『 折れた岬 』(日本経済新聞出版)の主人公は、62歳で出版社を退職した元編集者。作家デビューから37年、本格ミステリのフロントランナーとして書き続けてきた有栖川さんご自身はリタイアをどう捉えているのでしょうか。小説家という仕事の魅力や、創作を志す人々への思いを聞きました。

主人公の編集者・滝原は65歳まで働けるところを、62歳で退職します。有栖川さんご自身は、締め切りに追われる仕事の中で、ペースを落としたい、引退をしてラクをしたいと考えることはありませんか。
ラクをするのは大好きですけれど、もうやめたいと思ったことはないですね。小説家って締め切り大変ですねと言われるけれど、締め切りってどんな仕事でもあるじゃないですか。小説を書くことも、これだけの分量でこんな内容をいつまでに納品してくださいって、請負契約を結んでやっている普通の仕事です。でも小説自体が好きだから、労働とはあまり感じなくて、それに関わっていること自体が楽しい。ずっと就きたかった職業でもありますから、ラクをしたい誘惑があっても、やめたいとか思わないんでしょうね。
執筆しているときは、完成したところを自分が早く見たいという気持ちがモチベーションを維持してくれます。この小説、最後まで書いたらどんな本になるんだろう。それを読みたい。でも、読みたかったら自分で書くしかないわな、っていうので書ける。完成した本を見るのはいつもとても楽しみです。
小説家になりたいと思ったのが、11歳のときでした。今は、ライトノベルを書いて、アニメにしてもらうとか、早くから意識している子どもはいっぱいいるでしょうけれど。当時は珍しかったでしょう。小学校のときから文章を書くのが好きで、小説家になりたいと思っていて、実際にデビューしたのが29歳なので、体感時間がすごく長いんです。やっとなれたという思いがあるので、ずっとここにいたいと思っていて。だからリタイアとかは考えないですね。
時間配分を工夫して、ゆったりできるようにした方がいいんじゃない、って思わないでもないですが、こんなことしませんか、あんなん書きませんかって、ご依頼いただくお話が、幸いありがたいお話ばっかりなんで。私はリタイアっていうのはイメージが湧かないんですが、友達はリタイアしたりしているし、リタイアしたらどうなのだろう、と想像はする。じゃあそれは小説に書けばいいじゃないか、リタイアしている自分を、体験できるじゃないかっていうのも今回の執筆動機です。

編集者同士の会話や出版界の抱える課題などの描写が非常にリアルで、その点も興味深く読みました。今回の作品のために周囲の編集者に取材をされたりしましたか?
こういう小説を連載するぞと決めてから、積極的に編集者さんに質問をぶつけたというわけでもありません。定年のときどんな感じなんですか、制度はどうなっていますかというのは聞いたりしましたけどね。アレンジはしていますが、素材の多くは今までにいろんな方から聞いたエピソードや、私自身がしてきたやり取りです。
本書の中で滝原が語るエピソード。同じ小説でも担当編集者が伝えるイメージによってカバーイラストが全く違うものになる、という話は、連載中にある方から聞いた話なのですが、私も「へえ」と思って作中に書かせてもらいました。
『折れた岬』は挿画が大路浩実さんによるものですね。以前、日本経済新聞の日曜版で連載し単行本になった『 ミステリ国の人々 』(日本経済新聞出版)も大路さんでした。
挿画を大路さんにお願いしたのは私のリクエストです。95年ごろからお世話になっていて、『 ミステリ国の人々 』のときも連載中から凝りに凝ったイラストを描いていただきました。あんなに凝ったら、今回は毎日のことなので大変なことになってしまうと思ったのですが、私が見たい、毎夕見られたらうれしいなという思いがありました。ハードカバーでは大路さんがイラストをコラージュして、坂野公一さんが装丁をしてくださって、中身が負けてないか心配するくらい、いい本にしていただき、喜んでます。
『折れた岬』は、もしかしたら結末は示されないのではないか、自分で探すということなのかなと思いながら読み進めました。
確かに。読んでいる人からは、結末はない小説なんだな、はっきり書かないつもりだなと思われるだろうな、でもあるんですよと思いながら書いていました。文学作品だったら結末を書かないでしょうね。ない方がいい感じで仕上げられそうなんですけれど、私はミステリ作家だから、書いている最中は余計な発信をしませんでしたが、結末から絶対逃げないからね、とは思っていました。
この作品からのスピンオフなどはないのでしょうか。
先のことは全く分からないのですが、今のところ書くつもりはありません。パッと出てきた登場人物が通り過ぎていく感じも割と好きなんですよ。書いていて、私なりに「彼、ちょっと面白いね」とか「この脇役、ちょっといいね」と思うことはあります。作者はそういう人物や意外な人物を再登場させることも、場合によってはシリーズものにすることも自由自在にできます。そんな簡単なことで、読者の中には喜んでくれる人がいるかもしれませんが、作者としては、せっかくいい感じで通り過ぎた1回きりのキャラクターは退場したままがいいのでは、という思いがあります。
小説のキャラクターは1回しか出てこないのが普通ですよね。シリーズを書いているからおなじみのキャラクターと時間をかけてつきあえるけれど、毎回別れていくのもキャラクターを作るのも創作の醍醐味です。
元編集者の滝原、謎の失踪を遂げた新鋭作家の苅田、作家志望の高校生・波彦くんなどの姿に、クリエーティブな世界にいる人々への愛情、温かさを感じました。有栖川さん自身も創作塾を開催されており、作家志望者や創作を志す人々を応援されていますね。
物を作っている人には興味があるし小説を書いている人には、同じことをしているということで、自然とシンパシーが込み上げてきますからね。ゆるゆると応援しています。自分で手応えのある小説を書けるといいですね。それを自分が思った形で発表できるといいですね、というまなざしは持っているつもりです。

創作塾からは、夕木春央さんや山口未桜さんなど、プロの作家も生まれています。創作塾で教えることは、有栖川さんご自身の執筆にも影響していますか。
今年もまた1人、短編の新人賞を取った方がいて、これまで十数人がデビューを果たしています。創作塾を始めたのはある方に頼まれたのがきっかけです。できないし、柄でもないと思って最初はいやいやと言っていたのですが、いろんな経緯があってお引き受けしました。そしたら私自身も、小説のことを考える時間がより長くなりましたし、小説がより好きになった。書き方もちょっと変わったかなと感じますね。こんなふうに書くのがいいんですよとか、人に言いながら全然できてないじゃないのって言われたらだめですしね。人に物を教えるというのはロジックも要りますし。自分がよく分からないことは人に言えません。いろいろ再確認できることがあって。私自身が大変、勉強になっていると思っています。
これから書きたい作品やテーマについて教えてください。
シリーズ作品については、どんな形で完結させるのか、完結させないとしたら、どう開けた感じを作るのか。いろいろ課題を抱えております。
それとは別に、次の作品は『折れた岬』とはまた違う方向に振ってみたいですね。「いろいろ作り込みましたね」っていう本格ミステリを書いて、「ああいうのはやめるのかと思ったら、やめる気はさらさらないようだな」と、思っていただけるようなものをご披露できたら楽しいんじゃないかなあ、と。なかなかアイデアが浮かばなくて、苦しんでいるところです。
取材・文/中城邦子 構成/市川史樹(日経BOOKプラス) 写真/鈴木愛子
