日本経済新聞夕刊で連載された有栖川有栖さんの『 折れた岬 』(日本経済新聞出版)が2026年10月に刊行された。作家デビュー37年、ミステリ小説の大家である有栖川さんが、謎と結末だけを定めて向き合った、久々のノンシリーズ長編『折れた岬』の着想と、初めての新聞連載への思いについて聞いた。
大手出版社で還暦過ぎまでミステリ小説を手掛けてきた敏腕編集者・滝原文典がリタイアし、折れ曲がった岬が見える南伊豆の「風伏」という町に住むことを決めます。それは、失踪した覆面作家・苅田琉介の謎を追うためでした。
有栖川さんの最新刊『折れた岬』は2024年6月から25年10月まで日本経済新聞夕刊で1年4カ月、全380回にわたって連載された小説です。この作品、タイトルだけ先に思いついたそうですね。
数年前にふっと、<折れた岬>という言葉が浮かんだのです。小説のタイトルになりそうですが、どんなストーリーの作品なのかはまったく不明。いつか使えるかもしれないなというタイトルが思いついたときは、ちょっと記憶に留めておくのですが、その中の1つでした。私の小説のタイトルって、「○○の○○」というものが多いんですけれど。
確かに。『ロシア紅茶の謎』とか『捜査線上の夕映え』とか。『日本扇の謎』も「の」がついていますね。
<折れた岬>は「の」がつかないので、キープしておこうと。ちょっとカクッと曲がった特徴的な岬がある小さな町が舞台なんだろう。その岬は何かを象徴しているんだろう。きっとその町は深い秘密を抱えているんだろうな、よく分からんがと。短編か長編かというと、長編のタイトルっぽいなあとは思ったのですが、その後は放置です。
それが新聞連載小説にどのようにつながっていったのですか?
<折れた岬>という言葉が思い浮かんでから1年か2年後ぐらいに、新聞小説のお話を頂きました。新聞に書くのは初めてだったので、いつもとはちょっと勝手が違う。スケールの大きな話にしようかとも考えましたが、毎日読んでくださる方には、ごちゃごちゃした話より、すっきりして見通しのよい話の方がいいかもしれない。でも、どこかもやっとする感じも欲しい。そんなことを考えているうちに、今回のような小説になっていったのです。
そのとき、いつか使えるかもと思っていた<折れた岬>というタイトルが、この小説の中でシンボリックに使えるんじゃないかと思えてきた。ふわふわ空中を漂っていたタイトルが、「行き場所、決まりましたか」と、どんどん接近してきたっていう感じですね。
新聞小説は初めてだったそうですが、すでに多くの連載や出版待ちの作品がある中で、それでも1年間の新聞連載をやってみようと思われたのは、なぜですか。
経験してみたかったんです。大変そうだな、ちょっと怖いなと思いつつ、この年になるまで未経験だったので、一度は手がけてみたいと。私はデビュー以来、シリーズ作品がほとんどです。シリーズになることで表現できるものもありますが、逆に書けないこともあります。ノンシリーズで、着想を思いきり広げてみたいという思いもありましたので、新聞小説はそのチャンスでもあるのかなと考えました。
主人公の滝原は、62歳で出版社を退職した編集者です。これまでのシリーズ作品とは異なり、ご自身に近い年代の人物を主人公にしていますね。
これまでのシリーズものは、主人公が30代とか学生とかが多いので、私とはどんどん年齢が離れていっています。離れていくと、30代のキャラクターだからこんなふうにしゃべるだろうと、思い出したり想像したりしながら登場人物を動かす。でも、人間って40になったら50になったら中身がガラッと変わるかというと、生きてみたら実は中身はあまり変わらないですよね。みんな高校生の時と基本的に変わってない。
そういうことも分かったうえで、何かを回想するのではなく、この年で何かに向き合う、過去とも向き合う、そういう人物をもっと動かしてみたい。脇役ではなく、主な視点人物・主人公にしてみたい。自分の世代の思いを自分の言葉で書きたいし、書けるんじゃないか。それはやっぱり書いておいた方がいい。今回は絶好のチャンスだと思いました。主人公の滝原に語らせたのですが、老いへと向かう心情を描く、いわば「白秋小説」ですね。
作家アリス(火村英生)シリーズ:主人公の火村は、犯罪社会学者で大学の准教授。34歳。
