三国志マニア、研究者のニッポン放送アナウンサー・箱崎みどりさんによれば、三国志はラーメンみたいなものだという。味付けや素材の違いなどで膨大な数の関連作品が生まれているからだ。近年の三国志関連小説は、史書『三国志』を素材にしたものが多く、2023年10月に刊行された『諸葛亮』(宮城谷昌光著)もその一つだ。本書は「スーパーマン」孔明ではなく、「人間」孔明に焦点を当て、丁寧にその生涯を描く。他方で、史料には出てこない人物に重要な役割を与えているのも魅力だ。

三国志はラーメンに似ている

 私はよく言うのですが、三国志の多様性はラーメンに似ていると思います。

 一口にラーメンといっても、麺もスープもさまざま。全国各地のご当地ラーメンをはじめ、昔ながらの味もあれば、斬新なものも次々と登場しています。だからどれだけ食べても飽きないし、次はどんなラーメンに出合えるだろうという楽しみもある。三国志の世界もそんな感じです。

 もともとの『三国志』は、2~3世紀の中国の「三国時代」を記録した歴史書です。それが14世紀末ごろまでに、『三国志演義』(以下、『演義』)という小説に仕立てられました。こちらは「七割史実、三割虚構」といわれています。

 日本に入ってきたのは江戸時代。実は日本で最初に翻訳された外国の長編小説が『演義』です。その壮大なスケールや巧みな権謀術数が受けて、歌舞伎になり、川柳になり、ダイジェスト版やパロディーが刊行され、春画にもなります。

 さらに明治時代以降になると、主人公の一人、諸葛孔明(諸葛亮)の忠君ぶりがクローズアップされて、学校の教科書にまで登場しました。また、土井晩翠(ばんすい)の詩「星落秋風五丈原」や吉川英治の小説『 三国志 』(講談社ほか)をはじめ、多くの文学者や研究者によって、それぞれ独自の視点の作品が生み出されます。

 その勢いは戦後も続き、今日もなお衰えていません。陳舜臣の小説『 秘本三国志 』(文春文庫)や『 諸葛孔明 』(中公文庫)、横山光輝の漫画『 三国志 』(潮漫画文庫)、北方謙三の小説『 三国志 』(角川春樹事務所)などが代表例でしょう。

「三国志はラーメンに似ています」と語る箱崎みどりさん
「三国志はラーメンに似ています」と語る箱崎みどりさん
画像のクリックで拡大表示

 あるいは、映画になったり、アニメになったり、ゲームになったりします。「ガンダム」や「妖怪ウォッチ」のシリーズにも加えられました。どういうわけか、常に最先端のコンテンツに取り入れられる傾向があります。そのニーズに応じて、諸葛孔明をはじめとする多くの登場人物の描かれ方もバラエティー豊かです。端的に言えば、多くのクリエイターが孔明で遊んでいる感じでしょうか。

 そのうち1つでも気に入った“味”があれば、次々と登場する新しい“味”も試してみたくなる。だからラーメンと同様、三国志も根強い人気を誇っているのだと思います。

無名の登場人物たちが醸し出す重厚感

 そんな三国志の世界に、また新たな作品が登場しました。『 諸葛亮 』(宮城谷昌光著/日本経済新聞出版)です。著者は、かつて『 三国志 』(文春文庫)という超長編の大作も書かれていますが、本書は諸葛亮に焦点を当て、その生涯を丁寧に追った重厚な作品です。

『諸葛亮(上)(下)』(宮城谷昌光著)
『諸葛亮(上)(下)』(宮城谷昌光著)
画像のクリックで拡大表示

 巻末の「 連載を終えて(あとがきに代えて) 」にも書かれていますが、こだわったのは『演義』に登場する「超人」孔明ではなく、史書『三国志』をもとに「人間」孔明の実像に迫ること。

 もっとも史書の記述は淡泊で、矛盾もあります。そこから生まれる疑問や空白を埋めようと突き詰めていくうちに、この作品の構想が膨らんでいったそうです。そう聞くだけで、多くの三国志ファンは興味をそそられると思います。

 私も宮城谷先生の大ファンで、作品はほぼすべて読んでいます。好きなところの一つは、史書には残っていないものの、いたはずの人物に名前を与えて重要な役割を担わせている点です。

 過去の歴史も現代も、有名な人物だけで世の中が成り立っているわけではありません。何であれ大勢の無名の人が関わっています。宮城谷作品ではそうした人物がいきいきと描写されているので、物語に厚みを感じることができます。『諸葛亮』でも、その特徴は随所に発揮されています。

 特に前半では、今まであまり語られることのなかった、少年期から青年期にかけての家族との別れや、多くの仲間との出会いが丁寧に描かれています。個性豊かなそれぞれのキャラクターと諸葛亮とのからみ方が、大きな読みどころだと思います。

「泣いて馬謖を斬る」の真相は?

