「仕事と読書を両立するのは難しい」。でも、だからこそなんとかしたい!と思っている人も多いのではないでしょうか。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)の著者で文芸評論家の三宅香帆さんが、働きながら読書する日々を綴り、「働いているからこそ面白く読める本」を紹介する本連載。今回は働くことと表裏一体の「休み」について考える3冊を取り上げます。
3月某日
なんだか今年は3月になってもずっと寒い。それゆえかずっと疲れている。しかし疲れているのは私だけではない、と文芸誌『群像』2024年1月号「休むヒント。」特集を読んでしみじみ思った。若手人気文筆家もベテラン人気文筆家もこぞって「疲れてる」「でも休めない」と語っている… みんなもっと休むべきでは!? というわけで私は、3月は基本的に休むモードで生きることに決めた。休んでいた。
そんな時に再読した『 水曜日は働かない 』(宇野常寛著/ホーム社)は、日本の働き方や余暇のとらえ方を変えようと提唱する一冊だった。エッセイ集の体裁ではあるが、飲み会は本当に必要なのか、競技ではない形の趣味としての運動は可能か、などさまざまな生活についての提案がなされている。休み方を考えたい人に一読してほしい本である。
しかし同書を読みながら「なんでこんなに休むのが難しい世の中になっているのだろう?」としみじみと思ってしまった。そりゃもちろん会社員をやっていたら簡単に休まれちゃ困るのも分からなくはないし、個人事業主ならなおさら、休んでも誰も仕事を代わってくれないという感覚が大いにあるのも理解できる。しかし、それにしても。なんだか世の中全体、休むことが難しくなっているのかなあ、とぼんやり思う。なんのデータもない、ただの自分の感覚なのだが。
たとえば「逃げる」とか「脱出する」とか、「何かしらの休むべき事情がある人が自分を守るために、他者から休むことを認められて、休む」ことは昔よりもやりやすくなった。むしろ推奨されるようになっただろう。2023年の厚生労働省調査によると、有給休暇を労働者が取得した日数は1人平均10.9日、取得率は62.1%と過去最高だという。メンタルヘルスの不調で1カ月以上休職した社員がいる会社は全体の13.3%に上るそうだ(2022年労働安全衛生調査[実態調査])。
だが、一方で他者から認められなくても休むこと──つまり、さぼり、のようなものはむしろどんどん減っているのではないだろうか? 自主的に水曜日は働かないと決めることは、昔より難しくなっているのではないだろうか? 私は本書を読んでそんな仮説を立てた。合っているかどうかは分からないが。
というのも、私は他者から認められなくても、こっそり自分の中でさぼって休みをとることって、かなり重要だと思っている。しかし「さぼれない」人が増えているのだとすれば──さぼってちゃ回らない、余裕のない世の中になっているということなんだろうか? それとも、さぼることを自ら禁じる倫理的な世の中になっているということだろうか? 仮に「さぼりが減っている」という私の仮説が正しいのだとしたら、その原因は生産性の問題なのか、それとも精神的な問題なのか、どちらなのだろう。
3月某日
『群像』の「休むヒント。」特集が面白かった、と人に言ったら、なんと4月に単行本化されるらしい。楽しみだ。やっぱり休むヒントを求めている人がこの世にはたくさんいるのか。みんな休みづらいんだな…とも思う。
私はというと、昔から休むのがわりと得意だった気がする。なぜかといえば何かをさぼることにとくに抵抗がないからだ。ってこんなことを書くと、きわめて怠惰かつものぐさな人間であることが分かってしまう。日経BOOKプラスの連載を読んでくださっている方に嫌われないか不安だ。
3月に読んだ『 昨夜の記憶がありません 』(サラ・ヘポラ著、本間綾香訳、晶文社)について書こう。語り手の女性は、ニューヨークで働くライター。彼女がいかにアルコール依存症から脱出したのかを綴ったエッセイだ。アメリカではロングセラーエッセイになっているらしい。
とても面白いエッセイで、たとえアルコールをたしなまない人が読んでも、「自分で自分を休ませてあげるとはどういうことか?」を考えてしまう一冊だ。
例えば同作の語り手サラは、お酒をやめてから激しい自己嫌悪に襲われる。
それでも、自分の人生に目覚めたのが遅すぎたせいで、みんなが去っていくのを見送るだけなのではと不安を覚えた。「回復(リカバリー)」という言葉は、なにかを取り戻すという意味だ。それなのに、わたしが味わっているのは喪失感だけなんて、どうして?
(『昨夜の記憶がありません』より引用)
この文章を読んで、「ああなるほど」となんだか納得してしまった。「なるほど、休むのが難しいのは、休んだら人間関係が途切れてしまうのでは? という不安があるからか」と。
たしかに仕事でも学校でもその他プライベートの交流でも、「休む」という行為は、人間関係を喪失させる契機になりやすい。他人との共同作業を自分だけ抜けると、そのぶんあったはずの人間関係が失われる。だから人は「休みづらい」のかもしれない。
だとすれば、今の社会が「休みづらい」のは、つまりそれだけ「他人とのつながりを途切れさせたくない」世の中であるから、なのかもしれない。
しかしサラはアルコールを絶ち、自らの喪失感と向き合った。その過程はぜひエッセイを読んで確かめてほしい。
3月某日
イベント仕事の準備として、『 ネガティヴ・ケイパビリティで生きる 答えを急がず立ち止まる力 』(谷川嘉浩、朱喜哲、杉谷和哉/さくら舎)を再読する。
現代社会のさまざまなトピックについて、哲学や公共政策を専門とする若手研究者たちが語り合い、「ネガティヴ・ケイパビリティ」の価値を提言する本。SNSでの言葉の使い方やネット空間の意見の醸成のされ方、はては広告の炎上に至るまで、とにかくいろんなトピックについて扱っているところが読者を飽きさせずとても面白い。
「ネガティヴ・ケイパビリティ」の定義の説明は同書に譲ることにするが、私は同書を読んでいて「0か100かという極端な議論にふれないこと」もその能力のひとつなのかな、と感じた。さまざまな議論が濁流のようにSNSを通して押し寄せるなかで、0か100かどちらかに自分の意見がふれるのは簡単だ。しかしSNSの良いところでもあり悪いところでもあるのが、その意見によって人間関係が醸成されてしまう…という点だろう。
同書のなかでも「人間関係によって言葉遣いが決まってしまう」問題が綴られているが(詳しくはぜひ本を読んでみてほしい)、たとえば議論のA側の意見に賛成することが、A側の意見に賛成するグループの一員になることとイコールになったりする。そして人間関係を保つため、A側に賛成し続けてしまい、反対のB側を誹謗中傷してしまう…そんな構造をしばしば見かける。
その時、いかにAとBのどちらにも極端に振れず、できるだけ自分の意見をつくり続けられるか。それが「ネガティヴ・ケイパビリティ」の育成につながっていく。そしてそれは人間関係にのっとられすぎない方法、でもあるのかもしれない。
『昨夜の記憶がありません』で描かれた通り、休む、ということがもし「人間関係の喪失を許容する」ということなのだとしたら。自分の人間関係を休む勇気、というのもまた、現代社会をやっていくなかで重要なものなのかもしれない。というか、誰かとの人間関係を休んでも、それはその人との人間関係をやめることにはつながらない、という認識が重要なのかもしれない。なかなか難しいけれど。



