゼロになったら、また別の会社で働けばいいだけだってな」
潔い!
「でも、50歳前後の人を雇ってくれる会社なんて、それほどないと思います。まあ、五十嵐さんの実力があれば別かもしれませんが」
「いや、そう甘くはない。コネなどがないと、多くの場合は年齢でアウトだ。好条件の転職は簡単じゃない」
「では、無職になるリスクも覚悟していたんですか?」
「もちろん。でもさ、日本にいて、頭を下げて真面目に働けば、必ず働き先はある。待遇面は別としてな」
「選ばなければそうですよ。飲食とか介護業界とか、人手不足の業界はたくさんありますから」
「そう。いくらでもあるんだよ。生活水準を気にしなければ、最低限の生活は営める。とはいえ、今のような生活はできなくなるだろう。昼は手作り弁当、晩酌は第三のビールに変わるかな。でも、メルティーキッスもたまに食べられる。幸せな人生だ」
生活水準が下がる話なのに、五十嵐さんが話すと、なぜか楽しそうに聞こえる。
「五十嵐さんみたいな成功者が、そんな人生でいいんですか?」
すると、すぐさま「成功者?」と笑われた。
「オレは自分が成功したなんて一度も思ってない。むしろ失敗だらけだった。でも、不幸だとは思わない」
五十嵐さんは手持ち無沙汰なのか、空になった「ポッキー」の箱を触りながら話を続けた。
「人間はいつか死んで無になる。お前がうらやんでるITベンチャーの社長や人気予備校講師だけでなく、社長も大金持ちも総理大臣もな。それが生き物の宿命だ。どれだけ高い山に登っても、いつかは必ず下りる。そして、ヨボヨボになって孫くらいの年齢の人に、シモの世話をしてもらう。所詮、人間の最後はみんな同じなんだ。だったら、プライドもへったくれもないだろ」
「それはそうですけど……。ぼくはさっき、できるなら成功したいと言いました。でも、『情熱大陸』で取り上げられるような大成功を夢見ているわけではありません。みんなから自分を認めてもらいたいというか、『後藤はすごい』『さすが』って言われたいです」
「なるほど、ま、誰でも承認欲求はある」
ぼくが五十嵐さんの顔を見ると、「あ、別にバカにしているわけじゃないぞ」と断りを入れられた。
「わかってます」
「後藤が成功を追い求めたいと心からそう思うなら、その考えに従って生きればいいんじゃないか?」
「はい、でも、どうやったらいいのか、よくわかっていません」
「オレは思うんだけど、後藤が欲しい小さな成功よりも、もっと大事なものを得てるんじゃないのか?」
「なんですか? もっと大事なものって」
「後藤は、成功してみんなから認められたいって言ったよな」
「はい」
「つまり、成功して幸せになりたいってことだよ」
「ま、そうかもしれません」
「だから、後藤はもうすでに、すごく幸せなんだよ」
「えーっ」とつい発してしまう。「そんなわけないじゃないですか」
でも、五十嵐さんは笑わない。
「日本は世界でトップクラスに安全で豊かな国だ。そんな日本に生まれた。すこぶる健康。昔と違って戦争も食糧難もない。こんなに幸せなことはないぞ」
「そりゃそうですけど」
「明石家さんまさんが言ってるだろ、『生きてるだけで丸もうけ』って。本当にそうだと思う。幸福度に点数をつけることはできないが、お前の人生、10点満点のうち、9点はあると思う。ただ、後藤は、100メートル競走の陸上選手が0.01秒を争うような、9.95とか9.96というハイレベルな幸福度の勝負をしているだけなんだ」
「でも、その0.01にみんなこだわっているんじゃないんですか? 飲み会の愚痴なんて、出世や給料、子供がどの進学校に入ったとか、下世話なことばかりです」
「ま、そういう面はあるな。日本人に生まれただけで幸せだっていうなら、日本人は全員幸せだし、ケンカや自殺、心を病む人もゼロになるはずだ」
初めて五十嵐さんを言いくるめることができた。ぼくは意気揚々と、「でしょ」と人さし指を五十嵐さんに向けて立てた。五十嵐さんは引き締まった表情になった。
「後輩の話なんだけど、42歳の時に白血病で倒れた。他人にも厳しいが、自分にはそれ以上に厳しい優秀なエンジニアだった。彼は厳しい抗がん剤治療を精神力で乗り越え、奇跡的に復活した」
「よかったです!」
「オレも心から喜んだけど、『普通の生活が最高の幸せだと知ることができました』という彼の言葉が忘れられない。白血病になってから、病院通い、食事制限、抗がん剤治療、猛烈な不安、寝られない毎日、家族への申し訳なさなどが日常になってしまう。普通の生活なんて吹っ飛んだと言うんだ」
「たしかに、それを言われたら、その通りです」
ぼくは五十嵐さんに向けた指をすぐにひっこめた。ぼくはつまり、甘えているだけなのかもしれない。現状の幸福を理解せず、ないものねだりをしているだけなのかも……。
(つづく)
[日経クロステック 2023年8月10日付の記事を転載]