濱地健三郎シリーズ:主人公の濱地は、心霊現象を専門に扱う探偵事務所所長で年齢不詳。30代にも50代にも見える。
日本経済新聞から依頼があったのは2021年3月と聞いていますが、実際に新聞連載が始まる時期に比べてずいぶん早いものなのですね。
そうですね。最初にお聞きしたときは、人気作家の方はスケジュールが詰まっているだろうから、こんなに前からご依頼があるんだなと知りました。じっくり考えられるし、これは時間をもらえてありがたいと思ったのですが、なかなか書くことが決まらなかった。別の仕事もしているうちに、あっという間にスタート時期が近づいてきて、ちょっと焦りました。新聞連載で、立ち往生して明日までに書かないと紙面に穴を開けるなんてことが起きたらどうするんだろうと思わず想像したりして。
実際に1年4カ月にわたる連載をお書きになって、大変さはどんなところにありましたか。
苦しかったことは特にありません。初めてではあったのですが、今まで書いたことがないようなスピードで書かないといけないということもなく、むしろペースさえ守れば、そんなにせかされている気持ちにならずに済む分量です。ただペースが乱れると怖いなあと思って。止まらないように、ペースを守ることを心がけました。
最初はストックがあった方が気分的に楽なので、先に書いてお渡ししようと思って2カ月分ぐらいを提出したんですよ。その後もさらに書いていたら、そんなに先の分まで確認用の校正刷りを作れませんと聞いて、最終的には2、3週間分のストックをしながら、最後の方は走り抜ける感じでした。
月刊誌などでも、有栖川さんは締め切りを破ることはあまりないのですか。
連載が始まったらあまりないような…。と言いながら、「すいません、まだ着想がまとまらないので、スタートを遅らせてください」というのはよくあるというか、いつもそんな感じです。「連載のスタート、1年近く遅れましたね」ということもよくあります。ただ、頭の中これでいけるという設計図ができたら、立ち往生したりはしないです。
どのような「設計図」を作ってから書き始めるのですか。
普段、本格ミステリを書くときは、探偵役が決まっていて、どんな事件をどう解決させるのか、いわば設計図を書きます。こんなふうに入って、どのタイミングで手掛かりを提示して、こんな推理で謎を解いて、読者にこの辺を面白がってもらおうということを、割とかっちり組み立てます。今回はいつもとちょっと違うスタイルの小説ですね。
『折れた岬』では、その設計図をあえて作らなかったのですね。
名探偵ではなく、定年近くで退職した編集者なので、ぎこちない捜査をして、いつまでも足踏みしているっていう展開があるだろう。それをそのまま書いてみよう。そうしたらどうなるのか、そこにいつもと違った面白さがあるというふうになれば成功かなと。そういう方針が立ったら、あとはもう書きながら考えるしかない。
どこを通って結末に至るか、何カ所かポイントはあるのですが、いつもはそのポイントがあればあるほど安心っていう感じでたくさん作るのですが、今回はとても少なかった。今回は、私も小説の中をちょっとフラフラさまようだろうなと思いながら書きました。
書きながら考えるというスタイルではありましたが、結果的には割と自分が思ったようになりました。書きながら考えるって大丈夫かと、始まるまではちょっと怖かった時期もあります。本当に始まるのと思って。
舞台は南伊豆です。有栖川さんにとって馴染みのある土地だったのですか?
下田までは一度行ったことがありました。旅行が好きで鉄道ファンなので、伊東線に乗りたいと思って行ったのです。いいところだなという印象はありました。
大阪出身で京都の大学を卒業、就職してからはずっと東京だった編集者がリタイアして、居を移すとしたらどこに行くだろうと考えたときに、折れた岬がある町なら海の近くだろう。伊豆半島は東京からもほどよい距離で、いい岬、いい崖がいっぱいあるなと思ったのです。
改めて行ってみていろいろ案内してもらって、たくさん話を聞きました。本当はしばらく滞在して、あるいは季節を変えて何度も行くのが理想ですが、知らないところへ主人公が移り住む、私も知らないところへ紛れ込む感覚で書きました。風伏って架空の町ですから、道がおかしいとか誰も言わないから大丈夫だろうし(笑)。
取材・文/中城邦子 構成/市川史樹(日経BOOKプラス) 写真/鈴木愛子