 中盤以降では、三国志の名場面が独自の解釈で次々と登場します。

 例えば終盤、ことわざとしても有名な「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」の場面。馬謖は軍略に関して大変な才覚の持ち主で、若い頃から諸葛亮に重用されました。そして後年、いよいよ魏(ぎ)に向けて進軍(北伐)する際、諸葛亮は先鋒の大将に馬謖を抜擢(ばってき)します。ところが馬謖は致命的な作戦ミスを犯して敗走。その責任を問うため、諸葛亮は泣く泣く馬謖を処罰した、というのが基本的なお話です。

 この判断に対し、これまで多くの歴史家や作家がさまざまな解釈を行ってきました。「有能な部下を斬るべきではなかった」とか「諸葛亮にも任命責任がある」など、否定的な意見も少なくありません。

三国志を題材にした作品はさまざまに刊行されている。今回紹介した『諸葛亮』(宮城谷昌光著)のほか、第2回以降で紹介する『孔明のヨメ。』(杜康潤著)、自著の『愛と欲望の三国志』を持つ箱崎さん
三国志を題材にした作品はさまざまに刊行されている。今回紹介した『諸葛亮』(宮城谷昌光著)のほか、第2回以降で紹介する『孔明のヨメ。』(杜康潤著)、自著の『愛と欲望の三国志』を持つ箱崎さん
画像のクリックで拡大表示

 では、宮城谷先生はこの場面をどう描いたのか。なぜ「斬る」という判断に至ったのか。それはぜひ読んで確かめていただきたいのですが、馬謖にも最期の“花道”を用意しつつ、嘆き悲しむ諸葛亮の姿が印象的です。しかもそれだけで終わりにせず、この一件が諸葛亮が仕える蜀(しょく)の兵の士気を高め、民心を一つにまとめるという流れを生み出します。

 これが、最終盤の怒とうの展開の伏線になります。一般的に、北伐は無謀な戦いだったとされています。蜀が圧倒的に戦力差のある魏に挑んでも勝ち目はほとんどないからです。実際に蜀は勝つことができず、さらに北伐は蜀の滅亡を早めたともいわれています。

 しかし『諸葛亮』を読んでいるうちに、そのことを忘れそうになります。このまま進めば、あるいは諸葛亮がもう少し生き永らえていれば、もしかしたら蜀が勝ったのではないか、という気にもさせてくれます。このあたりの迫真性も、宮城谷作品の醍醐味です。

史実回帰だからこそ創造力を生かせる

 まったく余談ながら、孔明に肩入れしたいファンにとっては、もし北伐で蜀が魏に勝っていたら、という世界を味わってみたくなります。その夢をかなえるように、20世紀前半の中国では『反三国志演義』(周大荒著)という小説が書かれました。日本では1991年に『超・三國志』(今戸栄一訳編/光栄)、『 反三国志 』(渡辺精一訳/講談社文庫)というタイトルで紹介されました。

 それによると、実は三国を統一したのは蜀だったとのこと。ところが、その事実は後の王朝にとって不都合だったため、史書が改ざんされて蜀の栄光は歴史から葬り去られたのだ、と主張しています。今風に言えば「陰謀論」、もしくは「トンデモ本」の一種ですが、ファンの方は留飲を下げることができます。

 これは極端な例ですが、今後も三国志に関連する作品が多数登場することでしょう。戦前までの作品が『演義』ベースだったのに対し、それ以降は、史書『三国志』を素材にする傾向があります。私は『演義』が大好きですが、『演義』による過大な脚色を排し、できるだけ史実に近づこうという作品も多いのです。

 ただ史実として残っているのは、大きな枠組みだけです。史実に血肉を通わせるのは、多方面のクリエイターの仕事です。私たちは、まだまだ多彩なラーメンを楽しめそうです。

(第2回に続く)

文:島田栄昭 取材・構成:桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真:木村輝

伝説化された“天才軍師”の実像に迫る

乱世に生きながら清新さ、誠実さを失わない、今まで見たことのない諸葛亮がここにいる。宮城谷版『三国志』完結から10年、ついに待望の作品が紡がれた。

宮城谷昌光著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)※上下巻とも